表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歴史を修正しないと出られない部屋  作者: 久能のの
五稜郭に落ちる誠の火

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/32

4話

 視界を激しく歪ませていた陽炎のような時空の乱れが、前触れもなくフッと消失した。

 三半規管を根底から乱暴に揺さぶるような、天地がひっくり返るかと思えるほどの強烈な浮遊感が途絶え、足裏に確かな重力が戻ってくる。


 昌幸の足の裏が捉えたのは、先ほどまで彼らがいた無機質で固い現代の白い床ではなく、夜露を含んでじっとりと湿り気を帯びた土の生々しい感触だった。

 それと同時に、強張った肺の奥底へと一気に流れ込んできたのは、空調で徹底的に管理された無味乾燥な人工の空気とは対極にある、むせ返るような夜の匂いだった。

 鼻腔を容赦なく突く、土と草の濃密な青臭さ。澱んだ水が底の方で腐敗しつつ放つ、特有のひんやりとした気配。そしてどこからか風に乗って漂ってくる、微かな、しかし決定的な硝煙の残り香。

 それらの匂いが複雑に絡み合い、この場所が平和な現代社会から遠く離れた戦場であることを、無言のうちに本能へと直接訴えかけてくる。


 時は明治二年五月十一日、未明。

 周囲を新政府軍の圧倒的な大軍に完全に包囲され、いつ決死の総攻撃が始まってもおかしくない極限状態の要塞、五稜郭。

 昌幸と青の二人は、その分厚い暗闇の底に、誰にも知られることなくひっそりと降り立っていた。


「……着いたな」


 昌幸は、暗闇にまだ順応しきれない目を細めながら、極度の緊張でカラカラに乾いた喉から低く掠れた声を絞り出した。自分の声でありながら、ひどく遠くから聞こえてくるような奇妙な感覚があった。

 季節は初夏とはいえ、ここは北の大地である。太陽が昇る前の未明特有の底冷えするような冷たい風が、衣服の隙間から入り込み、容赦なく二人の体温を奪い去っていく。

 いつ敵の襲撃があってもおかしくないという戦場の張り詰めた緊張感と相まって、その寒さは昌幸の背筋にゾクゾクと嫌な悪寒を走らせた。

 背中には、あの白い部屋にあったタンスから引き出した木製の水桶や分厚く編まれた莚など、大量の防火装備が括り付けられている。

 ずっしりと重い背負子が肩に深く食い込み、身体を地面に押し潰そうとしてくる。姿勢を保つだけでも足腰の筋肉が張るのを感じたが、今はその重みにかまけて弱音を吐いている余裕はなかった。ここで失敗すれば、待っているのは永遠の幽閉なのだ。


「周囲に人影はないわ。転移地点の計算は完璧だったようね」


 分厚い暗闇の中から、西園寺青の静かでよく通る声が響いた。

 その声には、未知の戦場に放り出された恐怖や動揺など微塵も含まれていない。ただ目的を遂行するための、氷の結晶のように透き通った理知的な響きだけが宿っていた。

 雲の切れ間から覗く淡い月明かりが、彼女の身を包む浅葱色の隊服を薄っすらと、しかし暗闇の中で浮き上がるように鮮明に照らし出す。

 その姿は、まるで本物の新選組隊士が百数十年の時を超えて現代に蘇ったかのような、息を呑むほどの錯覚を覚えさせるものだった。

 彼女自身の圧倒的な美貌と、いかなる時も感情を乱さない静謐な雰囲気が、血塗られた歴史を持つその羽織と異様なほどに完璧に調和している。

 袖口に染め抜かれた白い山形のダンダラ模様が、夜風に揺れて微かに白い軌跡を描いた。


 本来ならば、重度の歴史オタクであり、新選組をこよなく愛する彼女にとって、ここは憧れの推しが生きている夢のような空間のはずだ。

 現に、あの白い部屋でこの隊服を手にした時、彼女の頬は微かな高揚に染まっていた。彼女の胸中では今も、生身の推しに会えるかもしれないという期待と、歴史を修正するために彼の命を奪わなければならないという絶望が、激しく渦巻いているに違いない。

 しかし今の彼女の表情に、浮ついたところは一切ない。自らの手で愛する英雄の歴史を正すという途方もない重圧を背負い、ただ静かに、射抜くような視線で戦場を見据えている。

