5話
視界を埋め尽くしていた無機質な白が、唐突に暴力的な緑へと塗り替えられた。
三半規管を狂わせるような浮遊感が消失した直後、昌幸の全身を襲ったのは、不快極まりない湿気と熱気だった。空調によって完全に管理されていた白い部屋の空気と質が決定的に異なっている。肌にまとわりつくような濃密な大気は、水分を含んだスポンジのように重く、呼吸をするたびに肺が濡れた綿で満たされていくような錯覚を覚えさせた。
昌幸は重い瞼を持ち上げ、数度瞬きをして焦点を合わせた。
そこは、鬱蒼とした木々が頭上を覆い隠す、薄暗い山林の中だった。
足元には腐葉土と泥が混じり合ったぬかるみが広がり、周囲からは生命の気配が過剰なまでに押し寄せてくる。草いきれの青臭い匂い、湿った土の香り、そして何かが腐ったような微かな異臭。それらが混然一体となって鼻腔を刺激し、ここが清潔な現代社会から隔絶された場所であることを本能に訴えかけてきた。
「……うわ、あっつ」
昌幸は顔をしかめ、思わず呻き声を漏らした。
制服のシャツは瞬く間に汗と湿気で肌に張り付き、不快な感触を伝えてくる。現代の暦で言えば七月初旬、梅雨の最中である。蒸し風呂のような湿度は、ただ立っているだけで体力を削り取っていくようだった。
隣に視線を向けると、青もまた、不快そうに端正な眉をひそめていた。彼女の長い黒髪もすでに湿気を含んで重たげに垂れ下がり、純白のブラウスの襟元には玉のような汗が滲んでいる。だが、彼女は不平を口にするよりも先に、即座に周囲の状況確認を開始していた。
二人の背後には、白い部屋から転移してきたタイムマシンが、泥だらけの地面に不釣り合いに鎮座していた。周囲の原生林から浮きまくっているそのチープな近未来デザインの計器類は灯ったままであり、コンソールパネルの赤いデジタル表示だけが、薄暗い森の中で無機質な光を放っている。
『TIME REMAINING』
その数字は、すでにカウントダウンを開始していた。
秒単位で減っていくその数値がゼロになると強制的に現代の白い部屋へと送還されることになる。そして、その時点で歴史の修正――すなわち、この山頂に秀吉軍の旗を立てるというミッションが完了していなければ、脱出条件は満たされず、二人は永遠にあの何もない閉鎖空間に閉じ込められることになるのだ。
失敗は許されない。張り詰めた緊張感が、湿気とは別の嫌な汗を背中に滲ませる。
その時、重苦しい空気を震わせるように、腹の底に響く低い音が風に乗って聞こえてきた。
ブォォォォォォ、という野太い低音は、法螺貝の音だった。
それはテレビドラマや映画で耳にする整えられた効果音ではない。何千、何万という人間が命をやり取りしている殺伐とした戦場から響く、生々しい殺意の合図だった。音の波は木々を揺らし、肌を粟立たせるような威圧感を持って二人に迫る。
ここが平和な現代ではなく、天正十年の戦場、山崎の地であることを、その音は嫌というほど鼓膜に叩き込んでくるようだった。
「……空気に呑まれないで。私たちは戦いに来たわけじゃないわ」
昌幸の動揺を察したのか、青が鋭い声で意識を引き戻した。彼女の声には僅かな震えさえ混じっておらず、その冷静さが今の昌幸には唯一の救いのように感じられた。
彼女はスッと片手を上げ、木々の隙間にそびえる斜面の上方を指差した。
「あそこよ。あの頂上が目的地、天王山山頂」
指差された先を見上げ、昌幸は息を呑んだ。
標高約二百七十メートル。数字だけ聞けばハイキングコース程度の小山に思えるかもしれない。だが、眼前に立ちはだかる現実は、整備された登山道など存在しない、急勾配の獣道だった。雑草と低木が生い茂り、泥にまみれたその斜面は、現代の貧弱な装備で挑むにはあまりに過酷な壁に見えた。
「走って」
青は昌幸の方を見ようともせず、短く、しかし拒絶を許さない響きで命令を下した。
