1話
鉛のように重い瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのは、上下左右の境界線すら曖昧になる、あの見慣れた果てのない純白の空間だった。
「……またかよ、いい加減にしてくれ……」
無機質な床に寝転がったまま、昌幸は特大の溜息とともに掠れた声を吐き出した。乱暴に自身の短い髪を掻きむしり、容赦なく繰り返される不条理なゲームの強制参加に対する辟易とした態度を全身で表現する。フランス革命という巨大な歴史のうねりを泥臭い手段で修正し、ようやく平和で退屈な日常へと帰還できたと思っていた。しかし、平穏な日々を取り戻し、この不条理なゲームから完全に解放されたという安堵も虚しく、再びこの異常な密室へと引き戻されてしまったのだ。
しかし、不満を口にする昌幸の胸の奥底には、以前のようなただの絶望や恐怖だけではない、別の感情が微かに燻っていた。
自身の知恵と行動で、何万という人間の運命を分ける歴史の分岐点に直接干渉し、本来あるべき正しい世界をこの手で取り戻す。天王山を駆け上がり、五稜郭の炎を防ぎ、フランスの暗闇の街道で狂いかけた歴史の歯車を正しく噛み合わせてきた。これまでの旅の積み重ねの末に得られた、圧倒的なまでの達成感。平和で安全で、どこまでも無味乾燥な現代の学校生活では決して味わうことのできない、強烈な生の充実と高揚感が、心臓の裏側で微かな熱を帯びて拍動している。巨大な歴史の深淵に触れ、そのパズルを解き明かすことへの抗いがたいワクワクとした気分に、自分がほんの少しだけ魅了され始めているという事実を、昌幸は完全には否定しきれなくなっていた。
とはいえ、そんな内心の熱を素直に顔に出すような間抜けな真似はしない。昌幸は気怠げな表情を顔に貼り付けたまま、のろのろと上半身を起こした。
「稗田くん、手順はもうわかっているでしょう」
すぐ隣から、氷のように透き通った、淀みのない声が降ってきた。
見上げると、青がすでに静かに身を起こしているところだった。陶器のように滑らかで白い肌にかかる艶やかな黒髪が、彼女の動きに合わせてさらりと美しく揺れる。彼女の整いすぎた顔立ちに、理不尽な状況へのパニックや焦燥の色は微塵も見当たらない。乱れたプリーツスカートの皺を細い指先で軽く払うと、すっくと立ち上がった。
彼女もまた、前のミッションの終わりに垣間見せたように、歴史の真理を紐解いていくこの状況に対して純粋な探求の喜びを見出しているはずだ。しかし、彼女はその隙のない仮面で感情を完璧に制御し、ただ眼前に立ちはだかる新たな謎をどのように解き明かすかという、理知的な演算の光だけを切れ長の瞳に宿している。
青は足音すら立てずに静かに歩み寄ると、無機質な白い床に無造作に落ちていた一冊の分厚い本を拾い上げた。表紙には『詳説 世界史』と記されている。現状の歴史がどう歪んでいるかを確認し、この理不尽なゲームのスタートラインに立つための、唯一にして絶対のツールである。
「今度はどこの時代の、どんな厄介事が待ってるんだか……」
昌幸は渋々といった体で立ち上がると、パラパラと紙の擦れる乾いた音を響かせながらページを開く青の隣へと並んだ。
二人は、現代の世界情勢が記された最新のページから歴史のズレを確認しようと目を通す。まずは現状の世界地図を把握し、そこから過去へと遡って原因を特定するのが彼らの確立したセオリーだった。
しかし、ページを開いた瞬間、昌幸の目に飛び込んできたのは、見慣れたカラフルな世界地図ではなかった。
「おい、西園寺……これ、どういうことだ。国境線が、どこにもないぞ」
昌幸は思わず驚愕の声を漏らし、教科書を指差した。
本来であれば、様々な色で複雑に塗り分けられ、無数の国々がひしめき合っているはずの現代の地球。だが、そこに描かれていたのは、ユーラシア大陸からアフリカ大陸、さらには海を隔てた新大陸に至るまで、ありとあらゆる陸地が単一の色で塗り潰された、異様で不気味な世界図だった。国家という概念を区切る境界線が、地球上から完全に消滅しているのだ。
「……ええ。どうやら今回は、これまでの比ではない規模の歴史改変が起きているようね」
青の紡ぐ声は静かだったが、その響きには明らかな戦慄が混じっていた。彼女は白魚のような指先を滑らせ、その異様な地図の横に記された現代の国際情勢の解説文を読み解いていく。
