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歴史を修正しないと出られない部屋  作者: 久能のの
ヴァレンヌに散る白百合の夢

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幕間3.2

 展示品の放つ重厚な歴史の気配と、それに向き合う少年の張り詰めたような真剣な眼差し。その二つが織りなす特異な引力に当てられ、青の足は自然とその場に縫い止められていた。しばらくの間、彼の邪魔をしてはいけないという感情と、抑えきれない好奇心がせめぎ合っていたが、やがて彼女の口から無意識のうちに言葉がこぼれ落ちていた。


「あちらの展示室には国宝や有名な重要文化財もあるのに、どうしてその作品にそこまで惹かれているの?」


 静寂を破るようにかけられた唐突な声に、男子生徒はビクッと肩を揺らし、ゆっくりとこちらへ振り返った。

 その瞬間、青はほんのわずかに身構えていた。誰もが振り返る「氷の美少女」としての自身の容姿。突然声をかけられた同級生の男子が、驚愕に目を見開き、頬を赤らめ、あるいは下心から愛想笑いを浮かべてすり寄ってくる。そんな、これまで嫌というほど見飽きてきた凡庸な反応が返ってくることを、半ば諦めとともに予想していたからだ。


 しかし、彼の反応は青の予想を根本から裏切るものだった。

 彼は青の顔を一瞥すると、その圧倒的な美貌に目を奪われることも、挙動不審に陥ることもなかった。ただ青の着ている制服を視界に収め、同じ高校の生徒が偶然話しかけてきたのだと事務的に認識しただけの、ひどく平坦で凪いだ眼差し。それどころか、すぐに青への興味を失ったように視線を外し、再びガラスケースの向こうの骨董品へと向き直ってしまったのである。


「国宝とか、そういうのは関係ないんだ」


 ガラス越しに展示品を見つめたまま、彼はぽつりと呟くように語り始めた。その声には、初対面の女子生徒に対する緊張など微塵もなく、ただ目の前にある歴史の遺物への情熱だけが純度高く込められていた。


「ほら、ここの模様のわずかな膨らみを見ろよ。この滑らかな曲線を出すために、どれだけ緻密な筆の運びがされているか。一見すると無骨で地味に見えるかもしれないけど、この時代の限られた顔料と技術でこれを作り上げるためには、想像を絶するほどの時間と試行錯誤が必要だったはずだ」


 彼の言葉には、知識をひけらかすような傲慢さはなく、ただ圧倒的な熱だけが宿っていた。深い歴史や美術の造詣に裏打ちされた確かな観察眼と、無名の作者が作品に込めたであろう執念に対する、純粋な敬意。遠い過去に生きた名もなき職人の息遣いを、彼だけが正確に読み取り、まるでその場に立ち会っていたかのように熱っぽく代弁していく。


「誰が作ったかも分からないし、国宝みたいに誰もが知るような華やかな歴史があるわけでもない。でも、ここには作った人間の執念みたいなものが、確かに焼き付いている。それが、たまらなく面白いんだ」


 その静かで熱のこもった言葉を聞いた瞬間、青は脳天を雷で打たれたような衝撃を受け、ハッと言葉を失った。

 自分はどうだっただろうか。

 歴史を愛していると自負しながらも、無意識のうちに「国宝」や「重要文化財」といった、後世の人間が勝手に貼り付けた表面的な「ラベル」ばかりを追いかけていたのではないか。権威ある肩書きが与えられたものこそが価値があると思い込み、目の前にある作品そのものの真価を、自分自身の目で測ることを怠っていた。


 それは、青という人間の本質や内面を見ようとせず、「誰もが振り返る美貌」や「トップクラスの成績」という目に見えるスペックだけで判断し、勝手な理想や期待を押し付けてくる周囲の有象無象たちと、何ら変わらない傲慢な振る舞いではないか。

 誰よりもラベルで判断されることを嫌悪し、見えない壁を作って他者を拒絶していた自分が、歴史的な肩書きというラベルに最も深く囚われていた。その痛烈な事実に、青は自身の底知れぬ愚かさを自覚し、胸の奥が氷水を浴びたように冷たくなるのを感じた。


 同時に、隣で静かに展示品を見つめ続ける少年の横顔から、どうしても目を離すことができなくなっていた。

 他人の評価や世間的な権威といった色眼鏡を一切外し、自らの知識と純粋な敬意だけを頼りに、対象の「本質」を真っ直ぐに見つめることができる人間。自身の持つ強力なラベルすらも、彼にとっては道端の石ころと同程度に、全く意味を持たないのだ。

 その誠実で極めてフラットな視座を持つ少年の存在に、青の心の中でこれまでに感じたことのないほど強い興味と好奇心が、静かな波紋のように広がり始めていた。


 それから数日後。春の陽気に包まれた校内は、放課後の部活動説明会と新入生勧誘の熱気に溢れかえっていた。

 渡り廊下を歩く青の周囲には、様々な部活の先輩や同級生が群がり、絶え間ない勧誘の声を浴びせていた。彼女の目を引く容姿とトップクラスの成績は、どの部活にとっても喉から手が出るほど欲しい「実績」の種であり、格好の広告塔だったからだ。


「西園寺さん、ぜひうちの部へ来てよ!」

「初心者でも大歓迎だから、見学だけでも!」


 熱のこもった視線と、明確な下心が見え隠れする言葉の雨。自身の外見というラベルに群がる彼らの浅薄さに内心で深く辟易しながらも、青は決してそれを顔に出すことはなかった。