その言葉の意味を理解した瞬間、昌幸は背負っていた千成瓢箪の馬印と金色の旗を肩越しに見やり、顔をしかめた。
「は? ……おい、やっぱり俺が持つのかよ!」
「当たり前でしょ。私は司令塔、あなたは実働部隊。役割分担は済んでいるはずよ」
彼女は当然とばかりに言い放つと、泥汚れなど気にする素振りもなく、スニーカーでぬかるんだ地面を踏みしめて先陣を切った。その迷いのない背中は、議論の余地など一ミリも残していない。
昌幸は特大の溜息を湿った空気と共に飲み込み、旗の束を抱え直した。
「ちくしょう、覚えてろよ……!」
悪態をつきながらも、昌幸は湿った土を蹴り出した。
背後でタイムマシンのタイマーが、一秒、また一秒と無慈悲に減っていく気配を感じながら、二人は戦国時代の山道へと足を踏み入れた。
◇
肺が焼けつくように熱かった。
吸い込む空気はあまりに湿度が高く、酸素を求めて喘ぐ喉の奥にへばりつくようだった。心臓は早鐘を打ち、肋骨を内側から激しく叩いている。全身から噴き出す汗は、もはや止まることを知らず、制服のシャツを肌に張り付かせ、その上から容赦なく泥水が跳ね上がった。
「はぁ、はぁ……くそっ、キツすぎるだろ……!」
昌幸は、泥濘んだ地面に足を取られそうになりながら、掠れた声で毒づいた。
視界を遮るのは、鬱蒼と生い茂る雑木林と、顔に鞭のようにしなる枝葉だ。整備された登山道という親切な文明の利器は、この時代の天王山には存在しない。あるのは、猪や鹿が通った痕跡に過ぎない、頼りない獣道だけだ。足場は悪く、一歩踏み出すたびに靴底が滑り、ふくらはぎの筋肉が悲鳴を上げた。
背負った馬印の瓢箪が枝に引っかからないよう注意を払う必要があるため、体力の消耗は倍加していた。もしここで瓢箪を割ったり旗を破損させれば、すべての苦労が水泡に帰す。そのプレッシャーが、肉体的な疲労に精神的な重圧を上乗せしていた。
「なんで……普通の男子高校生が、戦国時代でガチの登山しなきゃならないんだよ……」
愚痴は、荒い呼吸と共に白い吐息となって虚空に消える。
だが、その弱音を聞き咎める冷ややかな声が、前方から容赦なく飛んできた。
「無駄口を叩く肺活量があるなら、足を前に出しなさい」
数メートル先を行く青が、肩越しに昌幸を睨みつけた。
彼女の艶やかな黒髪も、今は湿気で頬に張り付き、乱れている。整った制服のスカートにも泥跳ねが付着し、あの潔癖な彼女とは思えない汚れようだった。だが、その瞳に宿る光だけは、この切迫した状況下でも決して揺らいでいなかった。疲労の色は見せても、その意志の強さは岩盤のように強固だ。
「分かってる……けどよ……!」
「分かっていないわ。状況を再認させてあげる」
青は足を止めることなく、木々の合間を縫うように進みながら、早口で告げた。呼吸は乱れているが、その思考はあくまで論理的だ。
「歴史資料によれば、明智軍の前衛部隊である並河易家・松田政近の隊は、すぐそこまで迫っているのよ。彼らより一秒でも遅れて山頂を取られたらアウト。永遠にあの部屋から出られなくなる」
彼女は一瞬だけ振り返り、鋭い視線で昌幸を射抜いた。
「歴史の藻屑になりたくなかったら、口より足を動かしなさい」
その言葉は比喩ではなかった。
湿った風に乗って、下界から響いてくる音が変わり始めていた。
先ほどまでの遠雷のような法螺貝の音に混じり、何千という人間が動く地響きのようなノイズが、山の麓から這い上がってきている。
姿は見えない。声もまだ遠い。だが、その気配の接近こそが、真綿で首を絞められるような恐怖を煽った。
「……まだ距離はあるわね。でも、向こうは軍隊よ。健脚な兵士なら、この程度の山道はあっという間に登り詰めてくる」
青が背後――山麓の方角を睨みつけながら言った。
