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歴史を修正しないと出られない部屋  作者: 久能のの
月桂冠に届かぬ告発状

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5話

 カエサルの紫の縁取りが施されたトガの裾が、巨大な大理石の円柱の陰へと完全に消えていった後も、ポンペイウス劇場の回廊にはまだ生々しい熱狂の余韻がべっとりとへばりついていた。


 昌幸は、隠れ潜んでいた円柱の裏側で、張り詰めていた息を細く長く吐き出した。額から流れ落ちた汗が目に入りそうになり、慌てて古代の生成りの布地であるトゥニカの袖口で乱暴に拭う。左腕に巻きつけられた分厚いウールのトガは、ただでさえ重苦しい上に、極度の緊張と群衆の熱気でたっぷりと湿り気を帯び、まるで鉛の拘束具のように全身の自由を奪っていた。

 足元の石畳の少し先では、昌幸がばら撒いたデナリウス銀貨やアウレウス金貨を巡る群衆の狂乱が、未だに完全には収束していなかった。もはや最高権力者への高尚な陳情や、自らの地位向上のための政治的な野心など、彼らの頭の中からは完全に吹き飛んでいるようだった。土埃にまみれ、膝を擦り剥きながら石畳の隙間に転がった硬貨を血眼になって探し求める者。隣の男と掴み合いになり、互いの衣服を引き裂きながら罵声を浴びせ合う者。人間の奥底に眠る即物的な強欲さが剥き出しになった光景は、先ほどまでの洗練されたローマ市民の姿からは想像もつかないほど浅ましく、そして滑稽であった。


 その狂乱の震源地に立ち尽くしているクニドスのアルテミドルスの姿を、昌幸は柱の陰から冷ややかな眼差しで確認した。つい先ほどまで、暗殺計画という国家の命運を左右する巨大な陰謀を告発しようと、悲壮なまでの決意を顔に浮かべていたギリシア人修辞学者の面影は、そこにはもう微塵も残っていなかった。周囲の暴徒と化した市民たちに何度も肘で突き飛ばされ、肩を激しくぶつけられた彼の衣服は無残に着崩れ、顔面からは完全に血の気が引いている。すでにカエサルへ巻物を手渡してしまった彼の両腕は、ただ群衆の狂乱から身を守るように、恐怖と混乱で小刻みに震える自身の体を力なく抱きかかえていた。


 昌幸の工作は、完璧に機能したのだ。突発的なパニックを引き起こすことで、アルテミドルスが告発状を全開にしてカエサルの視界に飛び込ませるという最悪のイレギュラーを、非暴力的な手段で未然に防ぐことに成功した。結果として、萎縮しきったアルテミドルスは、史実通り「丸めた状態」の告発状を、無数のありふれた嘆願書の一つとしてカエサルに乱雑に手渡すこととなった。

 カエサルは、その巻物を開いて読むことはなかった。無造作に他の書類とともに握りしめたまま、護衛もつけずに無防備な背中を向けて、暗殺者たちが待ち構える元老院の議場、クリア・ポンペイアへと歩みを進めていった。そして、もう二度と彼がその議場から生きて出てくることはない。カエサルはそれを読まずに議場へと歩みを進め、奥から暗殺の実行を示す喧騒が響き渡ることで、歴史が本来の軌道へと修正されるはずだ。


 昌幸の視線の先で、少し離れた位置に陣取っていた西園寺青が、微かに顎を引いて頷くのが見えた。彼女の纏う優雅なストラとパッラは、このむせ返るような喧騒の中にあっても奇跡的に汚れ一つなく、その整いすぎた横顔は周囲の狂乱から完全に切り離されたように静謐であった。だが、彼女の切れ長の瞳の奥にも、無事に歴史の特異点を潰すことができたという確かな手応えと、張り詰めた緊張からの安堵の光が微かに揺らいでいるのを、昌幸は確かに感じ取っていた。


 二人をつなぐ無言の通信が途切れた直後、昌幸の脳の奥底に直接響くような、無機質な電子音がピピッ、ピピッと鳴り響いた。

 それは、離れた別の座標からタイムマシンが活動限界を告げる非情なアラートであった。修正が完了した直後、タイムマシンの活動限界を迎え、二人は「白い部屋」へと引き戻される。

