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歴史を修正しないと出られない部屋  作者: 久能のの
五稜郭に落ちる誠の火

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1話

 前回のあの悪夢のような出来事から、わずか数日後のことだった。

 昌幸は鉛のように重い瞼をゆっくりと持ち上げた。

 最初に視界に飛び込んできたのは、目を射るような、網膜を直接焼くかのような圧倒的な白だった。上下左右の感覚すら曖昧になる、壁と床の境界線も見えない果てのない無機質な空間。そこには、埃ひとつ、染みひとつ存在しない。窓もなければ、光源すら特定できないのに、空間全体が巨大な蛍光灯の内部にいるかのように、のっぺりと冷たい白さで発光している。

 耳元を通り過ぎる風の音も、遠くで聞こえるはずの街の喧騒も、鳥のさえずりすらもない。空気の自然な流れや外界からのノイズが完全に欠落した、恐ろしいほどの人工的な静寂だけが、見えない圧力となって鼓膜をギリギリと圧迫してくる。

 間違いない。ここは、つい数日前に命がけで脱出したはずの、あの狂った密室だった。


「……嘘だろ」


 微かに震える掠れた声が、極度に乾燥した喉から絞り出された。その呟きは、白い空間の目に見えない壁にぶつかって虚しく反響し、不気味なエコーとなって自身の耳に返ってくる。

 ふと、傍らで微かな衣擦れの音が鼓膜を打った。弾かれたように視線を向けると、すぐ隣では西園寺青がゆっくりと身を起こしているところだった。陶器のように滑らかで白い肌にかかる、腰まで届く艶やかな黒髪が、彼女の動きに合わせてさらりと揺れる。


「……どうやら、夢オチというわけにはいかないようね」


 どうやら彼女もまた、この不条理な空間に巻き込まれてしまったらしい。


 昌幸は震える両膝に無理やり力を込め、ふらつく足取りで立ち上がった。そして、信じたくない現実を突きつけられる覚悟で、部屋の中をぐるりと見渡した。

 空間の中央には、ひどくチープなデザインでありながら異様な存在感を放つタイムマシンが鎮座している。宙にわずかに浮遊する薄いボードと、取ってつけたような操縦席のレバー。まるで昔のテレビアニメの小道具がそのまま現実世界に飛び出してきたかのような、悪趣味な代物だ。そして、近未来的な白い部屋にはおよそ似つかわしくない、生活臭の漂う場違いな古びた木製のタンスが、部屋の隅にぽつんと置かれていた。剥げかけた茶色い塗装と、錆の浮いた金具。

 どちらも、前回彼らがこの部屋で目覚めた時と全く同じ、寸分違わぬ初期配置であった。目を凝らして白い壁の隅々まで探ってみても、外界へ繋がる出口の扉はどこにも見当たらない。壁の継ぎ目すら存在しない完璧な牢獄。


「また、あの面倒なゲームをやらされるのかよ……」


 二度と戻りたくなかった空間に再び閉じ込められたという事実に、昌幸は特大の溜息を吐き出した。ウンザリとした諦念が全身を支配する。

 頭を掻きむしりながら、彼は壁にもたれかかった。

 あの日嗅いだ戦国時代のピリピリとした空気と、雨に濡れた腐葉土の泥臭さが鼻腔の奥に蘇る。肺が焼け焦げるかと思うほどの猛ダッシュ。肌にまとわりつくような不快な湿気と、何千という兵士たちが上げる地鳴りのような怒号。なんとか取り戻したはずの平穏な日常が、こうもあっさりと奪い去られたのだ。「また貧乏くじか」と、巻き込まれ体質である己の不運を呪わずにはいられなかった。


特大の溜息を吐き出して壁にもたれかかる昌幸の姿とは対照的に、青の態度は文字通り氷のように冷ややかであった。

 彼女は自身の置かれた理不尽な状況を嘆くこともなければ、パニックを起こして悲鳴を上げたり声を荒らげることもない。乱れた制服のプリーツスカートの皺を細い指先で軽く払い、すっくと立ち上がる。


