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歴史を修正しないと出られない部屋  作者: 久能のの
五稜郭に落ちる誠の火

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2話

 彼女の揺るぎない決意を前にしては、昌幸もこれ以上パニックに陥って嘆いているわけにはいかなかった。行き場を失った絶望感を重い溜息とともに吐き出すと、彼は諦めたように立ち上がり、部屋の隅にぽつんと置かれた古びた木製のタンスの前へと歩み寄った。


「土方歳三がなぜ降伏という道を選んだのか。その理由を突き止めるわ。稗田くん、資料を出して」


 背後から飛んできた西園寺青の指示は、いつものように感情の起伏を感じさせない、刃物のように冷ややかで事務的な響きを持っていた。

 彼女の切れ長の瞳は、先ほどまでは確実に激しく揺れ動いていたはずだった。推しである土方歳三が、史実通りの誇り高い戦死を遂げず、降伏して生き恥を晒すような結末を迎えたという事実。それが彼女の歴史観に対する最大の冒涜であり、同時に彼が生き延びて寿命を全うしたことへの純粋な喜びという、相反する感情が彼女の心を嵐のように掻き乱していたのを、昌幸は確かに見ていた。

 だが、今の青の横顔には、そんなオタクとしての激しい動揺や脆弱さは微塵も残されていない。彼女はすでに、荒れ狂う感情を分厚い氷の下へと完璧に封じ込めていた。この不条理な密室から生きて脱出するためには、改変された歴史の歪みを正すしかない。彼女は自らに課せられた司令塔としての役割を、一切の妥協なく遂行しようとしているのだ。


 昌幸は無言でこくりと頷き、タンスの錆びついた取っ手に手を掛けた。

 このタンスは、単なる古めかしい収納家具ではない。引き出しを開ける者の深層心理にある願望を具現化し、形にして吐き出すという、底知れぬ危険性と利便性を併せ持つ不可思議な装置だ。前回の山崎の戦いでその法則を身をもって思い知った昌幸は、不用意な雑念が混じらないよう、己の思考を刃の切先のように鋭く研ぎ澄ませた。


(頭の中に思い描くのは、ただ一つだ……)


 彼は目を閉じ、脳裏に明確なイメージを結ばせる。「箱館戦争の末期、旧幕府軍のナンバーツーであった土方歳三が、いかなる経緯で徹底抗戦を諦め、降伏に至ったのか。その詳細な理由と過程が記された、あらゆる歴史資料」と。一言一句を心の中で強く念じながら、昌幸は慎重に引き出しを手前へと引いた。


 ギィィ……と金属の軋む音と、ゴトゴトという乾いた木擦れの音が混ざり合いながら、引き出しがゆっくりと開いていく。

 その途端、無臭だったはずの白い部屋に、むせ返るような古い紙と墨の匂い、そして微かなカビの臭いが立ち込めた。引き出しの中に収まっていたのは、色褪せて茶色く変色した和綴じの古文書や、細かい活字がびっしりと印刷された分厚い専門書、そして当時の戦況や軍の配置を記録したと思われる、膨大な紙の束だった。

 昌幸はそれらの資料を両腕いっぱいに抱え上げると、何もない真っ白な床の上へとドサリと音を立てて広げた。埃が微かに舞い上がり、蛍光灯のような冷ややかな光に照らされる。


 そこから、気が遠くなるような、そして終わりが見えない文字との格闘が始まった。

 二人は冷たい床に座り込み、タンスから引き出した大量の資料の山に埋もれるようにして、活字の海へと深く潜り込んでいった。


 時計の存在しないこの隔絶された空間では、太陽の傾きも感じられず、時間の経過すら曖昧になっていく。数十分が経過したのか、あるいはすでに数時間が過ぎ去ってしまったのか。ただ紙が擦れるカサッという乾いた音と、二人の微かな息遣いだけが、部屋の空気を僅かに震わせていた。


「くそっ……全然わかんねえ……」


 昌幸は疲労で霞み始めた目をゴシゴシと力強くこすり、凝り固まった首の筋をポキポキと鳴らしながら伸ばした。

 活字がゲシュタルト崩壊を起こし、意味を持たない黒い虫の群れのように見え始めている。読んでも読んでも、目に飛び込んでくるのは、新政府軍の圧倒的な兵力配置や、旧幕府軍の絶望的な物資のやり取り、日々の天候といった細々とした記録ばかりだ。かの有名な「鬼の副長」であり、最期まで徳川への忠義を貫いた土方歳三が、自らの滅びの美学や武士としての矜持をへし折ってまで、降伏という道に傾いた決定的な理由が、どうしても見えてこない。


 だが、どれほどの膨大な時間を消費した頃だろうか。

 隣で、まるで精密機械のような凄まじい集中力を保ったまま資料を読み解いていた青の手が、ふと止まった。


「……なるほど。そういうことだったのね」


 果てのない静寂を切り裂いた彼女の声には、張り詰めた糸のような微かな震えと、愛する英雄の無念を思い遣るような、深い苦渋の色がはっきりと滲んでいた。昌幸は弾かれたように手元の資料から顔を上げ、彼女の横顔を見た。


