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歴史を修正しないと出られない部屋  作者: 久能のの
ヴァレンヌに散る白百合の夢

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22/32

6話

「準備はいいわね、稗田くん」


 彼女の静かで透き通った声が、無機質な空間に響く。

 昌幸は無言で頷き、部屋の中央に鎮座するタイムマシンの操作盤へ手を伸ばした。二回目の跳躍。力強くボタンを押し込むと、暴力的なまでの白い光が再び二人の視界を飲み込んでいった。

 細胞の隅々まで分解され、また再構築されるような特有の不快感が通り抜けた直後、無臭だったはずの空気が一変した。

 獣特有の強い体臭と糞の匂い、乾いた土埃、そして安酒や煮込み料理の匂いが入り混じった、むせ返るような生活臭。耳を打つのは、木輪が石畳を軋ませる音や、馬の甲高いいななき、そして粗野なフランス語の怒号だった。

 二人が降り立ったのは、喧騒に包まれたサント=ムヌーの宿駅の裏手、薄暗い路地裏だった。夕暮れが迫り、薄暗くなり始めた空の下、宿駅には長距離の旅路を急ぐ旅人や商人たち、そして馬の交換作業に追われる労働者たちがひしめき合っていた。


「……跳躍は成功したみたいだな」

「ええ。あとは、目標が現れるのを待つだけよ」


 昌幸のささやきに、青が切れ長の瞳を細めて答える。二人は豪奢な衣装が泥で汚れないよう細心の注意を払いながら、周囲の目を避けて物陰に身を潜めた。この時代、これほど高貴な装いをした男女が護衛もつけずに路地裏に立っていれば、それだけで異常な事態だ。自分たちが仕掛けるべきその瞬間まで、誰の視界にも入るわけにはいかなかった。

 じっと息を潜めて待つこと数分。やがて、宿駅へと続く街道の奥から、けたたましい鞭の音と重々しい車輪の軋みが近づいてきた。


「来たぞ」


 昌幸の緊張を孕んだ声に、青も無言で視線を鋭くした。

 土埃を巻き上げて姿を現したのは、六頭の馬に引かれた巨大なベルリン馬車だった。本来であれば周囲を取り囲んでいるはずの、ショワズール公爵率いる武装した軽騎兵たちの姿はない。昌幸が先の跳躍でサスペンションに施した破壊工作によって長時間の立ち往生を強いられ、護衛の軍事システムが完全に崩壊した結果だった。

 立派な装飾が施された車体は悪路の泥にまみれ、引いている馬たちも口から白い泡を飛ばして疲労困憊の様子を見せている。護衛という絶対的な盾を失い、孤立無援のまま焦燥に駆られて進んできた一国の国王一家の姿が、その鈍重な馬車にありありと象徴されていた。


「教科書の記述通りね。護衛は完全に引き剥がされているわ」


 青が極めて理知的な声で状況を分析する。やがて巨大なベルリン馬車は、疲弊しきった馬を新しいものと交換するため、宿駅の広場の中央で重々しく停車した。周囲の労働者たちが慌ただしく動き出し、馬具を外すガチャガチャとした音が響き渡る。馬車の中からは誰一人として降りてくる気配はなく、固く閉ざされた窓の向こうに、怯えと警戒心を抱いた王族たちが息を潜めているのが想像できた。


「馬の交換が終わるまで少し時間がかかるはずよ。タイミングを見計らうわ」


 青の静かな指示に、昌幸は小さく頷いた。喉の渇きを覚えるほどの極度の緊張の中、二人は路地裏の暗がりに身を沈めたまま、歴史の分岐点となる馬車から決して視線を外すことなく、飛び出すべきその一瞬をじっと待ち構えていた。

 薄暗くなり始めた街道の奥から、馬具の擦れる音と男たちの荒々しい声が響いている。物陰からその様子を窺っていた昌幸は、不慣れな重い衣装の中で小さく息を吐き出した。


「……馬の交換で周囲が慌ただしくなっている今が、唯一のチャンスよ」

「ああ、わかってる。俺たちの顔を、あの宿駅長にしっかり叩き込んでやろう」


 二人は顔を見合わせると、意を決して潜んでいた物陰から歩み出た。目指すは、馬車の周辺で慌ただしく作業を指揮している屈強な男、このサント=ムヌーの宿駅長であるジャン=バティスト・ドルーエの視界の中だ。

