表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歴史を修正しないと出られない部屋  作者: 久能のの
天王山に翻る偽りの旗

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/32

幕間1

 放課後の校舎は、特有の熱気と喧騒に包まれていた。初夏を思わせる少し湿った空気が淀む渡り廊下には、長かったテスト週間からの解放感と、自らの立ち位置を再確認するための残酷な儀式への熱狂が入り混じった、独特の空気が充満している。放課後を告げるチャイムが鳴り終わるや否や、生徒たちの群れが磁石に吸い寄せられる砂鉄のように集まっていたのは、壁面に設置された巨大なコルクボードの掲示板の前だった。つい数日前にすべての科目の答案返却が終わったばかりの、定期テストの成績上位者を発表する白い模造紙が、そこに無慈悲に貼り出されている。


 「よし、今回も数学で一桁順位キープだ!」と歓喜の声を上げる者、「終わった、今回ランキングから名前が落ちたんだけど」と大袈裟にため息をついて頭を抱える者、あるいは上位陣の中に友人の名前を見つけて囃し立てる者。悲喜こまごまの生々しい感情が渦巻くその人だかりの熱気から少し距離を置いた外側から、昌幸は背伸びもせずに、淡々とその掲示板を見上げていた。


 昌幸の容姿は、自他共に認める「ザ・普通の男子高校生」という表現が最もふさわしい。特筆すべき特徴のない平均的な身長と体格であり、人混みに紛れれば十秒で視界から消え失せる自信がある。髪型もごく一般的な短髪で、特別にワックスで整えられているわけでも、寝癖でボサボサなわけでもない。目つきも鋭すぎず甘すぎず、至って普通。クラスの集合写真に写っていても特に目立たず、十年後にアルバムを見返した時に「こんな奴いたっけ?」と真っ先に忘れ去られそうな、どこにでもいそうな外見だった。制服の着こなしにしても、校則の常識的な範囲内で第一ボタンを開けている程度であり、教師に目をつけられるほど不良ぶる度胸もなければ、優等生として息苦しく生きるほどの生真面目さも持ち合わせていない。


 そんな彼の成績もまた、「中の上」とも「中の下」ともつかない、彼の容姿に違わず中途半端な位置におさまっている。得意な科目と苦手な科目が相殺し合い、最終的な合計点は常に平均点より少し上という無難なラインを漂っていた。当然ながら、全校生徒の頂点を競う総合ランキングの三十位以内に、「稗田昌幸」という名前が載ることなど天地がひっくり返ってもあり得ない。


 だが、彼の視線は、自分とは無縁の世界である総合ランキングの欄を早々に通り過ぎ、模造紙の右端の方に小さく設けられた科目別のランキング表へと真っ直ぐに向けられていた。

 日本史と世界史。

 その二つの科目の上位陣の欄にだけは、彼の平凡な全体成績からはおよそ不釣り合いなほど高い位置に、「稗田昌幸」の四文字が常に、そして確固たる意志を持って名を連ねている。指で順位をなぞり、そこに自分の名前があることを視覚的に確認すると、昌幸はようやく肩の力を抜いた。


 それだけを確認すると、昌幸は視線を再び掲示板の最も目立つ場所、すなわち総合ランキングの頂点へとスライドさせた。

 そこには、不動の第一位として君臨する名前があった。全教科において他を寄せ付けない圧倒的なスコアを叩き出し、二位以下に絶望的な大差をつけて孤高のトップに立ち続けているその名前は、「西園寺青」だった。


 西園寺青。彼女は、誰もが振り返る文字通りの「氷の美少女」である。腰まで届く艶やかな黒髪ロングヘアは、歩くたびに絹の糸のように滑らかに揺れ、陶器のように白い肌は透き通るような美しさを持っている。モデルのようにスラリとした華奢なスタイルと、知的で冷ややかな印象を与える切れ長の瞳を持った、圧倒的な美貌の持ち主だ。