「嘆いている暇があったら頭を働かせなさい、稗田くん。ルールは前回と同じ。歴史を修正しない限り、私たちはここから出られないわ」


 即座に現状を冷静な視線で分析し始める彼女の整いすぎた横顔には、恐怖も焦燥も見当たらない。あるのは、眼前に突きつけられた難解なパズルをどのように解き明かすかという、理知的な演算の光だけだった。


 青は、無機質な白い床に無造作に落ちていた一冊の本に目を留めた。それは、現状の歴史を確認するための唯一のツールである『詳説 日本史』の教科書だった。彼女は静かに歩み寄り、それを拾い上げる。そして、昌幸の姿など視界に入っていないかのように、一瞥すらせず、日常のささいな作業をこなすかのような滑らかな手つきでその教科書の分厚いページを開いた。


 この理不尽な密室から脱出するための条件は、ただ一つ。何者かの手によってねじ曲げられた歴史の歪みを特定し、それを本来の正しい形へと正すことだ。二人は冷たい無機質な床に座り込み、途方もない集中力でページをめくり続けた。古代から中世、戦国時代から江戸時代へ。見慣れた歴史のうねりを、一言一句見落とさぬように鋭い目で追っていく。


「江戸幕府は開かれているし、大政奉還も起きている……。全体的な流れは史実通りね」


 青の呟きが示す通り、今回の改変は、以前のように歴史の根幹を根底から覆すような大規模なものではないようだ。政治体制や大まかな出来事の流れは驚くほど史実通りになぞられており、全体を通した大きな違和感は存在しなかった。


「なら、もっと細かい局所的な改変ってことか? 勘弁してくれよ、日本史の全ページから間違い探しをするなんて……」


 昌幸のぼやきを無視し、青は無数に並ぶ文字群の中からたった一つの砂金を探すようにページをめくり続ける。時計が存在しないため、時間がどれほど経過したのかすら分からない。ただ精神力だけがゴリゴリと削られていく泥沼のような沈黙が続いた。


 その単調な静寂を唐突に破ったのは、幕末のページを精査していた青だった。

 一定のリズムで紙をめくっていた彼女の白魚のような指が、見えない壁にぶつかったかのように、突如として不自然に凍りついたように止まったのである。


「おい、西園寺? どうしたんだ」


 石像のように固まり、不自然なほど沈黙を続ける青に、昌幸は怪訝そうに声をかけた。

 彼女の様子は明らかに異様だった。普段であれば、いかなる突飛な異常事態に対しても顔色一つ変えない、完全無欠の氷の司令塔である。その彼女が、床に広げた『詳説 日本史』のたった一ページを凝視したまま、陶器のように白い指先を微かに、しかし確実に震わせていたのである。


「……嘘よ。こんなの、到底あり得ないわ」


 絞り出すような青の声。彼女の視線が釘付けになっているのは、幕末から明治にかけての記述だった。


(そうか……こいつは重度の新選組、それも土方歳三のオタクだったな。まさか……!)


 そのページを見た瞬間、昌幸は青の異変の原因に気がついた。

 青にとっての土方歳三は、単なる歴史上の人物への興味を超えた、崇拝にも近い特別な感情を抱く対象である。普段は氷のように冷静な彼女が、新選組の話題になった途端に早口になり、愛刀である和泉守兼定の刃文の美しさや、京都時代の局中法度の合理性について熱弁を振るう姿を、昌幸は部室で何度も目撃していた。

 彼女にとって土方は、時代の巨大な奔流に最後まで抗い続け、信念のために剣と共に散るという「滅びの美学」を体現した無二の英雄であったはずなのだ。


 昌幸が覗き込んだ教科書には、激動の時代を駆け抜けたその人物の結末が記されていた。

 本来の正しい歴史において、新選組副長・土方歳三は、明治二年五月十一日、新政府軍の総攻撃を受ける箱館の地で、五稜郭を出て一本木関門へと出撃し、乱戦の最中に馬上で腹部に銃弾を受けて、誇り高く凄絶な戦死を遂げているはずだった。散りゆく幕府への忠義を貫き、最後の最後まで己の信念のままに剣を振るい続けた、まさに武士の鑑としての最期。