今はまだ、深い森の静寂が二人を守っている。だが、その静けさが破られるのは時間の問題だ。もし山頂での作業中に追いつかれれば、問答無用で斬り捨てられる。
「急ぐわよ。奴らの姿が見える前に、作業を終わらせて撤収するの」
昌幸は恐怖を振り払うように足に力を込めた。見えない追っ手と、刻一刻と減っていくタイムリミット。二つの重圧が、鉛のように重い足を無理やり前へと進ませた。
もしここで明智軍に見つかり、その背中に千成瓢箪と金の旗があるのを見られれば、ただの怪しい子供では済まされない。明確な敵性勢力――羽柴軍の一味として、問答無用で斬り捨てられるだろう。現代の法も人権も通用しない、暴力が支配する世界なのだ。
背後からは、何千という軍靴が地面を叩く振動が、まるで巨大な生物の鼓動のように響いてくる。
姿は見えなくとも、その圧迫感だけで十分に心臓が押し潰されそうだった。喉が渇き、掌にべっとりと嫌な汗が湧き出る。
立ち止まって確認するまでもない。追いつかれれば終わりだ。
麓に残してきたタイムマシンのカウントダウンは今も容赦なく進み、敵兵もまた、頂上を目指して進軍を続けている。これは、見えないゴールテープを切るための、命懸けのレースなのだ。一歩でも遅れた方が、歴史の敗者となる。
青が無言で顎をしゃくった。あっちよ、という合図だ。
昌幸は無言で頷き、悲鳴を上げる足に再び力を込めた。泥に足を取られそうになりながらも、必死でバランスを保つ。
恐怖に追われ、使命感に急かされ、泥と汗にまみれながら、二人は道なき斜面を這うように駆け上がっていった。
◇
限界まで酷使された肺が悲鳴を上げ、視界が酸欠でチカチカと明滅し始めた頃だった。
ふいに、前方の視界が一気に開けた。
鬱蒼とした木々のトンネルを抜け、二人はようやく天王山の山頂へと足を踏み入れたのだ。
そこは木々が切り払われた平坦地になっており、強風が吹き抜けていた。標高二百七十メートル。数字にすれば大したことのない高さかもしれないが、道なき急勾配を全力疾走で駆け上がった体感としては、数千メートルの高峰に挑んだような疲労感だった。
「つ、着いた……」
昌幸は泥だらけになったスニーカーで山頂の地面を踏みしめ、膝に手をついて荒い呼吸を整えた。喉の奥から鉄の味がする。全身の筋肉が痙攣し、立っているのがやっとの状態だった。
だが、感傷に浸っている暇はなかった。
「絶景ね。ここなら申し分ないわ」
隣で息を整えていた青が、眼下に広がる景色を見下ろして短く告げた。彼女も肩で息をしてはいたが、その瞳はすでに次のフェーズへと移行し、冷静に状況を分析し始めていた。
昌幸も顔を上げ、その光景を目に焼き付ける。
そこは、まさに戦場を見下ろす特等席だった。
眼下には、淀川と天王山に挟まれた狭隘な地形――山崎の戦場が一望できた。
東側には淀川がゆったりと流れ、西側には山々が迫る。この狭い平野部こそが、天下の行方を決めるボトルネックなのだと、歴史の教科書で読んだ知識が現実の光景として腑に落ちた。
まだ本隊は到着していないのか、戦場となるはずの平野は嵐の前の静けさに包まれている。
「急いで。風が強くなってきたわ」
青の冷静な声に促され、昌幸は背負っていた馬印と旗を降ろした。
白い部屋で行った準備作業、あのクラフトワークの成果を見せる時が来たのだ。
「分かってるよ。……絶対に倒れないようにすればいいんだろ」
昌幸は地面の硬さを足裏で確認し、持参した固定具を取り出した。
ただ地面に突き刺すだけでは、山頂の強風に煽られてすぐに倒れてしまうだろう。そうなれば、明智軍を騙すどころか「倒れた秀吉の旗」という敗北の象徴になりかねない。そんな無様な真似は許されなかった。
昌幸は手早く石を拾い集め、それを槌代わりにして杭を打ち込んだ。さらに、タンスから調達した竹材を巧みに組み、旗竿の土台を作り上げていく。