 その整いすぎた顔立ちと、制服の着こなしに乱れ一つない清潔感は、同年代の高校生たちにただの憧れを超えた、ある種の畏敬の念すら抱かせる。華やかなスクールカーストの最上位に位置するような、日頃から我が物顔で廊下を闊歩している目立つ生徒たちでさえ、彼女に対しては気安く話しかけることができない。すれ違う者は無意識に道を譲り、彼女の歩く後には静寂が落ちる。学園において、彼女は不可侵の領域に咲く、完全無欠の高嶺の花として絶対的な権力にも似た地位を確立していた。


 昌幸は、掲示板の頂点に燦然と輝くその絶対王者の名前と、科目別ランキングの端にひっそりと、しかししぶとく載っている自分の名前を交互に見比べた。本来であれば、生きる世界が違う二人の名前が交わることなどあり得ない。だが、現実にはこの二つの名前は、同じ掲示板の中にただ並んでいるだけでなく、放課後の密室という特異な空間を共有する関係にあった。


 特筆すべき特徴のない、どこにでもいそうな外見をした普通の男子高校生である彼が、他のすべての教科を犠牲にしてでも歴史の成績にだけこれほどまでに執着し、異様なまでの熱意と労力を注ぐのには、彼自身の平穏な学校生活を守るための、極めて明確で切実な理由があった。


 現在、この学校の歴史研究部に所属している部員は、たったの二名しかいない。一人は総合ランキング不動のトップにして、全校男子の羨望の的である西園寺青。そしてもう一人が、どこにでもいる平凡な生徒である稗田昌幸である。


 もし昌幸が、歴史に対して何の知識も持たない、ごくごく凡庸な成績の生徒であったなら、周囲の人間はどう思うだろうか。部活の存在を知ったクラスメイトや、西園寺青を崇拝する男子生徒たちは、間違いなくこう口にするはずだ。「あいつはあの完璧な西園寺さんと二人きりになりたいがために、下心丸出しで歴史研究部に入り浸っているに違いない」と。


 そう面白おかしく邪推され、陰で嫉妬に狂った後ろ指を指されることは火を見るより明らかだった。ただでさえ不運な星の下に生まれ、望まぬトラブルに巻き込まれる「巻き込まれ体質」である昌幸は、そのような好奇の目やいわれのない嫉妬の的にされることを、何よりも、心の底から嫌っていたのである。


 だからこそ、彼は歴史の成績上位という盾を絶対に手放すわけにはいかなかった。「自分は西園寺青目当てなどという俗物的な理由ではなく、純粋に歴史という学問が好きであり、また、彼女と対等に歴史を語り合えるだけの確かな実力と知識があるからこそ、この部に所属しているのだ」という、誰にも文句を言わせない確固たる大義名分。それこそが、彼が愛する歴史研究部という居場所を守るための、唯一の正当な防衛手段であった。


 それは彼女へのアピールでも何でもなく、ただ単に自分の平穏な学校生活を守るための、血のにじむような防衛線に過ぎない。そのために彼は、己のちっぽけな意地とプライドを懸けて、歴史のテストの前には睡眠時間を削り、狂ったように年号と出来事を暗記し、常に上位の成績を死守し続けているのだった。


 成績発表の掲示板の前で一喜一憂し、互いの点数を教え合って騒ぎ立てる生徒たちの熱気と喧騒から抜け出すように、彼はそっと踵を返した。これ以上誰の目にも留まらないように、気配を殺して足早に自分の教室へと戻ろうとした。今日のミッションは完了した。あとは鞄を持って、平和な家に帰るだけだ。

 そう思って一歩を踏み出そうとした、まさにその時だった。


「稗田くん」


 熱気と喧騒にあふれた放課後の廊下に、その声はひどく不釣り合いなほど鮮明に響き渡った。

 冷ややかで、感情の起伏を感じさせず、しかし高級なガラスの鐘を細い銀の匙で叩いたかのように澄んでよく通る声。その声が自分の背中に真っ直ぐ投げかけられた瞬間、昌幸の足は目に見えない巨大な釘で床に縫い付けられたように、ピタリと止まった。全身の産毛が逆立ち、背筋を悪寒にも似た冷たい汗が伝い落ちる。