 昌幸が小さく息を呑んだ瞬間、古代ローマのむせ返るような熱気も、乾いた土埃の匂いも、パニックに陥った群衆の怒号も、すべてが圧倒的な光の渦の中に急速に溶け落ちていった。

 転移の感覚は、決して心地よいものではなかった。視界が純白に塗り潰されると同時に、急激な気圧の変化に似た耳鳴りが鼓膜を圧迫する。足元から重力がふっと抜け落ち、内臓が不自然に持ち上げられるような強烈な浮遊感。肺を満たしていた生々しい空気が一瞬にして真空に引き抜かれ、嗅覚が完全に遮断される。自分の身体の輪郭が曖昧になり、風景の絵の具が水に溶けて混ざり合うような、ひどく不安定な眩暈の中を落下していく。

 やがて、網膜を灼くような光がゆっくりと収束し、足の裏に硬く冷たい無機質な感触が戻ってきた。


 次に昌幸が鉛のように重い瞼をこじ開けたとき、目に飛び込んできたのは、上下左右の境界線すら曖昧になる、あの見慣れた果てのない純白の空間だった。

 肺の奥へと滑り込んできたのは、土埃も体臭も一切含まれていない、極めて人工的で湿度を感じさせない冷たい空気だ。古代ローマの喧騒は完全に消え失せ、鼓膜が痛くなるほどの完璧な静寂が部屋を支配している。


「……っ、はぁっ……」


 昌幸は極度の緊張と転移の不快感から解放され、足の力が抜けてその場に崩れ落ちるようにへたり込んだ。

 古代ローマの衣服はそのままだった。汗をたっぷりと吸い込んだ分厚いウールのトガが、無慈悲な重量となって肩から左腕を激しく圧迫している。昌幸は忌々しげに顔を歪めると、まとわりつく布の塊を乱暴に肩から引き剥がし、白い床の上へと投げ捨てた。肌着である生成りのトゥニカ一枚になっても、じっとりと張り付いた汗の冷たさが不快でたまらない。


「……戻って、きたか」


 乾ききった喉から、ひどく掠れた声が漏れる。歴史の歪みを正すためとはいえ、何千という殺気立った群衆の只中に飛び込み、一歩間違えれば命を落としかねない泥臭い工作を成功させるというミッションは、彼の精神と体力を限界まで削り取っていた。

 すぐ隣では、青もまた静かに身を起こしているところだった。

 古代ローマの女性の正装である長いストラと、肩から掛けたパッラを身に纏った彼女の姿は、この無機質な空間の中にあっても異様なほどの美しさと威厳を保っていた。しかし、陶器のように滑らかで透き通るような白い肌には、隠しきれない明らかな疲労の色が滲んでおり、普段よりもわずかに呼吸が浅い。それでも彼女は、床に座り込むような真似は決してせず、乱れた衣服の裾を細い指先で優雅に払い、すくっと立ち上がった。


 彼女の切れ長の瞳は、一切の揺らぎを見せることなく、部屋の中央へと向けられていた。

 そこには、無地の床の上にポツンと置かれた一冊の『詳説 世界史』の教科書がある。現状の歴史がどうなっているかを確認し、ミッションの成否を判定するための、唯一にして絶対のツールだ。

