第15話 戻ってこいと言われましても
ロベルト様との公開模擬戦から、数日が過ぎた。
訓練班には、自分たちにも戦い方があるという手応えが残った。侯爵家嫡男は三分間の出力配分を保てず膝をついたが、私の腕にも火傷の包帯が巻かれている。大火力を見下してよい結果ではない。そのことも、隊長と一緒に皆へ伝えた。
その日の午後、私は自室の執務机で、一通の手紙を前に固まっていた。
「……王都の、お父様から」
封蝋には、見慣れたエルフェルト伯爵家の紋章が押されている。早馬で届けられたものだった。
手紙を手に取ると、指先が僅かに震えているのが分かった。
(私ったら、何を期待しているの)
震える手を左手で押さえつけながら、私は小さく自嘲した。
ロベルト様が王都へ戻り、私が構築した低燃費理論と部隊運用の報告が父の耳に入ったのだろう。無能だと見捨てて辺境へ追いやった娘が、確かな戦果を上げている。
それを知った父は、ようやく私を評価してくれるのではないか。
「よくやった」と、ただその一言を書いてきているのではないか。
どれだけ見返してやって気分が良かろうと、私はまだ、父の承認を欲しがっているのだ。褒められたい。認められたい。そんな子供のような未練が、胸の奥でくすぶっている。
私はペーパーナイフを滑らせ、震える息を吐き出しながら便箋を開いた。
そこに書かれていたのは、流麗だが冷ややかな父の筆跡だった。
『――クロイツ侯爵家からの報告を受けた。低魔力でも部隊として戦線を維持できるその戦術は、我がエルフェルト本家の領軍においても極めて有益なものと判断した』
そこまで読んで、私の心臓がドクンと鳴った。
評価された。私の理論が、父に。
『ついては、辺境の防衛など適当な部下に任せ、お前は直ちに本家へ戻れ。そして、その訓練法を我が家の騎士たちへ指導しろ。それがエルフェルトの娘としての、お前の責務である』
「…………」
私の体を気遣う言葉はなかった。ここで暮らす人々も、父の紙の上では「適当な部下」の一言で片づいている。
帰ってきてほしいのは、娘ではなく訓練法なのだ。
「……ははっ」
乾いた笑いが、ポツリとこぼれた。
期待した私が馬鹿だったのだ。あの日、魔力二十七という数字だけで私を切り捨てた父の価値基準は、一ミリも変わっていない。ただ、私の持っている数字(戦果)が役に立つと分かったから、回収しようとしているだけ。
私はすぐに真新しい便箋を取り出し、羽ペンにインクを浸した。
『お父様。現在、私は亡きお母様より引き継いだローヴェル男爵領の領主代行として、大魔潮へ向けた避難および防衛の総責任者を務めております。この職務を途中で放棄し、本家へ戻ることはできません。訓練法をお求めでしたら、本家からこちらへ騎士を派遣してください』
迷いはなかった。
成果だけを掠め取ろうとする家になんて、戻ってやる義理はない。
書き終えた便箋を封筒に入れようとした時、ふと、父の手紙の裏面に短い追伸が書かれていることに気づいた。
『追伸。セシリアは近頃頭痛が多いようだが、学院での勉強疲れだろう。お前も無駄な真似はせず、さっさと戻ってこい』
「セシリアが、頭痛……?」
その一文を目にした瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
妹のセシリア。学院の予備測定で824を記録した彼女。
大魔潮が近づき、ローヴェル周辺だけでなく、王国全体の環境魔力濃度が徐々に上昇し始めているとフェリクス殿下は言っていた。
容量が大きすぎる高魔力者は、大気中の濃い魔力圧の影響を極めて受けやすい。もしセシリアの頭痛が、ただの勉強疲れではなく、大気魔力の上昇による『魔法酔い』や、魔力暴発の前兆だとしたら。
「……っ」
セシリアへの嫉妬がないわけじゃない。優等生として振る舞う彼女の横顔を、妬ましく思ったことは何度もある。けれど、彼女が壊れてしまえばいいなどと願ったことは一度もない。
私は眉間を揉み解し、深い溜息と共に手紙を引き出しの奥へと仕舞い込んだ。
その日の夕食時。
私は領主の館の食堂で、いつも通りタンパク質を中心としたメニュー――豆のスープとゆで卵、そして薄くスライスした干し肉――を前にしていた。
しかし、スプーンを動かす手は酷く重かった。
父への拒絶で得た小さな優越感よりも、成果だけを求められた虚しさと、妹への不安が胃の腑に重くのしかかり、食欲を完全に奪っていた。
「……おや。今日は随分と、進みが遅いですね」
不意に、向かいの席から穏やかな声が降ってきた。
顔を上げると、いつの間にか食堂に現れていたフェリクス殿下が、私と同じ豆のスープの皿を前にして座っていた。彼は長旅と調査の疲れを見せることもなく、静かにスープを口に運んでいる。
「殿下……」
「何か、考え事ですか?」
「いえ……その、少し」
私は曖昧に言葉を濁した。
王都から手紙が来て、父に成果だけを求められて傷ついたなんて、そんな情けない弱音を口にするわけにはいかない。私は強い指導者としてのペルソナを保たなければならないのだ。
殿下は、私の手元で冷めかけているスープと、私が無理をして作った笑顔を交互に見つめた。
何も聞かず、自分の皿からゆで卵を一つ取り、私の小皿へ転がした。
「え?」
「食事が進んでいませんね。でも、休養と栄養もメニューの一部だと、厳しい教官が言っていたはずですが」
殿下はふわりと微笑み、それ以上私の心に踏み込もうとはしなかった。
「……っ」
父の手紙の話をしたら、泣いてしまいそうだった。今は卵の殻だけ見ていられることが、ありがたかった。
「……そうですね。食べないと、筋肉が、いえ、魔力経路が修復されませんから」
私は誤魔化すように鼻をすすると、殿下がくれたゆで卵の殻を剥き始めた。
冷めかけていたはずのスープが、温かく、じんわりと胃袋に染み渡っていくのを感じながら。




