2話
カエサル生存によってローマ帝国が地球全土を統一し、すべての多様な文化や言語が消滅するという、これまでにない規模の絶望的な歴史改変。そのあまりにも巨大な歪みを突きつけられ、無機質な白い部屋の空気は、息苦しいほどの重苦しいプレッシャーで満たされていた。文化や芸術を愛する昌幸にとって、世界中が単一のラテン語と規格化された帝国の色に塗り潰されているという現実は、ただの歴史の変遷ではなく、人類が築き上げてきた美しき多様性に対する完全なる死刑宣告に等しかった。
その根本原因を特定し、本来の正しい世界を取り戻すため、二人はすぐさま行動を開始した。とはいえ、途方もない過去である古代ローマの歴史の特異点を探り当てるには、手掛かりが少なすぎる。
「やれやれ、またあの厄介なタンスの出番か……」
昌幸は特大の溜息を一つ吐き出すと、重い足取りで部屋の隅にぽつんと置かれた古びた木製タンスへと歩み寄った。この一見何の変哲もない家具は、使用者の深層心理にある願望を具現化して吐き出すというとんでもない性質を持っている。下手に雑念や恐怖、あるいは焦りを抱いたまま引き出しを開ければ、その心の隙を突かれて、今の状況とは全く無関係な、あるいは致命的な障害となるような代物を吐き出しかねない。
昌幸は錆びついた取っ手に手を掛ける前に、深く深呼吸をした。目を閉じ、自身の内側に渦巻いている理不尽な状況への不満や、途方もない歴史の改変に対する恐怖を、強固な意志で完全に締め出す。今、頭の中に思い描くべきものはただ一つ。紀元前四十四年三月十五日、ローマにおけるカエサル暗殺の全貌が記された詳細な記録、その一点のみだ。純粋な情報への渇望だけを念じながら、昌幸は慎重に引き出しを手前へと引いた。
ギィィと重苦しい金属の軋む音を立てて引き出しが開くと同時に、無臭だったはずの密室の空気に、古いパピルスや乾いた羊皮紙の独特な匂い、そして微かな埃の匂いがふわりと漂い始めた。昌幸はそこに積み重なっていた大量の巻物や記録書の束を両腕いっぱいに抱え上げると、真っ白な床の上へとドサリと広げた。
「やれやれ、ここからは文字とのにらめっこか。……まあ、世界史の範囲なら俺も多少はマシな働きができるだろ。手分けしてこの狂った歴史の綻びを探すぞ、西園寺」
昌幸の言葉に、青は無言のまま滑らかな所作で床に座り直し、広げられた資料の山へと手を伸ばした。 そこから、永遠にも似た果てのない時間が過ぎていく。時計のない密室では時間の感覚すら曖昧になる中、パリパリと古い紙が擦れる乾いた音と、二人の微かな息遣いだけが部屋の空気を震わせていた。タンスから引き出されたそれらの資料は、あくまでこの「改変された世界線」における出来事を克明に記した記録の束に過ぎない。しかし、青は自身の持つ圧倒的で完璧な本来の歴史知識と、目の前にある改変後の記録とを脳内で精緻に照らし合わせ、精密機械のような恐るべき集中力で活字の海を読み解いていく。
どれほどの沈黙が続いただろうか。一定のリズムで記録をめくっていた青の白魚のような指が、ある古い羊皮紙の上でピタリと止まった。
「……見つけたわ」
青の透き通った、しかし確信に満ちた声が静寂を切り裂いた。彼女は資料から顔を上げ、氷のように理知的な光を宿した切れ長の瞳で昌幸を見据えた。
「歴史改変の特異点は、カエサルに対する暗殺計画が、実行の直前に露見してしまったことにあるわ」
「暗殺がバレた? 誰かが裏切って密告でもしたのか?」
昌幸が手元のパピルスから顔を上げて身を乗り出すと、青はゆっくりと首を横に振った。
「まずは、本来の正しい歴史……史実における前提から説明するわね。史実において、暗殺決行の日である三月十五日、クニドスのアルテミドルスというギリシア人の修辞学者が、カエサルへ暗殺計画の全貌を記した告発状を直接渡していたのよ。彼は暗殺者の一部と親交があったため、陰謀の事実を把握していたの」
「じゃあ、史実でもカエサルは手紙を受け取ってはいたんだな。なんでその時に計画がバレなかったんだ?」
「群衆のノイズに阻まれたからよ。当時のカエサルは最高権力者であり、彼が移動する道中には陳情や嘆願を求める夥しい数の群衆がひしめき合っていたわ。アルテミドルスは確かに手紙を渡したけれど、カエサルは次々と押し寄せる他の陳情書の対応に追われ、その告発状を開いて読む余裕など全くなかった。だからこそ、彼は手紙を握りしめたまま議場へと入り、結果として暗殺は完遂されたのよ」
青の淀みない史実の解説に、昌幸はなるほどと頷いた。巨大な権力者の周囲に発生する物理的な情報過多が、歴史の偶然を生み出したというわけだ。
