第12話 触れないと測れません
「……手首や背中の肌に、直接触れる」
訓練場でのフェリクス殿下の言葉を反芻し、私は自室のベッドの上で膝を抱えていた。
頭の中で、危険を知らせるアラートがガンガンと鳴り響いている。
前世のプロボディビルダーとしての私は、大会に向けたピーキングや筋肉の限界管理には絶対の自信を持っていた。だが、こと「色恋沙汰」に関しては、全くの素人だった。失恋しそうになればバーベルを上げ、寂しさを感じれば鶏胸肉を茹でて感情を物理的な負荷へと逃がしてきたからだ。
怒りなら訓練へ逃がせる。けれど、触れられる前から速くなったこの脈は、何に使えばよいのだろう。
フェリクス殿下の、長い銀糸の髪。
私の努力を数値として見て、信じてくれるあの眼差し。
彼の手が私の素肌に触れるという状況を想像しただけで、胸の奥がキュッと締め付けられ、体温が急上昇するのを感じる。
魔力酔いではない。風邪でもない。これは、どう客観的に分析しても――。
(……好きになってしまったのね。私)
ベッドの上で転げ回りたくなる衝動を、私は大腿四頭筋に力を込めて必死に堪えた。
恋心だ。自覚してしまった。
だが、正解のない「感情」に耐えるのは、極限の減量期よりも辛い。私は無意識のうちに、この制御不能な感情を「解決すべき課題」へと変換し始めていた。
「ミラ、聞いてちょうだい」
私はベッドから飛び起き、机に向かって羽ペンを握った。
部屋の隅で洗濯物を畳んでいた侍女のミラが、嫌な予感がすると言わんばかりの顔でこちらを向く。
「明日の午後、フェリクス殿下の研究室で接触による魔力経路の測定が行われるわ。私は今から、そのための『最適対応フローチャート』を作成します」
「……はい?」
「殿下の手が私の手首に触れた際の会話候補パターンを、想定される殿下の反応別にAからLの十二通り用意するわ。それに、心拍数の上昇を悟られないための呼吸法、そして背中を触られた際に不自然にビクッとしないための、僧帽筋と広背筋の完全な脱力法。これらを今夜中に身体に叩き込むのよ」
私が真顔で計画を語ると、ミラは手に持っていたタオルをパサリと床に落とした。
「お、お嬢様……。まさかとは思いますが、殿下に恋をしているのですか?」
「その事実を認めた上で、私はこの感情の乱れを最適化しようとしているの」
「お嬢様、お願いですから恋愛を研究発表にしないでください」
ミラは深々と溜息をつき、頭を抱えた。
「会話のパターンなんて用意しても、絶対にその通りにはいきませんよ。もっと自然に、可愛らしく恥じらってみせれば殿下も喜ばれるでしょうに……」
「恥じらう? そんな制御不能なリアクションで不測の事態を招くわけにはいかないわ。見ていなさい、明日は私の完璧なシミュレーションとフォームで、この事態を乗り切ってみせるから」
そして翌日の午後。
ミラと共に仮設研究室へ入った私は、開始数分で自分のシミュレーションがどれほど無意味だったかを思い知らされていた。
「では、リディア嬢。まずは手首の内側から経路を探ります。少しだけ、冷たいかもしれません」
「は、はい。どうぞ、よしなに……」
よしなに? なんだその変な敬語は。
殿下が向かい合わせに座り、私の右手をそっと持ち上げる。彼の手袋を外した長く美しい指が、私の手首の内側、脈打つ薄い皮膚の真上に触れた。
ヒヤリとした体温の低さに反して、そこから流れ込んでくる微弱な探査魔力は、熱を持っていた。
「っ……」
ビクン、と私の肩が跳ねる。
ダメだ。パターンAの「魔力の流れが心地よいですね」も、パターンCの「何か特異な波形はありますか?」も、まったく喉から出てこない。心臓が早鐘のように打ち、用意していた呼吸法など一瞬で吹き飛んでしまった。
