表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歴史を修正しないと出られない部屋  作者: 久能のの
月桂冠に届かぬ告発状

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/31

3話

 無機質な密室に、暴力的なまでの純白の閃光が弾けた。昌幸がタイムマシンの作動ボタンを力強く押し込んだ直後、網膜を灼き尽くすような光の渦が視界を完全に塗り潰す。細胞の隅々が素粒子レベルにまで分解され、また別の座標で強引に編み直されるような特有の強烈な不快感。内臓がひっくり返るような浮遊感と吐き気が全身を駆け抜け、無臭で温度も湿度も一切感じさせなかった人工的な空気は、一瞬にして消え去った。


 やがて、視界を覆っていた光の奔流がゆっくりと引き、足の裏に硬い石畳の感触が伝わってくる。鉛のように重い瞼をこじ開けると、肺の奥へと滑り込んできたのは、無機質な部屋のそれとは対極にある、むせ返るような生々しい空気だった。むき出しの土埃と、強い陽射しに熱せられた石の匂い。そして何より、何千という人間の体臭と、油や香水、汗の匂いが混ざり合った、圧倒的なまでの熱気が肌にまとわりついてくる。


 昌幸は、不慣れな衣装の下でじわりと冷や汗が滲むのを感じた。彼が今身に纏っているのは、古代ローマの基本的な衣服であり肌着でもあるトゥニカと呼ばれる生成りのチュニックと、その上に羽織ったトガという巨大な布だ。トガはローマの市民権を持つ成人男性だけが公の場での着用を許される象徴的な衣装だが、現代の衣服とは比べ物にならないほど不便極まりない代物だった。数メートルにも及ぶ分厚く重いウールの一枚布を、ピンやボタンも使わずに身体の周りに複雑に巻きつけ、左腕に掛けてドレープを作っているだけである。少し動くだけで着崩れそうになる上に、左手が常に塞がった状態になるため、その重量感と拘束感は想像以上だった。隣を見れば、青もまた当時のローマの女性が着用する足首まである長い衣服のストラと、その上にパッラと呼ばれる長方形のショールを優雅に羽織り、完全に時代に溶け込んでいる。


 紀元前四十四年三月十五日。巨大な歴史のうねりを打ち砕き、本来の多様な世界を取り戻すために二人が降り立ったのは、まさに歴史の特異点であり、のちに凄惨な暗殺の舞台となる「ポンペイウス劇場」の外周にあたる、ポルティクスと呼ばれる屋根付きの回廊の暗がりだった。

 今回の目的は、カエサルに暗殺の告発状を渡そうとするアルテミドルスを見つけ出し、彼の手元を物理的に狂わせること。タイムマシンの活動限界までに、そして周囲のローマ市民に一切の暴力を振るうことなく、ただ群衆のパニックだけを誘発して標的を無力化しなければならない。

 昌幸の眼前に広がるのは、天を突くような巨大な大理石の円柱が幾重にも立ち並ぶ、壮麗かつ威圧的な空間だ。当時のローマにおいて最大の規模を誇ったこの複合施設は、単なる劇場に留まらず、広大な庭園や神殿、そして元老院の議場をも内包する巨大な建造物群である。列柱の隙間からは地中海特有の鋭く強烈な陽射しが斜めに差し込み、白大理石の床や、至る所に配置された精緻な彫像の輪郭を鮮やかに、そして劇的に浮かび上がらせていた。


 だが、その美しい建築の静謐さを微塵も感じさせないほど、回廊から一歩外へと視線を向けた先の光景は異様だった。耳をつんざくような喧騒が、巨大な物理的圧力となって押し寄せてくる。広場から建造物の入り口に至るまで、見渡す限りの視界が、白や生成りのトガを纏った無数の人々で埋め尽くされていたのだ。

 彼らは皆、国家の頂点に君臨する終身独裁官、ガイウス・ユリウス・カエサルに直接陳情を行い、あわよくばその強大な恩恵に与ろうと待ち構えている一般市民や商人、退役軍人、あるいは野心に満ちた没落貴族たちである。最高権力者が通りかかるであろうその一瞬の機会に、自らの人生のすべてを懸けて群がってきた有象無象の波。

 怒号のように響き渡る重々しいラテン語の話し声が、高い天井と石壁に何度も反響し合い、空間全体が巨大な獣のように低く唸っているかのような錯覚を覚える。陽射しに熱せられた巨大な石造りの建築物の中で、何千という人間の体温と剥き出しの欲望がドロドロに混ざり合い、現場はめまいを覚えるほどの異様な熱気に包まれていた。ただその暗がりに立っているだけで、群衆の放つ巨大なエネルギーに精神ごと押し潰されそうになる。


 凄まじいプレッシャーに胃の腑が締め付けられそうになる中、昌幸は意図的に深く息を吸い込み、視界の焦点を切り替えた。ただ眼前の圧倒的な光景に呑まれ、恐怖に身をすくませている場合ではない。彼は持ち前の建築史の知識を頼りに、頭の中でこの劇場の見取り図を組み立て、人々の流れを論理的に予測しようと試みた。

 天を突く大理石の列柱の配列、光の差し込む角度、広場から元老院の臨時議場であるクリア・ポンペイアへと至る回廊の形状。建造物の骨格を幾何学的に正確に理解すれば、水が低きに流れるように、そこにひしめく群衆の複雑な動線も自然と浮かび上がってくる。


