7話
遠ざかる蹄の音が完全に夕闇の奥へと溶けて消えるまで、二人は無言でその場に立ち尽くしていた。
彼がこのまま抜け道を通ってヴァレンヌの町へと先回りし、橋をバリケードで封鎖すれば、護衛を失って鈍重にしか進めない本物のベルリン馬車は完全に袋の鼠となる。
張り詰めていた裏路地の空気が、ふっと緩むのを感じた。狂いかけていた巨大な歴史のうねりが、今この瞬間、本来あるべき正しい軌道へと力強く引き戻されたのだと、昌幸の直感が告げていた。
泥臭く、しかし致命的な二つの介入。第一の跳躍で馬車のサスペンションに切り込みを入れて物理的な遅延を発生させ、護衛部隊を撤収させる。そして一度自発的に帰還するというリスクを冒した上で、第二の跳躍でサント=ムヌーへと赴き、自らが王族の身代わりとなって追跡者を生み出す。未曾有の「二回跳躍プラン」という薄氷を踏むような賭けは、見事に歴史の特異点を打ち砕いたのである。
確かな手応えに昌幸が深く息を吐き出したその時、唐突に、脳内に直接ピピッ、ピピッと無機質な電子音が鳴り響いた。
それは、離れた場所にあるタイムマシンから直接意識へと語りかけてくるような、活動限界を告げる非情なアラートだった。
「……時間切れみたいだな」
「ええ。私たちの役割は、ここまでよ」
隣に立つ青が顔を隠していた豪奢な扇をゆっくりと下ろし、感情の波を見せない透き通った声で応じた。マリー・アントワネットの豪奢なドレスを纏い、鉛白の白粉と赤いルージュを施した彼女の横顔には、極度の緊張から解放された安堵の色が微かに滲んでいる。
直後、夕暮れの闇に包まれていたサント=ムヌーの景色が、暴力的なまでの純白の光に一瞬にして飲み込まれていった。
馬のいななきも、人々の喧騒も、むせ返るような土と獣の匂いも、すべてが圧倒的な光の渦の中に溶け落ちていく。視界だけでなく、聴覚も嗅覚もすべてが強制的に遮断され、自身の細胞の一つ一つが素粒子レベルにまで分解され、また強引に再構築されるような抗いがたい感覚が全身を駆け巡った。内臓がひっくり返るような特有の浮遊感と不快感に、昌幸はただ歯を食いしばって耐えるしかなかった。
やがて、網膜を灼くような光がゆっくりと引いていく。
次に昌幸が鉛のように重い瞼を開けたとき、目に飛び込んできたのは、見慣れた無機質な光景だった。土埃の匂いは完全に消え失せ、湿度すら一切感じさせない人工的で冷たい空気が肺を満たす。上下左右の境界線すら曖昧になるような、果てのない空間。
二人は再び、元の出口のない「白い部屋」へと帰還を果たしていた。
極度の緊張と、重厚な王族の衣装を身に纏い続けた物理的な疲労が一気に押し寄せ、昌幸は足の裏に硬い床の感触を確かめた途端、張り詰めていた糸が切れたようにその場へへたり込んだ。
「……はぁっ……、戻って、きたか」
乾ききった喉から、ひどく掠れた声が漏れる。歴史の歪みを正すためとはいえ、一回のミッションで二度も過去へ跳躍するという未曾有の賭けは、彼の精神と体力を限界まで削り取っていた。汗を吸った上質なベルベットのコートは信じられないほど重く、きつく締められたクラヴァットが首元を容赦なく圧迫している。
乱暴に自身の頭を掻きむしりながら上半身を起こすと、すぐ隣では、マリー・アントワネットの豪奢なドレス姿の青が、すでに静かに身を起こしていた。幾重にも布が重なったドレスと、胸部を締め付ける硬いコルセットのせいで、彼女の呼吸も普段よりわずかに浅い。陶器のように白い肌には明らかな疲労の色が滲んでいたが、その切れ長の瞳は決して揺らぐことなく、氷のような理知的な光を放ったままだった。
「休んでいる暇はないわ、稗田くん。結果を見届けるまでが私たちのミッションよ」
青は乱れたドレスの裾を滑らかな所作で払うと、立ち上がり、部屋の中央へと迷いなく歩み寄った。彼女の視線の先には、無地の床の上にポツンと置かれた一冊の『詳説 世界史』の教科書がある。現状の歴史がどうなっているかを確認するための、唯一にして絶対のツールだ。
青は足音を立てずに教科書を拾い上げると、微かな衣擦れの音を響かせながらページをめくっていく。果てのない静寂の中、パラパラと紙が擦れる乾いた音だけが無機質な空間に落ちた。
「……どうだ? ちゃんと元に戻ってるか?」
昌幸が乾いた唇を舐めながら問いかけると、活字の海を鋭利な視線で追っていた青の白魚のような指が、ピタリと止まった。
「ええ。私たちの泥臭い工作は、見事に歴史の歯車を正しい位置へと噛み合わせたようね」
青は分厚い教科書から顔を上げ、一切の感情を交えない透き通った声で告げた。