 青は足音すら立てずに教科書へ歩み寄ると、それを拾い上げた。

 微かな衣擦れの音を響かせながら、彼女の白魚のような指が滑らかにページをめくっていく。果てのない静寂の中、パラパラと紙が擦れる乾いた音だけが無機質な空間に落ちた。

 昌幸も重い腰を上げ、裸足でペタペタと床を歩いて青の隣へと向かった。彼女の手元を覗き込むと、そこには現代の世界情勢を記したページが開かれている。


 二人が『詳説 世界史』を確認すると、ラテン語支配による国境線のない世界地図は消滅し、多様な国境線と言語が存在する見慣れた世界の記述に戻っている。


「……どうだ? ちゃんと元に戻ってるか?」


 昌幸が息を詰めて問いかけると、活字の海を鋭利な視線で追っていた青の指がピタリと止まり、その端正な顔立ちに微かな安堵の光が宿った。


「ええ。私たちの泥臭い工作は、見事に歴史の歯車を正しい位置へと噛み合わせたようね」


 青は分厚い教科書から顔を上げ、静かな、しかし確かな達成感を込めた声で告げた。


「あの絶望的な『ローマ帝国による地球全土の統一』という歪んだ記述は、完全に消え去っているわ」


 昌幸が身を乗り出して紙面を確認すると、先ほどまでユーラシアから新大陸に至るまでを単一の不気味な色で塗り潰していた、あの国境線のない世界地図は跡形もなく消え去っていた。代わりにページを鮮やかに彩っていたのは、赤や青、緑といった様々な色で複雑に塗り分けられ、幾重にも重なる国境線によって区切られた、昌幸たちにとって見慣れた世界の姿だった。


「言語や文化の記述も、すべて正常化されている。単一のラテン語による絶対的な支配は終わりを告げ、それぞれの地域で育まれた多様な言語、独自の建築様式、そして無数の固有文化が、歴史の表舞台にしっかりと息づいているわ」


 青が淡々と、新たに刻まれた歴史を読み上げていく。

 カエサルの暗殺という一つの死が、巨大な帝国の暴走を食い止め、結果として人類が数千年の時をかけて築き上げてきた美しき多様性を守り抜いたのだ。世界史よりも芸術史や文化史に深い造詣を持つ昌幸にとって、世界中から多様な文化や言語が失われるという事態は、どんな独裁者の圧政よりも恐ろしいディストピアであった。様々な風土で生まれた絵画、彫刻、文学が、再び歴史の正当な流れの中で輝きを取り戻したという事実に、昌幸の胸の奥からじわじわと温かい感慨が湧き上がってくる。


「……これで、終わったんだな」


 昌幸の安堵の呟きに応えるように、青が静かに分厚い表紙を閉じた。

 部屋を見渡すと、元の世界へと通じる扉がすでに静かに開かれ、二人を待っていた。過去で歴史が本来の軌道に修正されたその瞬間から、この密室は出口を用意して彼らの帰還を待ち受けていたのだ。

 開かれた扉の向こうからは、古い紙の匂いと、少しカビ臭いような部室特有の空気が流れ込んでくる。窓の外からは、夕焼けのオレンジ色の光が斜めに差し込んでおり、床に落ちた二人の影を長く引き伸ばしていた。歴史が本来の軌道に修正されたことで、この理不尽な部屋から元の世界へと生還する条件が、ついに満たされたのだ。

 極度の緊張からの解放と、古代ローマの鬱陶しい衣装からくる疲労がどっと押し寄せ、青はかすかな溜息を吐きながら、その開かれた扉へと向かって静かに歩みを進めた。早くこの非現実的な空間から立ち去り、平穏な日常へと帰還したいという彼女の無言の意志が、その背中から滲み出ている。


 しかし、彼女がその扉の境界線を潜ろうとした、まさにその瞬間だった。


「待てよ、西園寺」


 開かれた扉から出ようとする青を、昌幸が制止する。

 無機質な空間に響いた昌幸の声は、いつもの気怠げなものではなく、低く真剣な響きを帯びていた。

青はピタリと足を止め、優雅な所作で振り返った。その切れ長の瞳には、呼び止められたことへの怪訝な色と、僅かな苛立ちが混じっている。


「何かしら。歴史は正しく修正され、世界は本来の姿を取り戻したわ。このふざけた密室にこれ以上長居する理由なんて、どこにもないはずよ」

「ああ、そうだな。俺だって一秒でも早く帰って、家の布団に倒れ込みたい気分だ。だけど、その前に一つだけ確かめておきたいことがある」


 昌幸は特大の溜息を吐き出しながらも、その視線は鋭く、部屋の隅にぽつんと鎮座する古びた木製のタンスを真っ直ぐに捉えていた。

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