 同じ浅葱色の隊服を着ていながら、背負子の重みに耐えかねて不格好に背中を丸め、周囲の物音にいちいち肩をすくめている昌幸とは、あまりにも対照的な姿だった。


 ふと、青が身を翻し、彼らと共にこの時代へ転移してきたタイムマシンの方へと静かに歩み寄った。

 湿った土の地面に不釣り合いに鎮座するその無機質でチープな機械は、生々しい戦場において強烈な異物感を放っている。

 コンソールのパネルには、赤いデジタル数字が妖しく明滅し続けていた。


「活動限界時間のタイマー、すでにカウントダウンが始まっているわ」


 青は、赤い光を反射する切れ長の瞳で、無慈悲に一秒ずつ減っていくその数字をじっと見つめた。


「滞在可能な時間はごく僅かよ。この数字がゼロになれば、私たちが歴史の修正を完了していようがいまいが、あの白い部屋へと強制的に帰還させられる」


 彼女の言葉は、見えない刃となって昌幸の首筋に突きつけられるようだった。

 タイムリミットという絶対的なルールの前では、いかなる言い訳も通用しない。刻一刻と迫る破滅の足音が、秒を刻むごとに大きくなっていく錯覚に陥る。

 焦燥感が胸を焼く。やるべきことは明確だった。


「……時間が来れば火薬庫は必ず爆発する。それまでに防火の準備を整え、確実に火種を消し止めるわよ」

「了解だ。……さっさと終わらせようぜ。こんな場所に長居したくはない」


 昌幸は背負子の重みを誤魔化すように短く息を吐き出すと、泥濘む地面を慎重に踏みしめながら、五稜郭の土手の上へと向かって歩き出した。

 土手の上に辿り着き、眼下を見下ろすと、そこには星明かりを反射して鈍く黒々と光る広大な水堀が広がっていた。

 本来であれば、敵の侵入を防ぎ城郭を守るための深い堀である。しかし今夜に限っては、迫り来る爆発の危機を防ぐための唯一の、そして無尽蔵の消火水源であった。

 周囲の空気を探る。風の音に混じって、遠くの方から誰かの低い話し声や、金属が触れ合うような微かな音が聞こえる気がした。

 ここは戦場だ。どこに誰が潜んでいるかわからない。

 もし見回りの兵に見つかれば、不審者として問答無用で斬り捨てられるだろう。


「まずは水の確保だ。手伝ってくれ、西園寺」

「ええ。指示通りに動かすわ」


 青の短い返事を聞くと同時に、昌幸は背負子の結び目を解き、太い縄の付いた木桶を一つ手に取った。

 そして、土手の上から黒々とした水堀の底へ向けて、静かにそれを投げ下ろした。

 バシャンと水面を激しく叩く音が夜の静寂を鋭く切り裂き、昌幸の心臓が早鐘のように激しく打った。

 あまりにも大きな音に感じられ、見回りの兵に気づかれたのではないかという死の恐怖が胸をよぎる。全身の産毛が逆立ち、呼吸を殺して周囲の気配を窺った。

 幸いにして、暗闇の奥から誰かが怒号を上げて駆けつけてくる気配はない。

 張り詰めた空気が少しだけ緩むのを感じながら、昌幸は小さく安堵の息を吐き出すと、手元の縄にずっしりとした水の重みが伝わったのを確認した。

 歯を強く食いしばり、腕の筋を限界まで張らせて太い荒縄をたぐり寄せ始める。

 たっぷりと冷たい水を含んだ木桶の重量は、肩や腕の筋肉にずっしりとのしかかる。縄の摩擦に耐えながら、一段ずつ確実に木桶を引き上げていった。


 ようやく土手の上まで引き上げられた木桶の水を、背負子に固定した別の空の大きな桶へと慎重に移し替える。

 これを何度か繰り返し、背負子の上の桶を満杯にした。

 昌幸はその重みを再び背負い上げ、火薬庫の近くの物陰まで、泥濘む足場を慎重に歩いて運んだ。

 少しでもバランスを崩せば、重みに引っ張られて土手から転げ落ちてしまう危険がある。額からは冷や汗が絶え間なく流れ落ちていた。

 青は少し離れた場所から周囲を警戒し、的確な指示を飛ばして昌幸の移動をサポートする。

 彼女の無駄のないナビゲートのおかげで、見回りの兵の視線を完璧に避けながら作業を進めることができた。


 何度かの往復の末、火薬庫の近くの死角には、大量の水がなみなみと注がれた木桶が、消火活動に十分な数だけ整然とストックされた。


「次は莚よ、稗田くん。休んでいる暇はないわ」


 息を整えようとする昌幸に、青の声が飛ぶ。

 昌幸はタンスから持ち込んだ分厚く粗野な莚の束を抱え上げると、再び水堀のふちへと降りていった。

 氷のように冷たい泥水の中へと莚を沈め、踏みつけてたっぷりと水を吸わせる。

 乾燥していた時には軽々と持ち運べた莚は、水を限界まで含むと、まるで鉛のように重く、そして突き刺さるように冷たい物体へと変貌した。

 それを引き上げるたびに、冷たさで指先の感覚が失われていく。浅葱色の隊服の袖口は、跳ね返った泥水で汚れ、すでに元の色がわからないほどになっていた。

 これだけ水を含ませておけば、火の粉が飛んできても絶対に燃え移らないし、直接火種に被せれば完全に窒息消火できるはずだ。

 昌幸は重い濡れ莚を火薬庫周辺のストック場所へと引きずって運び、ようやくすべての準備を終えた。


 暗闇と同化するように息を潜める青の横顔を一瞥し、昌幸は冷たい泥の地面を踏みしめる。

 あとは、運命の時間が訪れるのを待ち受けるだけだ。

 荒い息を吐きながら、暗闇の奥で静かに佇む歴史の特異点である火薬庫を、強い意志を込めた眼差しで睨みつけた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