6話
視界のすべてを埋め尽くしていた戦国時代の濃密な緑と、肌にまとわりつくような不快な湿気が、瞬きをするほどの刹那に消え失せた。
三半規管を狂わせるような浮遊感が消失し、世界が再び確かな輪郭を取り戻していく。代わりに現れたのは、最初にこの場所で目覚めた時と同じ、目が痛くなるほどの白い空間だった。
壁と床の境界線すら曖昧な、果てのない無機質な空間。蛍光灯のような冷たい光が満ちるその部屋の中央に、昌幸と青の二人は、泥だらけの姿のまま立ち尽くしていた。
先ほどまで耳を圧迫していた法螺貝の重低音も、何千もの兵士たちが上げる怒号も、天王山の山頂を吹き抜けていた風の音さえも、まるでプツリと配線を切断されたかのように唐突に途絶えている。後に残ったのは、鼓膜が痛くなるほどの完全な静寂だけだった。この空間には、空気の振動すら存在しないのではないかと疑いたくなるほどの、人工的な静けさが支配していた。
「……戻った、のか」
昌幸は自分の声が不自然に反響するのを聞きながら、肺の奥に溜まっていた熱い息を大きく吐き出した。震える喉を通って肺に入ってくるのは、戦場の生臭い土の匂いを含んだ空気ではなく、空調によって徹底的に管理された無味乾燥な空気だった。
張り詰めていた緊張の糸が切れ、血管を駆け巡っていたアドレナリンが引いていくにつれて、全身に鉛のような疲労感がのしかかってくる。膝が笑い、立っているだけで精一杯だった。足元を見れば、清潔な白い床の上に、自分たちが持ち帰ってしまった戦国時代の泥汚れが点々と落ちており、そこだけが異物として黒く浮き上がっている。あの泥濘の感触は、確かに現実のものだったのだ。
隣に気配を感じて顔を向けると、青もまた深い呼吸を繰り返しながら、乱れた黒髪を無造作にかき上げているところだった。
普段は陶器のように白く整っている彼女の肌も、今は運動による紅潮を残し、端正な制服のあちこちに泥と汗の跡がついている。だが、その表情からは先ほどまでの切迫した色は消え失せ、いつもの冷静な理性が戻りつつあった。彼女は自分の手足を確認するように軽く関節を動かすと、短く鼻を鳴らした。
「どうやら、五体満足で帰還できたようね。手足の欠損も、タイムパラドックスによる存在の消滅も起きていないわ」
「ああ……なんとか生きてるみたいだ。夢オチにしては、身体の節々が痛すぎるけどな」
二人は互いに顔を見合わせ、生存を確認し合うと、それからゆっくりと部屋を見渡した。
白い壁、白い床、天井のない広がり。そこには、命がけの歴史修正というミッションなど最初から存在しなかったかのように、変わらぬ無機質な空間が広がっていた。あの過酷な天王山への登山も、歴史を賭けた偽装工作も、すべては幻だったのではないかと錯覚しそうになる。
だが、たった一つだけ、決定的な変化があった。
「……見ろよ、西園寺」
昌幸は泥で汚れた指先を持ち上げ、部屋の一角を指差した。
そこには、これまで二人をこの理不尽な空間に閉じ込めていた継ぎ目のない壁に、明確な異変が生じていた。真っ白な壁面の一部がスライドし、長方形の開口部が口を開けていたのだ。
その向こう側には、どこにでもある、しかし今は何よりも恋しい日常へと続く薄暗い廊下が見えている。学校の校舎なのか、あるいはどこかの施設なのかは判然としないが、少なくともこの狂った白い部屋ではない、現実世界の光景だった。廊下の向こうからは、微かに外気の匂いが漂ってくるような気さえした。
「出口が……開いてる」
その事実は、どんな言葉よりも雄弁に、彼らの勝利を物語っていた。
青はその開いた扉を冷ややかに一瞥すると、すぐに視線を足元へと戻した。そこには、最初にこの部屋で目覚めた時と同じように、一冊の教科書が無造作に転がっている。
「どうやら、私たちの回答は正解だったようね」
彼女は安堵の表情を見せて抱き合うような真似はせず、あくまで司令塔としての最後の仕事を遂行するように、淡々とした口調で昌幸へと指示を投げかけた。
