5話
昌幸は最後の濡れ莚をストック場所に引きずり込み、膝に手をついて大きく息を吐き出した。過酷な水汲みと運搬作業で全身が悲鳴を上げているが、これでようやく最低限の防火陣地が完成したのだ。
「これで……準備は完了だ。あとは、火薬庫に火が放たれるのを防ぐだけだな」
荒い呼吸の合間に、昌幸はどうにかそれだけの言葉を紡ぎ出した。声は掠れ、ひどく頼りない響きとなっていたが、それでもやるべきことをすべて終えたという確かな達成感がその言葉には込められていた。
その疲労困憊の言葉に対して、隣に立つ西園寺青は無言で短く顎を引いて頷いた。彼女の身を包む浅葱色の新選組隊服は、昌幸のものとは対照的に泥跳ね一つなく、暗闇の中でも彼女の陶器のように白い肌と艶やかな黒髪の美しさを際立たせている。しかし、その切れ長の瞳は昌幸を労うことはなく、暗闇の奥、先ほどまで彼らが立っていた土手の方角へと鋭く向けられていた。視線の先には、見えないはずのタイムマシンが鎮座している。
「急ぐわよ。次の見回りが来る前に、火薬庫の死角に潜り込むの」
青の冷ややかな声が、夜の静寂の中で鮮明に響いた。タイムリミットが刻一刻と迫る中、失敗は許されないという強烈な焦燥感が、冷たい風とは別の悪寒となって昌幸の背筋を駆け上がった。
青は、先ほどから暗闇の奥で目を凝らして観察していた五稜郭内の兵士たちの動きと、あの白い部屋でタンスから引き出した膨大な歴史資料の記憶を、自らの明晰な頭脳の中で高速で照らし合わせていた。
「当時の箱館政権における軍の編成と、この五稜郭という星形要塞の構造上が持つ特有の死角。それに加えて、新政府軍の圧倒的な物量による連日の激戦がもたらした兵士たちの極度の疲労と、決定的な人員不足。これらすべての要素を変数として計算に入れれば、夜間の警備ルートと巡回のタイミングは自ずと一つの最適解に絞られてくるわ」
彼女の持つ圧倒的な歴史の知識量と氷のような分析力が、分厚い闇に包まれた巨大要塞の全貌を、まるで上空から見下ろす精緻な設計図のように脳裏へと浮かび上がらせていた。どこにどれだけの兵が配置され、どのタイミングで視界の空白が生まれるのか、彼女はすでに完璧に掌握しているようだった。
「次の見回り部隊が、あそこの土手を通り過ぎるまであと三十秒。彼らが角を曲がれば、火薬庫の正面までの動線に約三分間の完全な空白が生まれる。その一瞬の隙を突いて一気に潜入するわよ」
「了解だ」
遠くで微かに響いていた複数人の草鞋の足音が、一定のリズムを刻みながら土手の向こう側へと次第に遠ざかっていく。ザクッ、ザクッという足音が完全に夜の静寂に溶け込んだ瞬間、青が小さく右手を挙げ、そして空気を斬るように静かに振り下ろした。
それを合図に、二人は足音を殺して泥濘む地面を蹴り、深い夜の闇と完全に同化するように駆け出した。月明かりが雲間から差し込む明るい場所を極力避け、建物の影から影へと滑り込むようにして素早く移動する。足裏に伝わる湿った土の感触と、周囲を支配する血生臭い戦場の匂いが、彼らの神経を極限まで研ぎ澄まさせていた。自分の心臓の鼓動が、まるで耳のすぐ傍で早鐘を打っているかのようにうるさいほど鳴り響いている。もし今、誰かの視界の端にでも引っかかれば、不審な侵入者として問答無用で斬り捨てられるだろう。現代の法も人権も通用しない、暴力と死が支配する世界なのだ。
極限の緊張感で口の中がさらにカラカラに乾いていく中、青の完璧なナビゲートにより、二人は誰一人として兵士と鉢合わせることなく、目的の場所へと到達した。そこは火薬庫の重厚な扉を正面から見据えることができる、建物の隙間の深い暗がりであった。
「ここなら、火薬庫の出入り口が完全に把握できる。それに、私たちが用意した水桶と莚のストック場所にも数歩で飛び出せるわ。完璧な死角よ」
息を潜めるように囁く青の言葉に、昌幸は無言で深く頷いた。二人は身にまとった浅葱色の隊服の袖を固く握り締め、漆黒の暗がりの中で冷たい地面に身を潜めながら張り込みを開始した。未明の冷たい夜風が頬を撫で、どこからか微かな硝煙の匂いと、行き場を失った澱んだ水の匂いを運んでくる。息の詰まるような張り詰めた空気が周囲を完全に支配していた。
いったい誰が、この巨大な火薬庫に火を放つというのか。新政府軍が放った手練れの工作員が、闇夜に紛れて足音もなく忍び込んでくるのか。それとも、絶望的な戦況に耐えかねて旧幕府軍を裏切った内通者が、松明を片手に堂々と姿を現すのか。暗鬼が疑心を生み、風が名もなき雑草を揺らして立てる微かなカサリという音にすら、昌幸の肩はビクンと跳ね上がった。絶対に、何があっても爆発は阻止しなければならない。二人は暗闇に目を慣らし、夜の底に沈む火薬庫の扉をじっと睨みつけながら、いまだ姿を見せない放火犯への警戒を限界まで強めていた。
どれほどの時間が経過しただろうか。凍りつくような未明の冷気に身体が芯から冷え切り、指先の感覚すら失われようとしていたその時だった。静寂を破って、微かな足音がゆっくりと近づいてきた。
