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歴史を修正しないと出られない部屋  作者: 久能のの
五稜郭に落ちる誠の火

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3話

 タイムマシンを利用して過去へと跳躍する。


 西園寺青の口から放たれたその無謀とも言える決断の直後、二人を閉じ込めているこの白い部屋を支配する人工的な静寂は、先ほどよりもさらに重く、息苦しいものへと変質していた。

 無機質な蛍光灯のような冷ややかな光の下で、昌幸は床に散乱した色褪せた古文書の束を見下ろしながら、胃の腑の底から込み上げてくるような重い溜息を吐き出した。


「過去へ飛んで直接止めるって……口で言うのは簡単だけどな。原因がまったく分からない状態で、どうやって火薬庫の爆発なんていう大惨事を防ぐんだよ」


 昌幸の掠れた言葉には、当然の危惧と、脳裏にこびりついて離れない拭い切れない恐怖が色濃く含まれていた。明治二年の五稜郭といえば、周囲を新政府の大軍に完全に包囲され、いつ総攻撃の火蓋が切られてもおかしくない極限状態の要塞である。そんな血みどろの戦場に、平和ボケした丸腰の高校生が放り出されるのだ。いつ、どこから、どのような手段で火薬庫が狙われるのか、あるいは工作員の仕業ではなく単なる不慮の事故なのかも分からないまま、歴史を変えてしまうほどの巨大な爆発を未然に防がなければならない。それは文字通り、暗闇の中で目隠しをしたまま真剣白刃取りを要求されるような、理不尽極まりない絶望的なミッションだった。


 対する青は、乱れた艶やかな長い黒髪を真っ白な指先で静かに払うと、昌幸の抱くもっともな不安を一刀両断に切り捨てるように、冷徹な司令塔としての顔を向けた。


「情報がないことをここでいくら嘆いていても、状況は一ミリも好転しないわ。根本的な原因が歴史資料から特定できない以上、私たちが取るべき手段は一つしかない。火災や戦闘など考えうるすべての要因をリストアップして、そのすべてに対する防衛策を幾重にも張り巡らせるのよ」

「全部に対する防衛策って……机上の空論を言わないでくれ。俺たちはたった二人の高校生なんだぞ。何が起きるか分からない戦場で、軍隊みたいな完璧なリスク管理なんてできるわけがない」

「だからこそ、一切の無駄を省いた完璧なプランニングが必要なのよ。泣き言を言って思考を止めないで」


 青は無機質な白い床に座り直し、凛とした所作で細い指を一本立てた。その切れ長の瞳の奥には、愛する英雄の不名誉な結末を己の手で書き換えるという、静かだが恐ろしいほど激しい執念の炎が赤々と灯っている。


「まず、最も可能性が高いケース。『工作員による意図的な放火』ね。新政府軍の忍びの者か、あるいは内部に寝返った裏切り者が、夜の闇に紛れて火薬庫に火を放つ。戦術としては極めて定石だわ」

「暗闇に紛れて忍び込んでくるプロの兵士を、俺たちだけで見張り切れるのか? 万が一鉢合わせたら、問答無用で斬り捨てられて終わりだぞ」

「ええ。だから、私たち自身が矢面に立って直接戦闘を行うのは絶対に避けるべきよ。重要なのは、暗闇の中でも不審者の接近にいち早く気付ける『早期警戒の仕組み』を用意すること。そして、相手の行動を物理的に阻害し、騒ぎを起こす手段ね」


 昌幸は一つ頷き、続く言葉を待った。青は二本目の指をすっと立てる。


「次に、『外部からの延焼』のケース。激しい戦闘の余波で放たれた火矢や砲弾が火薬庫の周辺に落ちて、そこから燃え移る可能性。あるいは、見回りの兵士による単なる失火というヒューマンエラーの線も捨てきれないわ」

「火事か……」


 昌幸は顔をしかめた。


「当時の建物は当然木造だし、何より中身は大量の火薬だ。一度火がついたら、あっという間に手がつけられなくなる。初期消火に失敗したら、俺たちごと木端微塵だな」

「その通りよ。だから、火の粉が火薬に触れるのを防ぐための防護策と、火の手が上がった瞬間にそれを完全に封じ込める、即効性のある確実な消火手段が絶対に必要になるわ」


 青はそこで言葉を区切り、より深刻な表情を浮かべて三本目の指を立てた。


「そして、最悪の事態も想定しておくべきね。火の手が迫り、私たちの消火能力を上回ってしまった場合。あるいは、爆発の危険が迫っているのに、どうしても火を消し止められない状況に陥った時よ」