「稗田くん、チェックなさい」
「……チェックって、あれか? 歴史が変わったかどうかを」
「当然でしょう。扉が開いたということは、脱出条件である歴史の修正が満たされたということ。けれど、結果を目で見て、論理的に確定させるまではミッション完了とは言えないわ」
彼女の徹底した慎重さと、相変わらずの人使いの荒さに、昌幸は苦笑しながら頷くしかなかった。この期に及んでも、彼女は完璧主義者のままだ。
昌幸は床に膝をつき、『詳説日本史』を拾い上げた。手についた泥で表紙を汚さないよう、袖口で指先を拭ってから慎重にページをめくる。指先が微かに震えているのは、疲労のせいだけではないだろう。
戦国時代。安土桃山時代。運命の分岐点となった、あのページを探す。
「……あった」
昌幸の指が止まった。
そこには、以前この部屋で確認した時とは全く異なる記述が並んでいた。
あの時見た『明智光秀が幕府を開いた』という異様な文章はきれいさっぱり消滅し、見慣れた史実がそこに刻まれていた。
『天正十年六月、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、山崎の戦いにて羽柴秀吉軍に敗れ、敗走中に落命した』
『その後、羽柴秀吉は信長の後継者としての地位を確立し、天下統一事業を推し進めていくことになる』
「明智光秀が……負けてる」
昌幸は噛み締めるように呟き、その横に掲載されている肖像画に目をやった。
以前見た時には神経質そうな明智光秀が初代将軍として鎮座していたスペースは、本来あるべき、恰幅の良い古狸のような男――徳川家康の肖像画に取って代わられていた。「坂本幕府」という異様な文字も消え失せ、見慣れた「江戸幕府」の記述が復活している。
秀吉の勝利という事実は確定させつつも、彼がそのまま幕府を開くといった『第三の歴史』への分岐は回避できたらしい。最小限の干渉にとどめたことで、歴史は本来あるべき流れへと収束したのだ。 たったひとつの偽装工作が、歴史の奔流をあるべき姿へと押し戻した証明がそこにあった。
「記述はどうなってるの?」
青が上から覗き込むように尋ねてくる。昌幸は教科書を開いたまま、彼女に向けて突き出した。
「お望み通りだ。秀吉の勝利に戻ってる。……俺たちの偽装工作が、バッチリ効いた証拠だ」
「そう。……完璧ね」
青は教科書の記述を目で追うと、満足げに小さく頷いた。その切れ長の瞳には、難解なパズルを解き明かした時のような、静かな達成感が宿っていた。彼女にとってはこの歴史修正すらも、クリアすべきゲームの一つに過ぎなかったのかもしれない。
出口の扉は、音もなく開かれたまま待っている。
壁の一部が溶け落ちたかのように出現したその開口部は、二人を元の世界へと誘っていた。
「行きましょう。こんな場所、一秒だって長居無用よ」
昌幸も彼女に続こうとして腰を上げたが――ふと、部屋の隅に鎮座する古びた家具に視線を奪われた。
タンスだ。
殺風景な近未来的な空間に、似つかわしくない昭和の遺物。塗装の剥げた茶色の木製家具が、ぽつんと置かれている。
今回の脱出劇における影の功労者が誰かと問われれば、昌幸はこの奇妙なタンスを挙げるだろう。偶然にしては出来すぎなくらい、必要な専門書や資材がすべて入っていた、謎の木箱。まるでゲームマスターにこちらの行動をすべて見透かされているかのような、用意周到すぎる収納家具。
(……世話になったな)
そんな感謝の念と共に、昌幸の胸中に、ある素朴な疑問が湧き上がった。
このタンスは、いわばゲームマスターからの救済措置のようなものだった。それならば、この中にはまだ使わなかったアイテムが眠っているのではないだろうか。