「見つけたのか? あの土方歳三が、戦いを諦めて降伏した理由が」

「ええ。彼が徹底抗戦を諦め、降伏を選ばざるを得なかった直接的な原因よ」


 青は手元にあった一冊の古びた記録から顔を上げ、昌幸を真っ直ぐに見据えた。その切れ長の瞳には、絶望的な事実を突きつけられた痛切な色が宿っており、彼女がどれほど土方の心情に寄り添っているかが窺えた。


「火薬よ」

「火薬……?」

「そう。極端な火薬の不足よ。それによって、軍の継戦能力が完全に喪失してしまったの」


 その短くも重い言葉を聞き、昌幸の思考の中に、一つの明確な絶望のビジョンが広がっていった。

 刀や槍を振り回して個人の武勇を競う時代は、とうの昔に終わっている。銃器と大砲が戦場の主役となった近代戦において、弾薬の枯渇は文字通り軍隊の「完全なる死」を意味する。どれほど兵士の士気が高くとも、どれほど指揮官の戦術が優れていようとも、銃を構えて撃つ弾がなく、大砲に詰める火薬がなければ、ただの一発も反撃することはできない。圧倒的な火力を誇る新政府軍の前に、丸腰で立ち向かうようなものだ。

 物理的に戦う術を完全に奪われてしまえば、軍の指揮官として取れる選択肢は、事実上一つしか残されていない。無に等しい戦力で、兵士たちを無駄死にさせるわけにはいかないのだ。


(……だから、降伏したのか)


 昌幸は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。土方歳三が己の信念を曲げてでも、降伏という最も屈辱的な決断を下さなければならなかったのは、その極端な火薬不足による継戦能力の喪失が原因であったのだ。総指揮官としての責任感が、武人としての死に場所を奪ったとも言える。


「火薬の不足……でも、旧幕府軍も馬鹿じゃないわ。そこまで決定的に火薬が枯渇するような事態に、理由もなく陥るはずがない。必ず引き金になった出来事がどこかに記されているはずよ」


 無機質な白い部屋に、青の冷ややかな、しかし焦燥を帯びた声が響いた。彼女は呟きながら、分厚い資料のページをさらに深く、執念のように辿っていく。活字の海を素早く泳いでいた彼女の白魚のような指先が、ある一文の上でぴたりと止まり、強く紙面を押し付けた。


「これだわ……!」


 微かに震える声に、昌幸も身を乗り出して彼女の手元を覗き込んだ。当時の細かな記録をさらに辿っていくと、そこには信じがたい記述があった。


『明治二年五月十一日の未明、五稜郭の火薬庫が大規模な爆発を起こして焼失』。


「火薬庫の爆発……? そんな出来事、歴史の授業でも、幕末のドラマでも聞いたことがないぞ」


 昌幸が訝しげに眉をひそめ、青の顔を下から覗き込むように見上げると、青は血の気の引いた青白い顔で、ゆっくりと、重々しく頷いた。


「ええ、私の記憶にもないわ。それもそのはずよ。史実における明治二年五月十一日は、新政府軍が箱館への総攻撃を開始した日であり、本来の土方は五稜郭を出て一本木関門へ出撃し、馬上で腹部に銃弾を受けて戦死しているはずだったの」


 その日付が意味する歴史の重さに、昌幸もはっと息を呑んだ。

 幕府軍の敗色が濃厚となる中、榎本武揚ら他の最高幹部が次々と降伏を選択する状況において、旧幕府軍の幹部クラスで戦死したのは、史実では土方歳三ただ一人である。彼は一本木関門で敗走する味方を叱咤し、最後まで剣と銃で抗い続け、三十五年の生涯を凄絶に閉じたはずなのだ。


 静まり返った密室の中で、点と点が一本の明確な線となって繋がっていく。

 本来ならば、その日の朝に彼は死地に赴き、誇り高く散るはずだった。だが、この歪んだ世界では、彼が出撃する直前の未明に火薬庫が爆発し、軍の継戦能力が完全に失われてしまったのだ。戦うための手段を根こそぎ奪われたことで、彼は一本木関門への出撃を取りやめざるを得なくなり、武人としての死に場所を失った。そして、降伏という最も忌み嫌う結末を受け入れ、新政府の役人として生き長らえることになったのだ。


「つまり……この史実には存在しない火薬庫の爆発こそが、彼の戦死を阻み、降伏へと歴史を改変した決定的な特異点であると断定できるわ」


 青の薄い桜色の唇から紡ぎ出された結論が、冷たい空気の中に溶けていく。彼女の切れ長の瞳には、愛する英雄の運命を無残に狂わせた特異点を見つけ出したという、静かだが激しい光が宿っていた。