時代考証に引っかからないよう、現代の金具やプラスチックは一切使用していない。麻紐と木の楔だけを使った古典的な固定方法だ。文化祭の大道具係で培った地味な技術と、昌幸本来の手先の器用さが、この戦国時代の山頂で遺憾なく発揮されていた。
「よし……」
最後の結び目を固く締め上げ、昌幸は旗竿を垂直に立てた。
吹き抜ける強風が、旗を大きくはためかせる。
昌幸の手を離れたその瞬間、竿の先で無数の瓢箪がカラカラと鳴り、その下で金色の旗がバサリと音を立てて大空に翻った。
曇天の鈍色の空の下、鮮やかな黄金と瓢箪のシルエットが踊る。
それは偽物であり、ただの張りぼてに過ぎない。高校生が即席で作った大道具だ。だが、この場所、このタイミング、この歴史の分岐点においては、何万の兵士の命運を左右する事実そのものだった。
「効果が出ているわよ。下を見て」
青が冷ややかな笑みを浮かべ、山麓を指差した。
二人は並んで崖際に立ち、眼下の明智軍を見下ろした。
変化は劇的だった。
先ほどまで、アリの行列のように山麓へと迫っていた明智軍の前衛部隊が、ぴたりと動きを止めたのだ。生い茂る木々に遮られているため、個々の兵士の姿までは見えない。だが、木々の梢や隙間からは、明智の家紋――水色桔梗の旗印がいくつも揺れているのがハッキリと見て取れた。
それらが一斉に停止し、軍全体を覆う空気が一変したのが、物理的な圧迫感の変化として伝わってきた。
『既に秀吉軍に山を取られた』
『山から撃ち下ろされるぞ』
そんな疑心暗鬼が伝播していく様が、手に取るように分かった。
進軍が止まり、隊列が乱れ、勢いが削がれていく。それはまさに、歴史の流れが物理的に堰き止められた瞬間だった。たった一つの偽装工作が、数千の兵士の足を止め、歴史の歯車を秀吉の勝利へと強引に回転させたのだ。
「これで戦いの主導権は秀吉のものになるわ」
青は、山頂の風に長い黒髪をなびかせながら、眼下の混乱を冷静に見据えた。勝利を確信し、その口元が自然と緩んだ。
「チェックメイトね」
「……うまくいったな」
昌幸は荒い息を吐きながら、呆然と呟いた。
泥だらけの制服、汗で張り付くシャツ、震える膝。姿形は酷いものだが、胸の奥から湧き上がってくる感情は、これまでに味わったことのない種類のものだった。
たった二人の高校生が仕掛けた子供騙しのブラフが、数千の軍勢を釘付けにし、歴史の奔流をねじ曲げたのだ。その事実に、背筋が粟立つような戦慄と、奇妙な高揚感を覚える。自分たちは今、歴史の特異点に立っている。
だが、感傷に浸る時間はもう残されていなかった。
ピッ、ピッ、ピッ、という無機質な電子音が、不意に二人の脳内で直接響いた。
距離の離れたタイムマシンから、リンクした搭乗者の意識へ直接警告を送っているのだ。
昌幸と青は、誰にも見つかることなく、ただその場に立ち尽くしていた。
任務は完遂した。これ以上、この時代に留まる理由も、干渉する権利もない。あとは運命に身を委ねるだけだ。
青は、乱れた黒髪をかき上げることもせず、ただ静かに眼下の敵軍を見下ろしていた。その横顔には、安堵も興奮もなく、ただパズルを解き終えた者特有の冷ややかな達成感だけが漂っている。
彼女はふと視線を上げ、どこか遠くを見るような瞳で呟いた。
「時間よ。さようなら戦国時代」
それは、あまりにあっさりとした、事務的な別れの言葉だった。
次の瞬間、世界が揺らいだ。
視界の端から景色が粒子となって分解され、戦場の湿気も、草の匂いも、重力さえもが希薄になっていく。
昌幸たちの身体は、フッと蝋燭の火が消えるように、その場から掻き消された。
後には、山頂の風にひとりなびく、金色の旗と瓢箪だけが残された。
誰もいない山頂で、偽造された秀吉の馬印だけが、これから訪れる正しい歴史の道標として、誇らしげに翻り続けていた。