 恐る恐る、錆びついた機械のように首だけを振り返ると、そこには彼が今この瞬間、最も関わりを避けたいと心の底から願っていた人物――西園寺青の姿があった。


 彼女とはクラスが違うため、放課後の部室以外の場所、特にこのような人目の多い成績発表の掲示板前という戦場で接点を持つことは、本来なら絶対にあり得ないはずだった。しかし、青は周囲の生徒たちが作り出すスクールカーストの暗黙の空気や、遠慮がちな距離感など一切気に留める様子もなく、堂々とした足取りで昌幸の目の前に立ち塞がった。


 彼女が動くたびに、艶やかな黒髪が微かに揺れ、高級な石鹸のような、冷たくて清潔な香りがふわりと漂う。陶器のように白い肌に宿る切れ長の瞳が、周囲の有象無象には目もくれず、ただ真っ直ぐに昌幸一人だけを射抜くように見据えていた。


 その瞬間、廊下を支配していた熱に浮かされたような喧騒が、まるでそこだけ真空状態になったかのように、一瞬にして凍りついた。

 周囲を遠巻きに歩いていた生徒たちの足が完全に止まり、ざわめきが波のように引いていく。そして、彼らの視線が一斉に、特異点と化した二人の間に集中した。


 青の圧倒的な美貌に密かに憧れを抱き、遠くから眺めることしかできない男子生徒たちからの、信じられないものを見るような驚愕の眼差し。「なぜあんな平民が、西園寺さんと話しているのか」という声なき怒り。そして、学内のカースト上位に君臨し、常に男子の視線を計算している女子たちからの、得体の知れない男子生徒に向けられる、値踏みするような嫉妬に満ちた冷ややかな視線。

 それら無数の視線が、目に見えない無数の鋭い針となって、逃げ場を失った平凡な男子高校生である昌幸の全身へ、四方八方から容赦なく突き刺さっていた。


 周囲の空気が急速に絶対零度まで凍りつき、無数の視線が物理的な質量を伴って肩にのしかかってくるのを感じながら、昌幸は内心で頭を抱え、激しく後悔の念に駆られていた。


(頼むから、何か用があるならメールかLINEで、目立たないようにこっそり送ってくれ……!)


 ただでさえ存在そのものが目立つ彼女が、こんな全校生徒の注目が集まる放課後の廊下で、自分のような平民に直接接触してくれば、どういう事態を招くかなど火を見るより明らかだ。明日からの自分の平穏な生活が、音を立てて崩れ去っていく音が聞こえるようだった。しかし、目の前に真っ直ぐ立ち塞がり、見下ろすような視線を向けてくるこの氷の高嶺の花を邪険に払いのけて逃げ出すような度胸は、悲しいかな彼には持ち合わせていなかった。


「……何か用か、西園寺」


 周囲の殺気立った空気を極力刺激しないよう、昌幸は表情筋を死滅させ、努めて平坦で事務的な声で尋ねた。


「ええ。来月の部費で購入する文献のリストよ。あなたが目を通したという形式上のサインが必要だから、明日の放課後までに済ませておきなさい」


 青は冷ややかでよく通る声で、あくまで事務的な要件だけを口にした。その声のトーンには、昌幸に対する個人的な感情など一ミリも含まれていないことが明白だったが、周囲の生徒たちにはそんなことは関係ない。彼女が特定の男子生徒に声をかけたという事実だけで、廊下の温度はさらに数度下がった。