「火薬庫の爆発……」


 昌幸は床に広げられた資料を睨みつけたまま、重苦しい声で呟いた。

 歴史を狂わせた特異点は特定できた。本来なら戦死するはずだった英雄の運命をねじ曲げ、降伏へと追い込んだ致命的な出来事。それは、明治二年五月十一日の未明に起きた、五稜郭火薬庫の大規模な爆発と焼失だ。これを防げば、土方は史実通りに死ぬ。


 だが、問題はそこからだった。

 爆発したという事実を防ぐためには、その原因を知らなければならない。二人は再び何もない白い部屋の床に座り込み、タンスから吐き出された膨大な古文書や専門書のページを執念深くめくり続けた。活字の海に潜り、当時の戦況報告や細かな記録の隅々に至るまで目を光らせた。

 火薬の管理状況はどうだったのか。新政府軍の動きは。天候は。不審者の目撃情報は。あらゆる可能性を考慮して文字を追う。


 しかし、火薬庫が爆発したという結果ばかりが淡々と記されているだけで、どれだけ残された歴史資料を読み込んでも、なぜ火薬庫が爆発したのかという根本的な原因については、ただの一言も記述されていなかったのだ。


「……駄目ね。どこにも載っていないわ」


 張り詰めた沈黙を破ったのは青だった。

 彼女は手元にあった分厚い記録集をパタリと閉じ、陶器のような白い指で疲れたように目頭を強く押さえた。その整いすぎた顔立ちには、推しの運命を自らの手で正さなければならないという重圧と、一向に手がかりを掴めない焦燥感が微かに、しかし確実に滲んでいた。


「原因不明ってことか? 新政府軍の工作員が密かに忍び込んで火を放ったのか、撃ち込まれた砲弾が偶然直撃したのか、あるいは内部の裏切り者の仕業か……。何か一つくらい、推測や噂話でも書かれていそうなもんだろ」

「それがないのよ。結果としての大規模な爆発は歴史に明確に刻まれていても、その火種がどこから来たのか、誰が引き起こしたのかまでは、当時の人間の誰にも分からなかったということね」


 青は静かに首を横に振った。

 この閉鎖空間のタンスは万能に見えて、あくまで過去に存在した記録や願望を具現化しているに過ぎない。歴史そのものに記録が存在しない以上、これ以上の原因究明は不可能だと判断せざるを得なかった。文字の羅列から真実を導き出そうとする彼らの試みは、完全な行き止まりの分厚い壁にぶつかっていた。


「なら、どうするんだよ。原因が分からないんじゃ、対策の立てようがないぞ。バケツを持って待ち構えればいいのか、それとも犯人を捕まえればいいのかすら分からない。丸腰で戦場に放り出されて、運任せで走り回るなんて御免だ。ここは大人しく、タンスの奥にまだ役立ちそうな資料が残っていないか隅々まで探してみるか、何か別の手がかりを……」


 昌幸は忌々しげに頭を掻きむしり、弱音を吐き出した。

 だが、そんな彼の抗議をよそに、青は音もなくゆっくりと立ち上がった。彼女の切れ長の瞳が、部屋の中央に鎮座する異様な機械――タイムマシンを真っ直ぐに射抜いていた。

 その視線の意味を悟り、昌幸の背筋に氷のような冷たい汗が伝い落ちる。


「嘘だろ……。西園寺、お前まさか」

「ここで文字を追っていても、永遠に答えは出ないわ。なら、直接現場で確認するしかないでしょう」


 青の冷ややかな声が、無機質な空間に響き渡った。

 迷いのないその口調は、すでに思考のフェーズを終え、実力行使の決断を下した絶対的な司令塔のそれだった。


「歴史を修正するには、原因を絶つしかない。このタイムマシンを使用して、爆発が起きる直前の時間へ跳躍する。そして、現場である五稜郭で直接原因を突き止めて、何としてでも爆発を阻止する。それ以外に、私たちがここから出る方法はないわ」

「……マジで言ってんのかよ。敵の大軍に完全に包囲されてる、総攻撃直前の要塞だぞ。そこら中で大砲がぶっ放されて、人が死にまくってるど真ん中に行くなんて、自殺しに行くようなもんじゃないか」


 昌幸は立ち上がり、必死の形相で彼女に食ってかかった。高校生が二人で出向いてどうにかなるような場所ではない。それは文字通りの地獄なのだ。

 だが、青は昌幸の必死の抗議を、冷ややかな一瞥だけで切り捨てた。


「他に選択肢があるなら聞かせてほしいわね。それとも、私と永遠にこの白い部屋で二人きりの時間を満喫したいとでも言うのかしら? 気持ちは分からないでもないけれど、私はご免よ」


 辛辣な毒舌と共に突きつけられた結論と、彼女の瞳の奥に燃える揺るぎない執念の炎に、昌幸は特大の溜息を吐き出すしかなかった。

 記録が存在しないのなら、自分たちの目で見て止めるしかない。あまりに乱暴で、狂気に満ちた方針転換だった。だが、このふざけたゲームをクリアし、元の日常へ帰還するためには、その命がけの跳躍を受け入れるしかなかったのである。

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