「国家の枠組みが消滅し、地球全土が一つの巨大な帝国によって完全に統一されているわ。それも、古代から現代に至るまで、たった一つの帝国が途切れることなく支配を続けている」
「地球全土が統一されてる? そんな馬鹿な。世界規模の大戦争でも起きて、どこかの国が全部武力で制圧したって言うのか?」
「いいえ、近代の出来事ではないわ。この圧倒的な支配体制の起点は、遥か古代にまで遡る」
青はそこから一気にページを過去へとめくっていく。中世、古代と活字の海を泳ぎ、膨大な情報の中から歴史の綻びを洗い出すその驚異的な集中力は、まさに精密機械のようだった。
やがて、彼女の指先が紀元前のローマ史のページでピタリと止まった。
「……特異点が見えたわ。紀元前四十四年、共和政ローマの終身独裁官、ガイウス・ユリウス・カエサルよ」
「カエサルって、あの『ブルータスお前もか』で暗殺された有名な英雄だろ? そいつがどうかしたのか」
「この改変された世界線では、その暗殺が起きていないのよ。三月十五日に起きるはずだったカエサルの暗殺計画が事前に露見し、彼は死を回避している。そして、史実では幻に終わったはずのパルティアへの大規模な軍事遠征を予定通りに実行し、見事に成功させているの」
青が指し示す記述を昌幸も覗き込む。そこには、暗殺という致命的な危機を乗り越えたカエサルが、東方の強国パルティアを打ち破り、さらにはゲルマニアなど周辺諸国を次々と平定していく壮大な征服行が記されていた。
「カエサルが生き延びて遠征に勝った……。それだけで、あの国境線のない世界地図に繋がるのか?」
「ええ。彼の生存と征服事業により、共和政から帝政への移行期に起きた凄惨な内戦は回避され、ローマ帝国は崩壊の危機を免れたわ。強大な軍事力と完璧な統治システムを維持したまま帝国は拡張を続け……その結果、数千年の時をかけて最終的に地球全土の統一に至っているのよ」
青の言葉が、重い鉛のように昌幸の胃の腑に落ちていく。
一人の天才的な英雄の生存が、バタフライエフェクトのように歴史のうねりを増幅させ、ついには地球上のすべての陸地を飲み込む単一の超大国を生み出してしまった。
さらにページをめくり、この改変された世界線が現代の文化や社会に及ぼしている影響の全貌が浮かび上がってくると、昌幸の背筋に冷たいものが走った。
「信じられない……。国境がないだけじゃない。この世界では、現代に至るまで全人類の公用語が『ラテン語』に統一されていると発覚したわ」
「全人類がラテン語を話してるって? じゃあ、英語やフランス語、それに俺たちの日本語はどうなったんだよ」
「絶滅寸前よ。ローマという単一の絶対的な権力による支配が二千年以上も強制された結果、効率的な統治のために言語や文化の規格化が進められた。日本語を含む世界中の多様な固有文化や言語は徹底的に弾圧され、辺境の少数民族が隠れて使う程度の、絶滅寸前の状態に追いやられているの」
その事実を知った瞬間、昌幸の心に激しい怒りと喪失感が渦巻いた。
日本史よりも世界史を得意とし、特に各国の芸術史や文化史に深い造詣を持つ昌幸にとって、それは単なる政治体制の変更などという生易しいものではない。それぞれの土地の気候や風土、そこに生きる人々の喜びや悲しみから生まれ、長い時間をかけて育まれてきた多様な建築様式、美術品、そして言葉の数々。それらすべてが「ローマ風」という単一の規格によって塗り潰され、歴史から跡形もなく抹消されているのだ。
多様性を失い、ただ一つの帝国の色に染まり切った均質で退屈な世界。それは文化を愛する昌幸にとって、どんな独裁者の圧政よりも恐ろしい、耐え難いディストピアであった。
無機質な密室の中で、二人はこれまでにない規模の絶望的な歴史改変の全貌を前に押し黙った。カエサルの暗殺回避というたった一つの特異点がもたらした、地球全土の統一と文化の画一化。この巨大すぎる歴史の歪みを正すためには、遥か二千年以上前の古代ローマへと跳躍し、あの強大なカリスマを持つ独裁者の運命に直接干渉しなければならない。
昌幸は震えそうになる拳を固く握りしめ、部屋の中央で静かに次の起動を待つレトロなタイムマシンを、鋭い眼差しで睨みつけた。