しかし、青の表情は少しも緩むことなく、手元にある改変された記録書の束へと鋭利な視線を落とした。
「けれど……この改変された狂った世界線では、そのほんの些細なプロセスが決定的に違っていたの。資料の記録によれば、現場の異様な熱気とプレッシャーに耐えきれず極度に焦燥したアルテミドルスが、あろうことか告発状を『全開にした状態』で、カエサルの目の前へ強引に突き出してしまったのよ」
「全開にして突き出した……?」
「ええ。丸められた巻物ではなく、文章が完全に開かれた状態で視界に飛び込んできたため、カエサルは否応なしにその一文を一瞬で目にすることになった。結果として暗殺計画は議場に入る前に事前に露見し、彼は死を回避してしまった。これが、地球全土を単一の帝国で塗り潰すことになった、絶望的な特異点の正体よ」
青の言葉が、重い鉛となって昌幸の胃の腑に落ちていく。
手紙が丸まっていたか、全開にされていたか。たったそれだけの、あまりにもくだらなく些細な物理的状態の違いが、数千年後の現代に至るまでの人類の多様性を根こそぎ奪い去ったというのか。その事実の途方もないスケールに、昌幸は一瞬だけ眩暈を覚えた。
だが、立ち止まっている暇はない。特異点が明確になった以上、やるべきことはただ一つだ。
「つまり俺たちは、過去のローマに跳んで、アルテミドルスが手紙を開いたまま渡すことを妨害すればいいんだな」
昌幸の確認に、青は静かに頷いた。しかし、その方法は決して容易なものではない。昌幸は腕を組み、冷たい床を睨みつけながら思考を巡らせ始めた。
どうやって妨害する?
真っ先に思い浮かんだのは、最も直接的で単純な手段だった。
「なら、群衆の押し合いに便乗してアルテミドルスにぶつかり、手紙を落とさせるっていうのはどうだ? どさくさに紛れて踏み躙って読めなくしてやればいい」
昌幸の提案に対し、青は一切の感情を交えない透き通った声で、無慈悲に一刀両断した。
「却下よ。少しは想像力を働かせなさい。相手は古代ローマの最高権力者を取り巻く、野心と熱気に満ちた何千という群衆よ。そんな密集地帯で、見ず知らずの東洋人が特定の人物にピンポイントで接触を試みるなんて不自然極まりないわ。失敗して周囲の警護や殺気立った野次馬に取り押さえられれば、不審者として処刑されるのがオチよ。直接的な接触はリスクが高すぎる」
その鋭い指摘に、昌幸は思わず口ごもった。確かに、ただの日本の高校生に過ぎない自分たちが、古代ローマの屈強な市民たちを相手に真っ向から立ち回れるわけがない。見つかればその場で終わりだ。
「じゃあ……カエサル自身の足止めをするのはどうだ? 進路上に障害物を置くとかして、アルテミドルスと接触するタイミングそのものをズラすんだ。あるいは、事前にアルテミドルスを探し出して、持っている手紙をこっそり偽物にすり替えておくとか」
「それも非現実的ね。まず、カエサルの進路には常に無数の人間がひしめいているわ。私たちが不自然な工作を行えばすぐに露見する。それに、広大なポンペイウス劇場の周辺に集まった巨大な人混みの中から、事前の準備段階で特定のターゲットであるアルテミドルスをピンポイントで見つけ出し、相手に気づかれずに手紙をすり替えるなんて、手品の領域よ。私たちのタイムマシンには活動限界という厳格な時間制限があるの。失敗してやり直すような時間的猶予はどこにもないわ」
青の徹底したロジックの前に、昌幸の思いつきは次々と粉砕されていく。直接的な接触やすり替えといった細工もリスクが高すぎる。
「くそっ……なら、群衆の端の方で『暗殺者だ!』とか『暴徒がいる!』って叫んで、偽のパニックを起こして注意を逸らす囮作戦はどうだ?」
「私たちの発音のおかしいラテン語で叫んだところで、この何千人もの怒号が渦巻く巨大なノイズに掻き消されるだけよ。それに、運良く騒ぎになったとしても、警護の兵がカエサルの周囲を固めてしまえば、逆に彼が立ち止まって安全な場所で告発状をじっくり読んでしまうリスクが跳ね上がるわ」
昌幸は特大の溜息を吐き出し、乱暴に自身の頭を掻きむしった。
近づいて触れることもできない。小細工も通用しない。ボヤ騒ぎなどの囮作戦も無駄。
完全に手詰まりだ。だが、アルテミドルスが「告発状を全開にして突き出す」というその一瞬のアクションだけは、確実に阻止しなければならない。
相手に直接触れることなく、非暴力的な手段で、彼の手元を狂わせる物理的な状況を作り出す。そんな都合のいい魔法のような方法があるのか?