 昌幸と青は、馬車の死角を縫うようにして慎重に、かつ意図的にドルーエのいる方向へと接近していった。ただ闇雲に近づくだけでは怪しまれるだけだ。必要なのは、正体を隠そうと必死になりながらも、その身から溢れ出てしまう高貴な身分を演出することだった。

 青の演技は完璧だった。彼女は豪奢な扇で自身の顔の半分を隠し、怯えたように伏し目がちに振る舞いながらも、その歩みや指先の所作には平民には到底真似できない洗練された優雅さが宿っていた。圧倒的な美貌と、静かに放たれる艶やかなオーラ。それは、かつてヴェルサイユ宮殿で本物の王妃の顔を見たことがあるというドルーエの記憶を、確実に刺激するはずだった。

 一方の昌幸も、持ち前の深い歴史知識と芸術の教養を総動員してルイ十六世を演じきっていた。当時の肖像画や文献から読み解いた王族特有の歩幅、威圧感のある姿勢を徹底的に模倣する。わざとらしく襟元を立てて顔を隠しているが、その不自然な警戒心こそが、逆に周囲の疑念を強烈に惹きつける餌となる。


「……ん?」


 馬の鞍を調整していたドルーエの手が止まった。彼の鋭い視線が、不自然なほど顔を隠しながら馬車の傍を通り過ぎようとする二人の男女に釘付けになる。特に、扇の隙間から覗く青の切れ長の瞳と陶器のような白い肌を見た瞬間、ドルーエの顔に明らかな動揺が走った。

 ドルーエの疑念が確信へと変わりつつあるのが昌幸にもわかった。ここが勝負の分かれ目だった。

 昌幸は歩みを緩め、ドルーエの真正面へと進み出た。そして、懐から一枚の硬貨を取り出すと、世間知らずな貴族特有の横柄な態度でドルーエの掌へと押し付けた。平民の金銭感覚からすれば、あまりにも場違いで傲慢な振る舞いだった。ドルーエが反射的に手元の硬貨へ視線を落とすと、そこには鈍い輝きを放つ高額なルイ金貨があった。そして、その金貨の表面には、国王ルイ十六世の精悍な横顔がはっきりと刻み込まれている。

 ずしりと重い金貨と、そこに描かれた肖像。ドルーエは弾かれたように顔を上げ、眼前に立つ男の顔を凝視した。

 昌幸はあえて顔を隠していた襟元をわずかに緩め、ドルーエの視線を正面から受け止めた。金貨に刻まれた王の顔と、目の前で不遜な態度をとる男の顔。そして、その背後で扇の向こうから覗く王妃の面影。冷静に見れば別人であることがわかったはずだが、時代特有の厚塗りの化粧と、ドルーエの中にも「国王が逃亡するのではないか」という疑念が頭の片隅にあったことが手伝い、なんとか彼らを本物だと誤認させることに成功した。すべての点と点が繋がり、ドルーエの脳内で完璧な形を結んだ瞬間だった。


 ドルーエの眼差しに、疑念とは違う、革命派の市民としての激しい炎が宿った。国の頂点に立つ者たちが、身分を偽り、莫大な富をばら撒きながら国民を捨てて逃げ出そうとしている。その事実に対する怒りと、歴史を自らの手で動かすのだという強烈な使命感が、彼の全身を貫いていた。

 正体を見破られたと焦るそぶりを完璧に演じきり、昌幸と青は慌てて顔を隠すと、足早にその場から立ち去った。

 物陰へと戻り、息を潜めて振り返ると、そこにはすでに先ほどの宿駅長の姿はなかった。代わりに、一人の男が馬に跨り、松明も持たずに危険な暗闇の裏道へと猛烈な速度で駆け出していく蹄の音が鳴り響いていた。


「……行ったわね」

「ああ。あの気迫なら、間違いなく抜け道を通ってヴァレンヌに先回りするはずだ」


 昌幸の言葉に、青は静かに頷いた。

 彼らの意図した通り、高額な金貨という決定的な物証と傲慢な態度によって、ドルーエは史実通りの追跡者として完全に覚醒した。これで彼が暗闇の街道を駆け抜け、本物の国王の馬車を追い詰めるための最終局面が必然的にセットされた。

 狂いかけていた歴史の巨大なうねりが、確かな手応えとともに、本来の正しい軌道へと引き戻されていくのを二人は静かに見届けていた。

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