 だが、今目の前にある教科書の記述は、その彼が命を賭して完成させた凄絶な最期を、無残にも塗り替えていた。そこには、土方歳三が一本木関門で死ぬことなく、同日に新政府軍へとあっさりと降伏したという事実が淡々と綴られていたのである。さらにその後の彼の生涯についても無機質な活字で触れられており、降伏した彼はかつての敵である新政府の役人として警視庁に勤務する道を選んだものの、かつての栄光が報われることは決してなく、晩年は不遇の内に誰に看取られることもなく孤独に病没したと説明されていた。


「警視庁勤務……不遇……病没……っ」


 青の口から、呻きのような声が漏れた。

 警視庁勤務、不遇、病没。その一つ一つの単語が、呪いのように青の視界に突き刺さる。改変されたこのふざけた歴史の中で、彼は誇りを捨てて降伏を選択し、あろうことか幕府を滅ぼした新政府の役人になり下がっていた。

 活字が蠢き、彼女の脳内で嫌悪すべきビジョンとなって形を成す。

 サーベルを下げて新政府の制服に身を包み、かつての志士たちを取り締まる土方の姿。彼女の知る孤高の武人が、信念を曲げてまで生き恥を晒すような結末を受け入れるなど、到底あり得ないことであった。それは彼女の歴史観に対する、そして彼女の愛する英雄への最大の冒涜に他ならなかった。


 だが、彼女の胸の奥底を激しく掻き乱していたのは、決して怒りや落胆だけではない。

 自らの推しが、凄惨な戦死を免れたのだ。どれほど不遇の孤独死であったとはいえ、あの激動の血みどろの時代を生き延び、天寿を全うし、その命を長らえたのだ。その事実は、歴史の整合性や武士道への憧憬よりも先に、「生きていてくれた」というファンとしての純粋な喜びを強く刺激し、彼女の心の奥底を激しく揺れ動かしていた。


 だが、誇りを捨てて新政府の犬に成り下がった彼は、果たして彼女の愛した孤高の彼と言えるのだろうか。

 相反し、激しく矛盾する感情の渦に呑み込まれ、青の切れ長の瞳には、これまで昌幸に一度として見せたことのない、あまりにも人間的で激しい動揺が浮かんでいた。唇は震え、呼吸は浅く不規則になり、瞬きすら忘れたかのように教科書の文字を食い入るように見つめている。


「……西園寺。聞いてるか?」


 昌幸の二度目の声が、重苦しい静寂の部屋に響く。

ハッと息を呑み、青は顔を上げた。昌幸の呆れたような、それでいてどこか彼女の精神状態の異常を窺うような戸惑いの声が、彼女の意識を己の精神世界から現実の白い密室へと力ずくで引き戻したのだ。

自分が今、どのような状況に置かれているのかを思い出す。

 こんなところで私情に流されていては、永遠にこの不条理な部屋から出ることはできない。自分たちが元の平和な日常へ帰還するためには、この改変された事実をこの手で消し去り、彼が一本木関門で命を落とす「正しい歴史」へと修正するしかないのだ。それは、紛れもなく彼女自身の手で、愛する英雄を死地へと追いやり、彼に引導を渡すことを意味していた。


 青はギュッと薄い桜色の唇を血が滲むほどに噛み締め、静かに、そして深く息を吸い込んだ。

 胸の中で荒れ狂う個人的な感情を、無理やり心の奥底の分厚い氷の下へと封じ込める。ゆっくりと長い睫毛を伏せ、次に彼女が目を開けた時、その瞳で激しく揺らいでいた感傷の色は、すっかり鳴りを潜めていた。そこにあるのは、絶対零度の冷たさを湛えた、いつもの完璧な彼女の眼差しだった。


「……なんでもないわ」


 紡ぎ出されたのは、いつもの論理的で隙のない、冷ややかな声音だった。

 彼女はオタクとしての脆弱な顔を切り捨て、再び冷静な司令塔としての仮面を深く被り直す。


「脱出するためには、歴史を修正するしかない。土方歳三の降伏……ここが改変の起点よ。調査を続行するわ」


 淀みなく言い放つその横顔には、もう微塵の迷いも残されていなかった。ただ脱出という目的のためだけに己の知性をフル回転させる、揺るぎない決意だけがそこにあった。

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