昌幸は目をつむり、必死に思考の海を潜った。群衆。熱気。カエサルへ群がる人々の野心と欲望。
……欲望。
ふと、昌幸の脳裏にある光景が閃いた。人間の理性など、圧倒的な欲望の前ではいとも簡単に吹き飛ぶ。理路整然と並んでいるように見える人波も、餌一つで無秩序な獣の群れへと変わるのだ。
「……なぁ、西園寺。直接的な武力介入が駄目で、接触もできないなら、周囲の人間を巻き込んで勝手に自滅してもらうしかないんじゃないか?」
昌幸の唐突な言葉に、青は微かに眉根を寄せた。
「どういうこと?」
「周囲の群衆の強欲さを刺激して、突発的なパニック……押し合いへし合いの狂乱状態を人工的に誘発させるんだよ。群衆が足元で暴動みたいな騒ぎを起こせば、その中心にいるアルテミドルスはもみくちゃにされる。他人にぶつかられたり、押し潰されそうになれば、手紙を全開にしたまま優雅に立っていられるわけがない。大事な告発状が破かれたり踏まれたりするのを防ぐために、奴は反射的に手紙を丸めて胸に抱え込まざるを得なくなるはずだ」
昌幸の提示した泥臭くも生々しい人間心理を突いた作戦に、青は驚きにわずかに目を見開いた後、ふっと口角を上げた。
「なるほど。あなたのその斜め上で泥臭い発想、こういう極限状態では本当に頼りになるわね。でも、どうやってその『押し合いへし合いの狂乱』をピンポイントで引き起こすの?」
青の問いかけに、昌幸は不敵な笑みを浮かべた。
「決まってるだろ。アルテミドルスの足元へ向かって、大量の高額コインをばら撒いてやるんだよ。古代ローマの市民だって、目の前に一生遊んで暮らせるような大金が降ってくれば、カエサルへの陳情なんて忘れて我先にと小銭拾いに群がるはずだ」
「……あきれるほど悪趣味で、そして極めて確実な手段ね」
青は昌幸の提案を即座に承認した。方針が定まれば、あとは実行に移すのみだ。
作戦の決行に向け、二人は再び部屋の隅のタンスへと向かった。昌幸は一切の邪念を強固な意志で締め出し、純粋な工作の道具だけを念じながら引き出しを引く。中から現れたのは、当時の古代ローマの一般市民が身に纏うゆったりとしたトゥニカやトガといった現地衣装と、工作に必要な細々とした日用品であった。
そして何より重要な、群衆の目を確実に引きつけ、欲望を極限まで煽るための強烈な餌。昌幸はタンスから、当時の最高額通貨であるデナリウス銀貨やアウレウス金貨がぎっしりと詰まった、ずしりと重い麻袋をいくつも具現化させた。
金属の冷たい重みと、古代の衣服の不慣れな感触を確かめながら、二人は素早く変装を終える。
無機質な白い部屋の中央で静かに再稼働を待つ、レトロなタイムマシン。昌幸は懐に忍ばせた大量の金銀貨の感触を確かめながら、隣に立つ相棒と短く頷き合った。巨大な帝国のうねりを打ち砕き、本来の多様な世界を取り戻すための、過去への跳躍準備は整った。