「カエサルが来るなら、あの大通りから列柱廊を抜けて、議場の正面入り口へと向かうはずだ……」


 昌幸は脳内の地図と目の前の現実を重ね合わせながら、人々の密度が不自然に偏っている箇所を視線でなぞった。待ち構える陳情者たちは、ただ無秩序に散らばっているわけではない。最高権力者が通るであろう最短ルートの両脇に沿って、少しでも目立とうと押し合いへし合いしながら、最も分厚く強固な人壁を形成しているのだ。一見すると混沌の極みのような狂乱の空間が、昌幸の目には明確な法則とベクトルを持った、巨大なシステムとして見え始めていた。


 一方の青は、群衆の波を冷静に見渡していた。彼女の武器は、膨大な歴史知識に裏打ちされた鋭い観察眼だ。周囲の圧倒的な熱気と喧騒に呑まれることなく、カエサルへ陳情しようとする商人や野心家たちの動きを一つ一つ目で追い、その不自然な偏りを探っていく。この時代の人々が権力者に対してどう振る舞うかを知り尽くしているからこそ、彼女はそのうねりの中から、明らかに周囲の熱狂とは異なる切迫感を放つ、不審な人物を的確に絞り込んでいった。


 やがて、人波を舐めるように動いていた彼女の視線が、うねる群衆の中のただ一点でピタリと縫い止められた。


「……見つけたわ」


 喧騒に掻き消されそうなほど静かで微かな呟きだったが、その声には一切の迷いがない、完全なる確信が込められていた。

 青の視線の先、カエサルが通るであろうルートのすぐ脇、群衆の最前列付近でもみくちゃにされている一人の男がいた。周囲のローマ市民たちが着ている分厚いトガとは異なり、彼はギリシア人特有の四角い外套であるヒマティオンを身に纏っている。だが、青が注目したのは衣服の違いだけではない。彼の顔には、周囲の欲望にまみれた陳情者たちとは全く異質な、切迫した焦燥感と、悲壮なまでの強い緊張が張り付いているのだ。そして彼の右手には、文字が記された小さなパピルスの巻物が、まるで自らの命綱であるかのように大切に、しかし震えるほどの力で固く握りしめられていた。

 巨大な人波の中で、誰の目にも留まらぬよう息を潜めながらも、誰よりも前へ出ようと必死にもがくその男。彼こそが、歴史の特異点となる暗殺の告発状を持ったターゲット、クニドスのアルテミドルスに他ならなかった。


 耳をつんざくような喧騒と、息を呑むような生々しい熱気が渦巻くポンペイウス劇場の回廊。失敗すれば自分たちの命はおろか、人類が築き上げてきた文化の多様性そのものが永遠にラテン語の支配下に塗り潰されてしまうという、極限の緊迫感が漂う空間である。それでも、昌幸と青の間に流れる空気は、いつものようにどこか冷めていて、そして確かな信頼に裏打ちされたものだった。


「……はぐれないように気をつけろよ。ここで変に目立って捕まっても、助け出す余裕なんてないからな」

「あなたこそ。その貧弱な体で、ローマ市民の波に押し潰されて歴史の塵になりたくなければ、大人しくしていることね」


 刺々しい言葉をぶつけ合いながらも、二人の視線はすでにそれぞれの標的と退路をシビアに計算し始めている。口先では互いを見捨てると言い放ちつつ、その実、相手が絶対に致命的なミスを犯さないという前提に立ち、各自の役割に意識を集中させていた。


 短い言葉を交わした後、二人は阿吽の呼吸で自らの役割に応じた配置へとついた。ここからは、実行役である昌幸の孤独な戦いだ。

 昌幸は深く息を吸い込み、ゆったりとしたトゥニカの裾を僅かに引き上げると、押し合いへし合いする群衆の波へと慎重に身を投じた。一歩踏み入れた途端、四方八方から見知らぬ男たちの硬い肩や肘が容赦なくぶつかってくる。むせ返るような体臭と、踏み荒らされた土埃が喉を焼き、呼吸をするのすら苦しい。

 怒号が鼓膜を打つ中、昌幸は巧みに人々の隙間を縫うようにして進んだ。野心に満ちた陳情者たちの分厚い人壁に自らを同化させながら立ち位置を調整していく。そして、群衆の圧力を受け流しながら、ついにアルテミドルスの斜め後ろ、彼からの視線が完全に遮られる死角となる絶好の位置へと陣取ることに成功した。

 巨大な大理石の円柱の陰に身を潜めた昌幸は、周囲の凄まじい怒号と熱気に当てられ、こめかみから冷や汗が伝い落ちるのを感じた。心臓が早鐘のように鳴り響き、喉がカラカラに乾いている。昌幸は再び深く息を吸い込み、乱れる呼吸を無理やり整えた。


 懐にそっと手を滑らせると、そこには白い部屋でタンスから調達していた、分厚い麻袋がある。その中には、当時の古代ローマにおける最高額の銀貨であるデナリウスや、さらに高価な金貨であるアウレウスがぎっしりと詰まっていた。昌幸はその袋の口を開け、冷たい金属の感触を帯びた硬貨を鷲掴みにし、掌にしっかりと握りしめる。ずしりとした金銀の重みが、これから自分が起こす歴史への干渉の重さを物理的に伝えてくるようだった。

 準備は完全に整った。あとは、最高権力者カエサルがこの大通りへと姿を現すその時を待つだけだ。昌幸は鋭い視線を回廊の奥へと向け、全身の筋肉をバネのように引き絞りながら、作戦決行の決定的な瞬間を、息を潜めて待ち構えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