今回は偽装工作を選び、たまたまタンスの中に旗の材料があったから成功した。だが、もし別の作戦――例えば武力介入や買収を選んでいたら、どうなっていた? 昌幸たちは武器も金も持っていなかった。もしタンスの中身がこのガラクタだけだったなら、他の作戦を選んだ瞬間に手詰まりになっていたんじゃないか。
このふざけたゲームを設計した管理者が、他にどんな救済アイテムを用意していたのか。その意図を確かめたいという知的な好奇心が、昌幸の足を止めさせた。
同時に、緊張の糸が切れた脳裏に、ひどく場違いでくだらない連想がよぎる。
そもそも、この部屋の元ネタは「歴史を修正しないと出られない部屋」などという高尚なものではない。ネットの海に溢れる、もっと俗悪で、本能的なシチュエーションのパロディだ。
元ネタ通りの部屋だったなら、今頃ここには全く別の種類の緊張感が漂っていたはずだ。
――もしここが、『セックスしないと出られない部屋』だったらな。
そんな妄想が、脳裏を過った。
もしそうだったら、あの冷徹な西園寺青はどういう顔をしていただろうか。論理的なパズルとして処理したのか、それとも真っ赤になって怒っただろうか。想像するだけで背筋が凍るような、しかし少しだけ見てみたいような、複雑な心境になる。
昌幸は何気なくタンスの取っ手に手を伸ばした。もう用済みだ。管理者の用意した他の選択肢を確認して、笑い話にしてから帰ろう。
最後のお別れだ、と軽い気持ちで彼はその引き出しを開けた。
ゴトゴトという乾いた音と共に、引き出しが開く。
「……っ!?」
中身を目にした瞬間、昌幸の思考はホワイトアウトした。
そこには、武器も小判も入っていなかった。
代わりに収まっていたのは、見覚えのない小瓶と、薄いゴムの入った箱だった。
ラベルの文字を読むまでもない。毒々しいピンク色の液体が入った媚薬と、避妊具としてのコンドームが、整然と並べられていたのだ。
「…………」
昌幸の背中を、冷ややかな汗が伝い落ちた。
戦場で何千もの軍勢の足音を聞いた時よりも、心臓が大きく跳ねたかもしれない。
なぜ、こんなものがここに入っているのか。
そこでようやく、昌幸は一つの恐ろしい法則に気づいた。
専門書が出てきたのは、自分が詳細な情報を欲したから。
工作資材が出てきたのは、旗を作りたいと願ったから。
そして今、これが出てきたのは――昌幸がそういう展開を想像してしまったからだ。
このタンスは、最初からアイテムが用意された道具箱などではなかった。開ける者のその時の願望を具現化して吐き出す、欲望の鏡そのものだったのだ。
もし、この中身を彼女に見られたら。「あなたがこっそり隠し持っていたの?」などと誤解されたら。
俺の社会的生命は、この白い部屋の中で永遠に葬り去られることになる。それどころか、彼女の氷のような視線で殺されるかもしれない。
「稗田くん? 何してるの、置いていくわよ」
出口の方から、青の怪訝そうな声が飛んできた。
昌幸は弾かれたように振り返り、顔面が引きつるのを必死に堪えて感情を殺した。心臓が早鐘を打っているが、それを悟られてはならない。
「……いや、なんでもない」
昌幸は努めて自然な動作を心がけ、慌てて引き出しを押し戻した。
パタン、という軽い音が、彼の見たものを永遠に封印する音として響く。
見なかったことにしよう。これは幻覚だ。あるいは、この部屋が見せた最後の悪夢だ。
この事実は、墓場まで持っていこう。昌幸は固く決意し、逃げるようにタンスから離れた。
「空っぽだったよ」
「そう。……それにしても、どうしてタンスだったのかしら。あそこだけ昭和のセンスだったのが解せないわ」
青は興味なさげに肩をすくめ、再び前を向いた。彼女の鋭い洞察力をもってしても、まさかタンスの中にピンク色の小瓶が入っているとは夢にも思わないだろう。
二人は並んで、光溢れる出口へと足を踏み出した。
背後で、白い部屋と、秘密を飲み込んだタンスが静かに遠ざかっていく。
日常への帰還。昌幸の手には、戦場の泥とは違う、じっとりとした冷や汗だけが残っていた。




