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歴史を修正しないと出られない部屋  作者: 久能のの
ヴァレンヌに散る白百合の夢

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幕間3.1

 高校に入学して間もない春の教室は、まだどこか浮き足立ったような、落ち着きのない喧騒に包まれていた。

 窓の外からは穏やかな陽光が差し込み、真新しい指定の制服に身を包んだ生徒たちが、新しい人間関係を築こうと互いに探り合い、無邪気な笑い声を響かせている。誰と誰が同じ中学校の出身だとか、どの部活動に入るつもりだとか、他愛のない話題が羽虫のように教室中を飛び交っていた。


 しかし、窓際の自席に座る西園寺青は、そんな春特有の朗らかな空気から完全に切り離されたかのように、ただ静かに一冊の文庫本に視線を落としていた。いや、正確には活字を追うふりをしながら、心の中でひどく冷やかな溜息を吐き出していたのだ。

 青の周囲には、直接話しかけてこないまでも、常に熱を帯びた無数の視線がまとわりついている。視線の端々から聞こえてくるのは、いつだって同じような感嘆と称賛の言葉ばかりだった。


「西園寺さんって、本当に綺麗だよね。まるでモデルみたい」

「入学早々の実力テストでも学年トップだったらしいよ。何でもできてすごいな」


 遠巻きに向けられるヒソヒソとした囁き声は、好意と憧憬に満ちているように聞こえるかもしれない。しかし、青にとってそれらの言葉は、ただただ息苦しさを増長させるだけの呪いのようなものだった。


 彼らが称賛しているのは、誰もが振り返るような圧倒的な美貌や、数字として可視化されたトップクラスの成績といった、表層的な「目に見えるスペック」に過ぎない。「完璧な美少女」というラベルの貼られた、手の届かない偶像。それが彼らの中での西園寺青の形であり、そこに彼女自身の人格や、内面の本質を見ようとする者は一人としていなかった。

 彼らは、自分たちに都合の良い理想像を勝手に作り上げ、それを無遠慮に押し付けてくる。少しでもその理想から外れた振る舞いをすれば、勝手に幻滅し、裏切られたと騒ぎ立てるのだ。そうした身勝手な期待や評価を押し付けてくる周囲の有象無象は、青の精神をひたすら摩耗させるだけの、完全なマイナスの存在でしかなかった。


 だからこそ、青は自らを守るための強固な防衛術を身につけていた。


「西園寺さん、次の移動教室、一緒に行かない?」


 そうクラスメイトの女子から声をかけられれば、青は読んでいた文庫本を優雅な所作で閉じ、誰もが好感を抱くような、完璧に計算された柔らかな微笑みを浮かべる。


「ええ、喜んで。声をかけてくれてありがとう」


 淀みなく紡がれる美しい声色。誰に対しても愛想良く振る舞い、決して相手を不快にさせない。しかし、その笑顔の奥にある真意を決して悟らせることはなく、相手を絶対に自分自身の内面へと踏み込ませない。「完璧な優等生」という見事な仮面を被ることで、青は周囲との間に透明で決して壊れることのない壁を築き上げているのだ。

 今日もまた、青は偽りの微笑みを絶やすことなく、息苦しく憂鬱な時間をただ静かにやり過ごしていた。


 そんな息の詰まるような日常の中で訪れた、高校に入学して初めての春の遠足。その行き先が、隣町の外れにある「市立博物館」といういささか退屈な場所に設定されていたことは、青にとって数少ない救いだった。

 観光地や遊園地であれば、クラスメイトたちと集団で行動し、常に愛想笑いを浮かべながら場の空気に合わせるという苦行を強いられたはずだ。しかし、地方都市の文化施設が抱える特有の静けさと、華やかさに欠ける地味な展示品の数々は、遊び盛りの高校生たちの関心を惹きつけるにはあまりにも不十分だった。

 大型バスから降り立ち、博物館のエントランスをくぐった途端、生徒たちの多くはあからさまに退屈そうな表情を浮かべていた。引率の教員が「静かに見学するように」と注意を促すものの、彼らの興味はすでに、見学後の自由時間や昼食のグループ決めに移っている。