「お誘いありがとうございます。でも、まだ迷っていて……申し訳ありません」


 誰をも不快にさせず、非の打ち所のない「完璧な優等生」の微笑みを浮かべ、穏やかな口調で一つ一つ丁寧に、しかし確実な拒絶をもってすべてを断り続けていく。心を殺し、感情を切り離してただの精巧な人形を演じ続けるこの作業は、青の精神を泥のように重く疲弊させていった。


 そんな息苦しいやり取りを何度も繰り返し、喧騒から少し離れた特別教室の並ぶ静かな廊下へと逃れ、ようやく深いため息をついたときだった。

 ふと、青の視界の端を通り過ぎ、古びたドアの向こうへと消えていく一つの見覚えのある背中があった。ドアの上に掲げられた色褪せたプレートには、「歴史研究部」という文字が刻まれている。


 あの遠足の日、博物館の薄暗い展示室でガラスケースの向こうの骨董品と真摯に向き合っていた、あの男子生徒だ。

 青の胸の奥で、微かな高揚感が静かに跳ねた。彼女は目に見えない糸に吸い寄せられるように、その部室の前へと歩み寄った。少しだけ開いたドアの隙間から中を覗き込むと、古本の埃っぽい匂いが漂う室内で、彼はパイプ椅子に座り、机の上に広げたプリントになにやらペンで書き込んでいるところだった。


 青は意を決して、部室へと足を踏み入れた。


「先日はどうも」


 青が彼の背中に向かって声を掛ける。その声に驚いたのか、彼は書き込んでいたペンを止め、椅子を軋ませて振り返った。

 しかし、青の姿を認めた彼の顔に浮かんだのは、再会を喜ぶ色でもなければ、美しい少女の予期せぬ訪問に慌てふためく様子でもなかった。

 彼はただ、きょとんとした顔で青の顔をまじまじと見つめ、見知らぬ同級生に対するごく自然な、少し遠慮がちな敬語でこう返してきたのだ。


「あの……失礼ですが、どちら様でしょうか。お会いするのは初めて、ですよね?」


 その瞬間、青の頭の中で何かが小気味よく弾ける音がした。

 一度でも自分を見た人間が、この容姿を忘れることなどこれまでの人生においてあり得なかった。誰もがすれ違いざまに振り返り、名前を知りたがり、勝手な理想を押し付けてくる。それが彼女の生きてきた世界の常識だった。それなのに、目の前のこの少年は、あろうことか青の顔を完全に忘却しているというのだ。自らの圧倒的なスペックが全く通用しなかったという事実に、青は思わずカチンと理不尽な怒りを覚えた。


 しかし、彼の一切の虚飾もない戸惑いの表情を見つめているうちに、青の内にすとんと落ちるものがあった。

 彼はわざと忘れたふりをして気を惹こうとしているわけでも、鈍感さをアピールしているわけでもない。本当に、人間の外見という「ラベル」に微塵も興味がないのだ。あの日、彼が魅入られていたのは歴史の遺物が語りかけてくる真理そのものであり、たまたま隣に立って話しかけてきた同級生の容姿など、彼の脳内に記憶として留める価値すらない、極めて些末な情報に過ぎなかったのである。


 周囲の人間は皆、青に対して勝手な期待や色眼鏡を押し付け、彼女の精神をひたすら消耗させるだけのマイナスな存在だった。本心を隠し、完璧な仮面を被り続けなければならない日常は、常に息が詰まるほど窮屈で孤独だった。

 だが、彼だけは違う。青を特別な目で一切見ず、何の評価も、勝手な理想像も押し付けてこない。

 その完全にフラットで、ある意味で無関心とも言える態度に触れた途端、青の強張っていた肩からふっと余計な力が抜け、これまでにないほどの気安さと、深い安堵感が胸の中にじわじわと広がるのを感じた。彼を前にすると、自分を取り繕って「完璧な優等生」を演じようという警戒心すら、まったく湧いてこないのだ。


「……信じられないわね。人の顔を三歩で忘れる鳥頭なの? あの日、博物館の展示室で声を掛けたのは私よ」


 ごく自然に、青の口から本来の「理屈っぽく容赦のない」素の口調がこぼれ落ちていた。愛想笑いも、壁を作るための丁寧な言葉遣いもそこにはない。


「えっ? あ、ああ……! あの時の。いや、ごめん、展示に集中してて顔までちゃんと覚えてなくて」


 ばつが悪そうに頭を掻き、慌てて弁解する彼の手元へ、青は静かに視線を落とす。机の上に置かれていたのは、入部届の用紙だった。そこには、特筆すべき特徴のない整った文字で「稗田昌幸」という名前が記されている。


 稗田昌幸。

 絶えず他人の勝手な評価に晒され、気を張って生きるしかない息苦しい日常の中で、何も押し付けてこない彼となら、飾らない素の自分で、心地よく過ごせるかもしれない。

 そして何より、あの日の出来事が青の心を未だに強く揺さぶり続けていた。自身が「国宝」という歴史的肩書きのラベルに囚われ、物事の本質を見失っていたことへの痛烈な自戒。それとは対照的に、偏見のない澄んだ眼差しで対象の本質を見つめ、隠された真理を読み解こうとする彼の確かな視座。そこから多くを学びたいという純粋な向上心が、青の内で静かに、しかし熱く燃え上がっていた。


「入部届、まだ出していないのなら、もう一枚もらってきてくれないかしら」

「え? いや、もらうのはいいけど……なんで?」


 突然の要求に目を丸くし、不思議そうに見上げる昌幸。その間の抜けた顔を見下ろしながら、青はかつて誰にも見せたことのないような、挑発的で生き生きとした笑みを浮かべた。


「決まっているでしょう。私もこの歴史研究部に入部するのよ」

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