「あの絶望的な『フランス革命が武力で鎮圧され、絶対王政が存続している』という歪んだ記述は、完全に消え去っているわ」
昌幸は大きく安堵の息を吐き出し、重い腰を上げて青の隣へと向かった。彼女の手元を覗き込むと、そこには現代に至るまでの巨大な歴史のうねりが、自分たちがよく知る見慣れた形へと書き換えられていた。
「サント=ムヌーで正体を見破られた国王一家は、先回りしたドルーエの手によってヴァレンヌで逮捕される。パリへ連れ戻された彼らは国民の信頼を完全に失い、王室の権威は地に堕ちた……」
青が淡々と、新たに刻まれた歴史を読み上げていく。
「その後、一七九二年の王政廃止を経て、ルイ十六世とマリー・アントワネットは処刑へと至る」
それは、かつての自分たちが学校の授業で学んだ通りの、凄惨で血塗られた「正しい史実」だった。
逃亡の成功という歴史の特異点を潰したことで、外国勢力の介入と絶対王政の存続という嘘の歴史は消え去った。自由と平等を求めた市民たちの激動の時代が、確かな事実として教科書の上に復活していたのである。
自分が身に纏っているこのルイ十六世の豪奢な衣装の持ち主を、最終的に断頭台へと送る歴史を取り戻したのだという事実に、昌幸の胸の奥で奇妙な罪悪感と達成感が複雑に混ざり合う。しかし、これこそが本来の歴史の形なのだ。何万、何百万という人々の未来と権利を代償にしてまで守るべき個人の命など、歴史という巨大な天秤の上には存在しない。
「……これで、終わったんだな」
昌幸の呟きに応えるように、青が静かに分厚い表紙を閉じる。
ふと顔を上げると、これまで出口など一切存在しなかった完璧な無機質の密室の壁の一部が、すでにぽっかりと切り取られていた。過去で歴史が本来の軌道に修正された時点で、この理不尽な部屋から元の世界へと生還するための扉は静かに開かれていたのだ。
扉の向こうからは、古い紙の匂いと、少しカビ臭いような部室特有の空気が流れ込んでくる。窓の外からは、夕焼けのオレンジ色の光が斜めに差し込んでいた。歴史が本来の軌道に修正されたことで、この理不尽な部屋から元の世界へと生還する条件がついに満たされたのだ。
「……やっと帰れる」
極度の緊張からの解放と、重厚な衣装の鬱陶しさからくる疲労がどっと押し寄せ、昌幸は鉛のように重い足を引きずりながら開かれた扉へと向かった。
しかし、数歩進んだところで、すぐ後ろを歩いていたはずの豪奢な衣擦れの音が止まったことに気づく。
昌幸が振り返ると、マリー・アントワネットのドレスを纏った青が、ふと足を止めていた。彼女の陶器のような白い肌には微かな疲労の色が滲んでいたが、その整いすぎた顔立ちには、普段の隙のない仮面からは想像もつかないような、静かで柔らかな微笑みが浮かんでいたのである。
誰もが振り返る「氷の美少女」が、防衛機制の壁を完全に取り払い、ただ純粋な知的好奇心に突き動かされた一人の少女として見せたその表情の破壊力に、昌幸は一瞬だけ心臓の鼓動を跳ね上げさせた。
「日本の歴史の次は、フランス革命……世界の歴史まで修正させられるなんてね」
彼女の薄い桜色の唇から、微かな熱を帯びた声が紡がれる。
「次は一体、どの時代の、どんな事件に飛ばされるのかしら」
その言葉には、理不尽な状況への辟易とした思いよりも、むしろ歴史の深淵に触れることへの静かな高揚感すら混じっているように聞こえた。知識としてしか知らなかった歴史の転換点に自らの手で直接干渉し、真理を紐解いていくことの圧倒的な充実感。彼女が歴史研究部に求めていた本質的な探求の喜びが、その眼差しに満ち溢れている。
圧倒的な美貌と威厳を放つ彼女の微笑みを前に、昌幸は内心の動揺を隠すように、うんざりしたように肩をすくめ、いつものように特大の溜息を吐き出した。
「やれやれ、勘弁してくれよ……と言いたいところだが。まあ、次も上手くやるさ」
強がりとも本音ともつかない軽口を叩きながら、昌幸は少しだけ口角を上げた。この聡明で頼もしい相棒と一緒なら、どんな絶望的な歴史の歪みであっても、泥臭く軌道修正していけるという確かな信頼があった。
二人は顔を見合わせて微かに頷き合うと、並んで歩みを進め、開かれた扉の向こう側で待つ、元の平穏な日常へと足を踏み入れた。
二人は顔を見合わせて微かに頷き合う。そのまま扉を潜ろうとした昌幸だったが、重苦しいベルベットのコートに気づいて苦笑した。
「っと、その前にこの格好をどうにかしないとな。こんな姿で帰るわけにはいかないだろ」
「ええ、さすがにこのドレスのままでは悪目立ちしてしまうわね」
二人は元の制服へと着替えると、並んで歩みを進め、開かれた扉の向こう側で待つ元の日常へと足を踏み入れた。