「……リディア嬢? 妙ですね、脈拍が異常に速い。それに筋肉が強張って、魔力経路が狭まっています。体調が優れませんか?」
殿下が私の顔を覗き込み、心配そうに眉を寄せる。
「い、いえっ! これはその、プレワークアウトの……いや、交感神経が優位になっているだけでして!」
「プレ……何です? 交感神経? 聞いたことのない術式ですが」
「お気になさらず! 次、背中ですね! 背中をどうぞ!」
私はパニックを起こし、椅子に座ったまま勢いよく背中を彼に向けた。
今日のドレスは、測定のために背中の上部が少し開いたものをミラに選ばされていた。殿下の指先が、私の肩甲骨の間、背骨のラインに沿って這うように触れる。
「ひゃっ」
「いったん止めますか?」
「いえ……続けてください。今度こそ、肩を下ろします」
私が向き直るのを待って、殿下は指を置き直した。
背中に触れる指へ、意識が全部集まってしまう。肩を下げるつもりが、ますます丸まった。
「……終わりましたよ」
殿下が手を離した。私は顔を覆っていた手を下ろせず、しばらくそのまま座っていた。
「すみません、殿下。私が緊張してしまったせいで、正確なデータが取れなかったのでは……」
「いいえ、十分に有意義なデータが取れました」
殿下は手元の羊皮紙に素早く図を書き込みながら、満足げに頷いた。
「君の魔力経路は、一般的な高魔力者と比べて細く、そして分岐が少ない。だからこそ、一度に大量の魔力を流そうとするとすぐに熱を持ち、経路が悲鳴を上げるのでしょう」
「タンクが小さいだけでなく、パイプも細いということですね」
「ええ。ですが、君が自らに課している『一定量使って完全に停止し、休養を挟む』という運用――君の言葉で言う『インターバル』ですね。あれは、この細い経路を保護し、疲労を回復させる上で極めて理にかなっています」
殿下はペンを置き、真剣な眼差しを私に向けた。
「実のところ、君のその『休止を挟む』という考え方に、私はある一つの符号を見出していましてね」
「符号、ですか?」
「ええ。先日、二人で高台から観測した、森の古塔のことです」
殿下は机の端に置かれていた、古い文献の束をトントンと指で叩いた。
「あの塔が魔力を吸い上げ、あるいは逃がしていることは間違いない。王立魔導研究院の書庫から取り寄せた過去の文献を照合した結果、あの塔の内部機構には、魔力を流し続けるためだけの設計ではない、ある意図的な『刻み』が存在しているらしいことが分かりました」
「刻み……?」
「はい。魔力の流れを一時的に遮断し、機構を休ませるための『休止』の刻みです」
私は目を見開いた。
人間の身体の魔力経路を守るための、インターバル。
それと同じ思想が、古代の魔力制御塔の設計に組み込まれているというのか。
「あの塔は、ずっと動き続けるようには作られていない。まるで生き物のように、呼吸をし、休むことを前提としたシステムなのです。……これは、大魔潮に立ち向かう上で、極めて重要な鍵になるかもしれません」
「塔にも、休養が必要……」
私は呆然と呟いた。
謎の断片が、私の『限界管理』の理論と少しずつ結びつき始めている。
私の胸のドキドキは、いつの間にか恋の緊張から、未知の理論を解き明かす高揚感へと変わっていた。
「分かりました、殿下。私にできることがあれば、何でも協力させてください」
「頼もしいですね。ですがその前に、まずは明日の『ローヴェル魔力訓練班』の初演習ですね」
殿下がクスクスと笑いながら、私の顔を覗き込んだ。
「明日は、今日のように背中を丸めて動きを崩さないように。教官がそれでは、示しがつきませんよ」
「う……っ」
今日の私のポンコツぶりをからかわれ、私は再び顔から火が出る思いで俯くしかなかった。