「……そうなったら、大量の水を運ぶか、火薬そのものを安全な場所へ物理的に移動させるしかない、か」


 昌幸が先を読んで答えると、青は「ご名答」とばかりに頷いた。


「火薬の入った樽や箱なんて、尋常じゃない重さだぞ。俺たち二人で、火事場泥棒みたいに担いで逃げるってのか?」

「体力と腕力が必要になれば、実働部隊であるあなたの出番よ。その無駄に有り余っているエネルギーを、土方歳三の誇り高い死に場所を守るために最大限に活用しなさい」

「俺の体力は推し活の道具じゃないっての……」


 昌幸は呆れて肩をすくめたが、反論の余地はなかった。

 工作員による暗躍、戦闘による延焼、ヒューマンエラーによる失火、そして最悪の事態における強行突破。原因が不明であるという最悪の条件の中で、歴史の特異点を守り抜くための多角的な防衛方針は、次第に明確な輪郭を帯びてきた。


 あとは、これらすべてのケースに対応するための、具体的な「解決の糸口」をこの白い部屋から調達するだけだった。


 昌幸はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅にぽつんと置かれた古びた木製のタンスへと歩み寄った。

 前回の山崎の戦いで、このタンスの引き出しを開けた時の記憶が脳裏をよぎる。この一見何の変哲もない昭和の遺物は、単なる便利な道具箱などではない。引き出しに手を掛けた者の深層心理を読み取り、その時の赤裸々な願望を具現化して形にして吐き出すという、極めて悪趣味で危険な装置なのだ。不用意な雑念が少しでも混じれば、取り返しのつかない事態を引き起こしかねないことを、昌幸は痛いほど理解していた。

 だからこそ、昌幸はタンスの前に立ち、錆びついた取っ手に手を掛ける前に、一度深く深呼吸をして己の精神を限界まで研ぎ澄ませた。


(工作員の侵入をいち早く知らせるための『鳴子』。外部からの延焼を防ぐための『むしろ』。大量の水を運び、最悪の場合は火薬を運搬するための『背負子しょいこ』。そして、初期消火に必須となる『縄付きの水桶』……)


 先ほどの青との議論でまとまった、防衛策に必要なアイテムだけを頭の中に強烈に思い描く。一切の不純な思考や煩悩を締め出し、純粋な生存とミッションクリアのための渇望だけをタンスへと叩きつけるように念じた。


「……頼むぞ」


 祈るような呟きと共に、昌幸は思い切り引き出しを手前へと引いた。

 ギィィ……と金属が軋む音に続いて、ゴトゴトという重たい木擦れの音が響き、無臭だった真っ白な空間に、古い木の匂いと乾いた草の匂いがふわりと漂う。


 昌幸は恐る恐る引き出しの中を覗き込み、深い安堵の溜息を漏らした。

 そこには、彼が脳内でリストアップした通りの品々が、所狭しと詰め込まれていた。いずれも現代のプラスチック製品ではなく、明治期の五稜郭で持ち歩いても不自然ではない、時代考証をクリアした古びた素材で作られていた。


「さすがね。相変わらず、都合の良いものが揃っているわ」


 青が背後から覗き込み、感心したように頷いた。彼女はこのタンスの恐ろしい「願望具現化の法則」に気がついていないため、純粋にこの部屋のゲームマスターが用意した親切な支給品だと信じて疑っていないようだ。

 昌幸はタンスからアイテムを一つずつ取り出し、白い床の上に並べていく。だが、最後に引き出しの奥から出てきたものを見て、彼は僅かに眉をひそめた。

 それは、罪人を縛り上げるための、太く頑丈な「捕縄」だった。


「不審者を捕縛するための縄か……。確かに工作員を捕まえるなら必要かもしれないけど」


 昌幸はその捕縄を手に取ると、少し考え込んだ後、明確に首を横に振った。


「いや、やっぱりこれは無しだ。俺たちはただの高校生だぞ。刃物を持った暗殺者や歴戦の兵士を相手に、生け捕りにして縄を打つなんて手荒な真似、現実的じゃない」

「……妥当な判断ね。私たちが直接戦闘に巻き込まれるリスクは、極限まで減らすべきよ」


 青も昌幸の意見に同意し、冷ややかに頷いた。

 昌幸はその捕縄をタンスの引き出しの中へと放り投げようとして、ふと手を止めた。


 必要な四点以外に、自分が全く思い描いていなかった異物が引き出しの奥に紛れ込んでいることに気づいたのだ。見覚えのある浅葱色の布地――新選組の隊服が二着。白い山形のダンダラ模様が染め抜かれたそれは、ご丁寧に綺麗に畳まれている。