「なんか、地味な壺とか石ばっかりでつまんないね」

「早く一回りして、外のベンチでお弁当食べようよ」


 展示室を足早に通り過ぎていく同級生たちの軽薄な喧騒を背中で聞きながら、青はひっそりと、しかし深く安堵の息を吐き出した。

 彼女にとって、この静寂に包まれた薄暗い空間は、誰の身勝手な期待も背負わずに済む、またとない至福の場所であった。分厚い石造りの壁に守られた館内には、古い紙の匂いと、微かな埃の匂いが入り混じったような、博物館特有の匂いが漂っている。空調によって一定に保たれた冷たい空気が、火照った肌を心地よく冷ましていく。

 同級生たちの足音が遠ざかり、人の気配がまばらになった順路を、青は一人でゆっくりと巡回していく。歩くたびに、指定の革靴がリノリウムの床を打つ微かな音が静寂に吸い込まれていった。


 ガラスケースの向こう側に整然と並べられているのは、数百年、あるいは数千年という途方もない時を、ただ沈黙したまま耐え抜いてきた歴史の証人たちだ。青は、その一つ一つの前に立ち止まり、添えられた小さな解説文のプレートを読み込みながら、その遺物が辿ってきた長大な時間に思いを馳せる。

 遠い昔に生きた人々の息遣いが残る土器。戦火をくぐり抜けてきた刀剣。変色した和紙に記された、誰かの切実な書簡。それらと無言の対話をしている間だけは、周囲の視線を常に気にし、「完璧な優等生」の仮面を被り続けるという息苦しさから完全に解放される。他者の評価という濁った不純物が一切存在しない、どこまでもクリアで純粋な精神状態。青は、自身の中に本来の素の呼吸が戻ってくるのを確かに感じていた。


 どれほどの時間を、そうして歴史との対話に費やしただろうか。

 青は順路の案内に従い、館内の最も奥に位置する、一際薄暗い展示室へと足を踏み入れた。そこは、地元で発掘された出土品や、地域の旧家から寄贈された古い骨董品が展示されているエリアだった。

 先ほどのメイン展示室に比べてもさらに地味で、華やかな国宝や誰もが知るような有名な美術品があるわけでもない。当然のごとく、ここには退屈を持て余した同級生たちの姿は一つもなく、完全な静寂が支配している。


 そう思っていた青の視界の端に、ふと、一つの人影が映り込んだ。

 展示室の中央付近。ほの暗い照明の下、ぽつんと置かれた一つの独立したガラスケースの前に、誰かが立っている。

 青は微かに眉根を寄せ、その人物へと視線を向けた。その後ろ姿は、見慣れた黒いブレザー。紛れもなく、自分と同じ高校の指定制服を着た男子生徒だった。

 青が記憶している限り、クラスの男子たちは皆、引率の教員の目を盗んでは早々に外の広場へと抜け出していたはずだ。こんな薄暗く、華もない展示室の奥深くに、まだ同級生が残っていたこと自体が意外だった。


 しかし、青の注意を引いたのは、単に彼がそこにいたからという理由だけではない。

 彼がぴたりと足を止めて見つめているのは、ガラスケースの中に鎮座する、県指定重要文化財のプレートが添えられた古い骨董品だった。それは、一見するとただの赤茶けた無骨な器に過ぎない。美術的な装飾が際立っているわけでもなく、歴史の教科書に大きく写真が載るような代物でもない。ほとんどの生徒が、文字通り一瞥しただけで欠伸を噛み殺し、素通りしていったような展示物だ。


 それにもかかわらず、その男子生徒は、まるでそこに世界の秘密のすべてが隠されているかのように、食い入るような視線でその器を見つめ続けている。

 ガラスケースに額が触れそうなほど顔を近づけ、微動だにしないその背中からは、周囲の空間すらも忘れ去ったかのような、凄まじい集中力が立ち上っていた。彼の横顔に、同級生たちが見せていた冷やかしや、暇つぶしといった軽薄な態度は微塵も存在しない。

 少し猫背気味の姿勢。ガラスケースに反射する照明の光が、彼の真剣な瞳の奥に宿る静かな熱量を照らし出している。その視線は、ただ表面の形をなぞっているのではない。器の表面に残るかすかな凹凸、釉薬の僅かな垂れ具合、そして、それを作り上げた無名の職人の息遣いや、数百年という途方もない時間の蓄積。そうした、目には見えない歴史の断層を、隅々まで読み解こうとする純粋な探求心そのものだった。


 誰も見向きもしない地味な骨董品が放つ、目に見えない歴史の重み。そして、それに正面から向き合い、本質を見極めようとする少年の、張り詰めたような真剣な眼差し。

 その二つが静かに交錯し、織りなす特異な空間の空気に当てられ、青はふと息をするのすら忘れていた。

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