来た。昌幸は息を呑み、暗闇の中で全身の筋肉を硬直させた。青もまた、切れ長の瞳を鋭く細めて足音が響く方向を射抜くように睨みつけている。ついに新政府軍の恐るべき工作員が現れたのかと、極限まで警戒を高め、いつでも飛び出せるように足に力を込めた。
だが、月明かりが雲の切れ間から差し込み、その人物の姿をぼんやりと照らし出した瞬間、昌幸は拍子抜けするような、あるいはひどく不気味な違和感を覚えた。
そこに姿を現したのは、黒装束に身を包んだ恐ろしい暗殺者でも、火のついた松明を握りしめた狂気に満ちた裏切り者でもなかった。よろめくような、ひどく頼りない足取りで歩いてきたのは、泥と血にまみれた粗末な軍服を着た、一人の旧幕府軍の老兵だった。
連日の激しい戦闘と、いつ終わるとも知れない極度の緊張、そして慢性的な睡眠不足。それらが彼の肉体と精神からあらゆる活力を根こそぎ奪い去っていたのは、遠目からでも明らかだった。深く落ち窪んだ両目は完全に焦点が合っておらず、半ば閉じかかっている。彼は睡魔と疲労に抗うように何度も重い頭を揺らしながら、まるで己の死に場所を探す亡霊のように、虚ろな足取りで火薬庫の周囲を巡回していた。
その老兵の乾ききった手には、周囲を照らすための小さな灯が、ひどく危うげに握られていた。
「おい、あの人……」
昌幸が思わず声を漏らしかけた次の瞬間だった。老兵の足が、何もない平坦な地面で大きくもつれた。極度の睡眠不足と肉体の限界により、彼の意識がほんの一瞬だけ、完全に途切れたのだろう。老兵の身体が、まるで糸の切れた操り人形のようにぐらりと前へ傾き、その反動で、手にしていた灯が大きく弧を描いて手からすっぽ抜けた。
スローモーションのように宙を舞うその火種を見た瞬間、昌幸と青の脳裏で、これまでのすべての謎が完全に一つの線となって繋がった。歴史を変えた未明の火薬庫大爆発。その致命的な原因は、新政府軍の壮大な陰謀でもなければ、飛び火した砲弾でもなかったのだ。それは、連日の激戦に限界を迎えていた名もなき老兵の、居眠りによる手元の狂い――あまりにも呆気なく、そして残酷な「ただのヒューマンエラー」に過ぎなかったのである。
重力に従って落下していく灯の向かった先は、あろうことか、火薬庫のすぐ脇に無造作に積まれていた火薬樽の真横だった。そこには、湿気を防ぐための乾燥した藁が大量に敷き詰められている。
火種が床の藁に触れる前に消し止めなければ、すべてが終わる。昌幸は条件反射で泥濘む地面を蹴り、隠れ場所から飛び出そうとした。
しかし、次の瞬間。彼の右腕は、想定外の強い力によって乱暴に引き戻された。
「……っ!?」
昌幸は体勢を崩し、驚愕と共に背後を振り返る。彼を引き止めたのは、隣に潜んでいたはずの西園寺青だった。彼女は両手で昌幸の腕にすがりつくようにしがみつき、その場に強く縫い止めようとしていた。
「西園寺!? 何をしてる、離せ! 火がつくぞ!」
昌幸は焦燥に駆られて怒鳴りかけたが、月明かりに照らされた彼女の顔を見た瞬間、その声は喉の奥で完全に凍りついた。
陶器のように滑らかで美しい彼女の顔は、血の気が完全に失せて蒼白になっていた。普段はどんな異常事態においても氷のように冷ややかで、決して感情を表に出すことのない完全無欠の美少女が、今や激しい葛藤に顔を歪ませ、苦しげに桜色の唇を震わせていた。彼女が昌幸の腕を掴む手は、執念のように力強く、それでいて縋るように震えていた。
「待って……行かないで、稗田くん……!」
絞り出すような彼女の悲痛な声が、暗闇の中に震えて響いた。
「このまま火薬庫を爆発させれば……あの人は降伏する。誇りを失って、新政府の役人に成り下がるかもしれない。でも……でも、そうすれば彼は死なずに済むのよ! あの凄惨な戦場で、命を落とさずに、天寿を全うできる……っ!」
それは、完璧な司令塔としての顔を完全に捨て去った、一人の熱狂的なファンとしての、あまりにも生々しいエゴと愛情の吐露だった。史実通りに歴史を修正するということは、すなわち、彼女が心から敬愛する推し・土方歳三を、確実な死地である一本木関門へと送り出すことを意味する。歴史の整合性よりも、ただ生身の彼に生きていてほしい。そのどうしようもない強烈な葛藤が、彼女の強固な理性を完全に決壊させていた。
昌幸は、自分の腕に食い込む彼女の細い指の震えと、その瞳に宿る張り裂けそうな痛みを感じ取った。だが、迷っている暇はない。視界の端では、落下した火種がすでに火薬樽の足元の藁を焦がし始めている。焦燥感が胸を焼いたが、昌幸は決して視線を逸らさなかった。
昌幸は、すがりつく青の悲痛に揺れる切れ長の瞳を真っ直ぐに見返し、静かに、しかし決して揺らぐことのない強い声で告げた。
「西園寺。お前が一番よく知ってるはずだろ。あの土方歳三が、戦いを途中で投げ出して、降伏なんていう生き恥を晒して……それで本当に満足するような人間なのか?」
「…………っ」
「信念のために最後まで剣を振るうのが、あの人の生き様だったんじゃないのか。誇りを奪って無理やり生き長らえさせることが、お前の愛した『鬼の副長』に対する、本当の誠なのかよ」
昌幸の言葉は、歴史の真実を愛し、誰よりも土方歳三の美学を深く理解しているはずの彼女の胸の奥底を、残酷なほど正確に射抜いていた。