「なんだこれ……どうして新選組の羽織なんて混ざってるんだ」


 タンスは使用者の深層心理の願望を具現化する装置だ。すでにその法則を身をもって思い知っていた昌幸は、確実に火薬庫を守るための道具だけを強くイメージしたはずだった。昌幸の願望ではないとすれば、理由は一つしかない。


 昌幸はゆっくりと背後を振り返り、西園寺青の顔を見た。

 青はいつもの氷のように冷ややかで隙のない表情を保とうとしていたが、その切れ長の瞳はタンスの中の浅葱色の羽織に釘付けになっていた。陶器のように白い頬には、隠しきれない微かな高揚感が朱を差している。

 これは、重度の歴史オタクであり新選組や土方歳三に対して崇拝に近い感情を抱いている青の、無意識の願望が具現化してしまった結果なのだろう。これから推しが戦う五稜郭へと赴くのだ。彼女の強烈な憧れが、強力な念となってタンスの機能に干渉してしまったに違いない。


 だが、タンスの願望具現化の法則に気がついていない青は、自身のオタクとしての願望が漏れ出た結果だとは微塵も思っていなかった。彼女はゆっくりとタンスに近づくと、宝物でも扱うかのような手つきで隊服を拾い上げた。


「素晴らしいわ。必要な道具だけでなく、潜入用の装備まで用意されているなんて」


 青は、単に都合の良いものが入っていてラッキーだと思い込み、当然のような顔をして頷いた。


「新政府軍に完全に包囲された五稜郭の内部に潜入するのよ。現代の制服のままでは一目で怪しまれるわ。これは敵の目を欺くためのカモフラージュよ」


 もっともらしい理屈を並べて敵の目を欺くためのカモフラージュだと強弁する彼女の瞳は、推しの組織の制服を着られるという喜びでキラキラと輝いていた。

 昌幸は喉まで出かかったツッコミを、必死に飲み込んだ。ここで『タンスは開けた者の深層心理を具現化する』という法則を明かしてしまえば、鋭い彼女のことだ。「では、前回あなたがタンスを開けた時、本当は何が出てきて、何を隠したのか」と理詰めで追及されかねない。結果として、自らの煩悩で媚薬を出してしまったあの不祥事を自白させられる危険があるからだ。


 青は躊躇うことなく、純白のブラウスとプリーツスカートの上から、その浅葱色の羽織にバサリと袖を通した。圧倒的な美貌を持つ彼女と、血生臭い新選組の隊服という組み合わせはひどくミスマッチだったが、本人はどこか誇らしげに羽織の襟を正している。


「さあ、稗田くんも早く着なさい。時間を無駄にはできないわ」


 言われるがままに昌幸も隊服を羽織ると、二人は互いの姿を確認し、静かに頷き合った。


 昌幸は、白い床の上に広げられた水桶や分厚い莚といった大量の荷物を、頑丈な背負子へと手際よく括り付けていった。現代の便利なリュックサックとは勝手が違うものの、縄をきつく縛り上げる手つきには迷いがない。すべての荷物を固定し終えると、昌幸は「よっ、と」と低く声を漏らしながら、ずっしりとした重量を持つ背負子を背負い上げた。肩に深く食い込む荒縄の感触と荷物の重みが、これから向かう戦場の過酷さを生々しく実感させる。


 準備を完全に終えた二人の視線は、無機質な部屋の中央に鎮座するタイムマシンへと向けられた。


「行くわよ、稗田くん」


 青の冷ややかで隙のない声が、静寂の空間に響く。新選組の隊服に身を包んだ彼女の切れ長の瞳には、愛する英雄の運命を己の手で正すという、静かだが激しい決意の炎が揺らめいていた。昌幸は無言でこくりと頷き、重い荷物にバランスを崩さないよう慎重な足取りで、タイムマシンの窮屈な座席へと身を沈めた。


 目指す座標はただ一つ。歴史の特異点であり、五稜郭の火薬庫が致命的な爆発を起こす直前の時間――明治二年五月十一日の未明である。


 青がコンソールのスイッチを入れると、無機質な電子音とともに機械が低く唸りを上げ始めた。赤く明滅する計器の光が二人の顔を照らし出し、やがて視界を埋め尽くしていた真っ白な壁が、陽炎のようにぐにゃりと歪み始める。

 息苦しいほどの静寂が破られ、命がけの歴史修正の舞台となる五稜郭へと、二人の意識と身体は時空を超えて跳躍していった。

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