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歴史を修正しないと出られない部屋  作者: 久能のの
月桂冠に届かぬ告発状

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4話

 アルテミドルスの死角となる巨大な大理石の円柱の陰に陣取った昌幸は、不慣れな古代の衣服の下で、じっとりと粘りつくような汗を絶え間なく流していた。地中海の強烈な太陽が、ポンペイウス劇場の分厚い石造りの回廊を容赦なく熱している。そこに、数千人という規格外の人間の群れから発せられるむせ返るような熱気、体臭、安価な香水の匂い、そして足元で踏み荒らされた乾いた土埃の臭気がドロドロに混ざり合い、ただ息を吸い込むだけで肺の奥がじりじりと焼かれるような錯覚を覚えた。


 やがて、回廊に充満する重苦しい喧騒が、さらに一段階上の限界へと達しつつあるのを感じた。ポンペイウス劇場を取り囲むようにひしめいていた群衆の波が、何かの合図でもあったかのように、一斉にある方向へと向き直る。商人、退役軍人、没落貴族、そして野心に燃える若者たち。それぞれの欲望を瞳にギラつかせた彼らが、一斉に声を上げた。

 歓声とも、怒号とも、あるいは狂気に満ちた祈りともつかない巨大なノイズが、石造りの壁や天井に何度も反響し、空間全体が巨大な獣のように低く唸りを上げた。足元の石畳を通じて、数千人の足踏みと空気を震わせる声の振動が、地響きとなって昌幸の全身に伝わってくる。


 最高権力者にして終身独裁官、ガイウス・ユリウス・カエサルが姿を現したのだ。

 まだ昌幸の潜む位置からは、巨大な列柱と分厚い人壁に阻まれてその姿を直接確認することはできない。しかし、群衆の異常な反応のうねりが、独裁者の接近を雄弁に、そして恐ろしいほどの熱量で物語っていた。人々の波が前へ前へと押し寄せ、期待と野心が入り混じった狂乱の渦が回廊を完全に満たしていく。


 昌幸はごくりと乾いた喉を鳴らし、息を殺した。そして、群衆の最前列付近で周囲の圧力にもみくちゃにされている一人の男、ギリシア人修辞学者アルテミドルスの一挙手一投足に全神経を集中させた。

 カエサルの歩みが近づくにつれ、群衆の圧力はさらに無慈悲に増していく。周囲の屈強なローマ市民たちが着ている分厚いトガに前後左右から挟まれ、ギリシア風の四角い外套であるヒマティオンを纏ったアルテミドルスの顔は、苦痛と極度の緊張で歪んでいた。額からは大粒の汗が流れ落ち、その表情には、暗殺という国家を揺るがす巨大な陰謀を告発するという極限の焦燥と、後戻りできない決意が入り混じった悲壮な色が浮かんでいる。歴史の重圧と、接近してくる巨大な権力者のオーラに当てられ、彼の精神はすでに引き千切れる寸前の限界状態にあるはずだ。


 アルテミドルスは、ついに耐えきれなくなったように大きく息を吸い込むと、周囲の押し合いを無理やり掻き分けるようにして一歩前へ踏み出した。そして、震える右手で固く握りしめていたパピルスの巻物の封に指を掛けた。

 カエサルの目に確実にとまるよう、告発状を全開にして群衆の前に躍り出ようと身体を前へと傾ける。史実では群衆のノイズに阻まれて読まれることなく「丸められた状態」で手渡されるはずのその手紙が、この改変された世界線においては、今まさに「開かれた状態」でカエサルの視界に飛び込もうとしている。

 まさにその瞬間が、歴史の歯車が決定的に狂い、人類の未来が単一の帝国に支配されるかどうかの、運命の特異点だった。


「今だ……!」


 昌幸は心の中で鋭く叫び、緊張で強張っていた全身の筋肉をバネのように一気に弾けさせた。アルテミドルスからの視線が完全に遮られた死角、大理石の円柱の陰から、大きく足を踏み出し、渾身の力を込めて右腕を振るう。

 麻袋の口から解き放たれた大量の高額金銀貨が、大理石の列柱の隙間から斜めに差し込む強い陽光をまともに受けた。デナリウス銀貨の白刃のような煌めきと、アウレウス金貨の濃密で鈍い黄金色の光が、無数の光の軌跡を描きながら宙を舞う。それは美しくも残酷な放物線を描き、アルテミドルスの足元や、彼がまさに進み出ようとしていた前方の石畳へと、雨霰のように勢いよく降り注いだ。

 チャリン、ガシャンと、硬い金属が石畳にぶつかって激しく跳ね回る甲高い音が、ほんの一瞬だけ、周囲の重苦しい喧騒と怒号を鋭く切り裂いた。

 その異質な音の響きに、数千人の群衆の視線が、まるで強力な磁石に引かれたかのように一斉に足元へと吸い込まれる。

 彼らの目に飛び込んできたのは、ただの薄汚れた銅貨ではない。古代ローマの一般市民や、明日のパンにも困るような没落した者たちにとっては、一生かかっても決して稼ぐことのできないほどの途方もない富の結晶だった。それが、まるで神の気まぐれな恵みのように、誰の所有物でもない無防備な状態で、石畳の上で鈍く妖しい光を放っているのだ。


「金だ! 金貨が落ちてるぞ!」


 誰かの血走った、引き攣るような叫び声を合図に、群衆の理性をかろうじて繋ぎ止めていた細い糸が、ぷつりと音を立てて切れた。

 人間の奥底に眠る強欲さのタガが完全に外れた瞬間だった。最高権力者へ嘆願書を渡し、自身の地位や生活の向上を求めるという、彼らがここに集まった本来の高尚な目的すら完全に忘れ去られる。目の前に転がる即物的な富を少しでも多く掻き集めようと、無数の人々が眼の色を変え、我先にと足元の石畳へ向かって殺到した。