 用件を伝えたのだからこれで終わりだろうと昌幸が安堵しかけたのも束の間、彼女は踵を返そうとはせず、スッと一歩、昌幸に向かって距離を詰めてきた。

 二人の間の距離が縮まった瞬間、周囲を取り囲む男子生徒たちから「ああっ」という、声にならない怨嗟の悲鳴が漏れた気がした。


「……それと」


 青は、周囲の野次馬たちには聞こえないよう、ふと声のトーンを落とし、昌幸にだけ聞こえるような微かなひそひそ声に切り替えた。


「先日私たちが巻き込まれた『あの白い部屋』についての追加の考察よ。あの空間の法則性と、歴史改変の特異点に関する私の仮説をノートにまとめておいたわ。あなたのその貧弱な脳髄でもどうにか理解できるように限界まで噛み砕いておいたから、後で必ず目を通しなさい」


 吐息が掛かるほどの距離で発せられたのは、相変わらずの辛辣な毒舌と、誰にも聞かれてはならないあの異常な密室についての極秘の話題だった。昌幸は顔を引きつらせた。


「……こんなところでその話をするのかよ。おかげで今、俺は全校生徒のヘイトを一身に集めて消し飛びそうなんだが」

「自意識過剰ね。誰もあなたのことなんて見ていないわ、私を見ているのよ。それに、次の異常事態がいつ起こるか分からない以上、情報共有は迅速に行うべきでしょう。あなたのその無駄に器用な手先は利用価値があるのだから、せいぜい優秀な手足としていつでも動けるように準備しておくことね」


 傍から見れば、息を呑むような美少女が少し背伸びをして、男子生徒の耳元で親しげに内緒話をしているという、甘酸っぱくも羨望を激しく掻き立てる青春のワンシーンに違いない。だが、二人の間で実際に交わされているのは、丁寧な口調のオブラートに包まれた容赦のない毒舌と、それをやれやれと受け流す卑屈な皮肉の応酬であった。ラブコメディの皮を被った、血みどろの戦場である。


「へいへい。その光栄な役目のせいで、俺の平穏な学校生活が終わりを迎えそうだけどな」

「勘違いしないで。私があなたに期待しているのは、あくまで作業効率よ。それ以外の個人的な感情なんて微塵もないから安心して」


 論理的かつ隙のない口調で用件をすべて伝え終えると、青は「じゃあ、明日の放課後に」とだけ言い残し、群がる生徒たちの嫉妬と羨望の視線を一身に浴びながら、颯爽と廊下の奥へと歩み去っていった。その背筋の伸びた美しい後ろ姿が角を曲がって見えなくなった瞬間、張り詰めていた限界の空気が、破裂音を立てて一気に弾けた。


「おい、稗田ァッ!!」


 耳をつんざくような怒号とともに、即座にクラスの男子たちが雪崩を打って押し寄せ、血走った目で昌幸の周囲を完全に包囲した。


「お前、西園寺さんとどういう関係だよ!?」

「なんであんな至近距離で、親しげに内緒話してんだよ! 抜け駆けか、おい!」

「ただの同じ部の幽霊部員じゃなかったのかよ! 吐け、全部吐け!」


 胸倉を掴まんばかりの勢いで詰め寄るクラスメイトたちの圧倒的な熱量と、飛び交う尋問の嵐に、昌幸は心底うんざりとした顔で天を仰いだ。

 いつ首を撥ねられるか分からない、あの戦国時代の天王山。あちらは確かに命がけの極限状態だったが、敵の姿も目的もはっきりとしており、対処のしようがあった。それに引き換え、平穏であるはずのこの学校の、嫉妬と打算に満ちた人間関係の網の目は、どうにも逃げ場がなく、精神をじわじわと真綿で首を絞めるように削ってくる。


(ある意味で、あの戦国時代よりもこっちのほうが厄介かもしれないな……)


 巻き込まれ体質の卑屈なリアリストは、自らのささやかな平穏な日常が、音を立てて無残に崩れ去っていくのを肌で感じながら、肺の奥底から深く、果てしなく重い溜息を吐き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