 四つん這いになって地を這い、泥まみれになりながら硬貨に手を伸ばす者。邪魔な前の人間を力任せに突き飛ばし、あるいは蹴り飛ばして前へ出ようとする者。互いの衣服を掴んで引きずり倒し、転がった金貨を奪い合って取っ組み合いの喧嘩を始める者。

 突発的な押し合いへし合いは、瞬く間に制御不能の、暴動と見紛うほどの狂乱状態へと発展した。高貴なはずのトガの裾が無残に踏みにじられ、あちこちで布が荒々しく引き裂かれる嫌な音が響き渡る。怒号、罵声、そして踏みつけられた者の悲鳴が入り混じった純粋なカオスが、ポンペイウス劇場の回廊を完全に支配した。


 そして、その狂乱のまさに震源地に立たされていたアルテミドルスは、突如として発生した欲望の波に、あっけなく完全に飲み込まれてしまった。

 四方八方から押し寄せる人々の暴力的な圧力に揉まれ、彼の細身の体は為す術もなく前後左右に激しく揺さぶられる。誰かの硬い肘が容赦なく脇腹に食い込み、足の甲を重い革靴に何度も踏みつけられ、呼吸すらままならないほどの圧迫感で体勢を崩しかける。

 彼がカエサルに見せようと全開にして突き出そうとしていた告発状は、この無秩序な人の海の中ではあまりにも無防備だった。このままでは間違いなく、小銭を奪い合う他人の腕にぶつかってパピルスが真っ二つに引き裂かれるか、あるいは突き飛ばされた拍子に足元に落としてしまい、血眼で地面を這う無数の足に無残に踏みにじられて泥まみれになってしまう。


 国家の命運を左右する重大な告発状を、群衆が足元で巻き起こすこんなくだらない小銭の奪い合いの中で失うわけにはいかない。アルテミドルスは自身の命よりも大切な情報を守るため、人間の根本的な防衛本能に従い、反射的に開いていたパピルスをくるくると固く丸め直し、自身の胸の奥へと深く抱え込まざるを得なかった。

 彼の耳に届いてくるのは、国家の未来を憂う高潔な政治の議論でもなければ、独裁者への忠誠を誓う美しい言葉でもない。


「邪魔だ! どけ!」

「小銭拾いの邪魔をするな!」

「急に押すんじゃねえ、ぶっ殺すぞ!」


 ただ目の前の金貨を拾うことに狂奔する殺気立った群衆から、アルテミドルスは容赦なく下劣な罵声を浴びせられ続けた。突き出された肩や背中を物理的に激しく弾き飛ばされ、もはや自分がどっちを向いているのかすら定かではなくなっていく。

 ただでさえ、暗殺計画を独裁者本人に告発するという、自らの命を懸けた極限の緊張状態にあった彼の精神は、この理不尽で生々しい暴力と狂乱の波を前にして完全にへし折られてしまった。顔面からはさあっと血の気が引き、蒼白になった唇が小さく震えている。

 丸めたパピルスを抱え込んだまま、恐怖と混乱で身をすくめる彼は、もはや堂々と告発状を突き出して歴史を変える勇敢な修辞学者ではなかった。ただ群衆の理不尽な暴力に怯え、嵐が過ぎ去るのを待つだけのか弱き一人の人間に成り下がっていた。


 そして、彼が群衆の圧倒的な圧力に屈して完全に萎縮しきっていた、まさにその直後。

 押し合いへし合いする見苦しい嘆願者たちの間を縫うようにして、ついにその人物が姿を現した。紫の縁取りが施された豪奢なトガを身に纏い、従者たちを従えた最高権力者、カエサル本人が、アルテミドルスのすぐ目の前を通りかかったのだ。

 カエサルが放つ静かなる、しかし絶対的な覇気と、ただそこに存在するだけで空間の空気を支配してしまう圧倒的なまでのカリスマ性。その姿を至近距離で目にしたアルテミドルスは、完全に気圧されてしまった。震える手をゆっくりと前へ伸ばすことしかできない。彼の口からは、独裁者に陰謀の警告を発するための力強い言葉は、ただの一言も出てこなかった。

 彼はただ、史実通り「丸められた状態」のままの告発状を、ほとんどすがるような、無様で力のない手つきで、乱雑に差し出すことしかできなかった。


 全開にして目に飛び込ませるはずだった、歴史を変える衝撃的な一文は、固く巻かれたパピルスの内側に永遠に隠されたままだ。カエサルの目から見れば、それはもう、独裁者の足を止めさせる重要な「暗殺の告発状」ではなく、周囲の無数の市民たちが差し出してくる、ありふれた取るに足らない嘆願書の一つにしか見えなかっただろう。

 カエサルが立ち止まることもなく、その巻物を無造作に受け取ったのを、円柱の陰から息を潜めていた昌幸は確かに見届けた。


 独裁者はそれ以上の注意を払うことも、立ち止まってそれを開いて読むこともない。他の書類とともに片手に握りしめたまま、その視線はすでに前方にある議場へと向けられていた。

 歴史の巨大な歯車が、本来あるべき正しい軌道に乗って、重々しく、そして確かな手応えとともに噛み合った音がした。

 昌幸は極度の緊張で張り詰めていた肺から息を細く長く吐き出し、汗にまみれた手のひらを、ズボンの代わりのような古代の布地に擦り付けながら、強く握りしめた。

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