5話
暴力的なまでに視界を塗り潰していた純白の光が、ゆっくりと網膜から引いていく。
肺を満たしたのは、十八世紀フランスの湿り気を帯びた草土の匂いでも、馬車の下に立ち込めていた獣と油の臭気でもなかった。完全に無臭で、湿度すら感じさせない人工的な空気が入り込んでくる。
昌幸は、足の裏に硬く無機質な床の感触を確かめると、短く息を吐き出してタイムマシンの座席から立ち上がった。
「……なんとか、戻ってはこられたな」
すぐ隣では、青もまた静かに息を整えながら、乱れた制服のプリーツを細い指先で払っていた。常に完璧な冷静さを保つ彼女の横顔にも、今回ばかりは張り詰めた緊張の色が滲んでいる。
二人の視線は、すぐに目の前の操作盤へと向かった。未完成の歴史を抱えたまま、自らの意志で強制送還の前に帰還するという未曾有の賭け。もしタイムマシンのシステムが再稼働しなければ、二度と過去へ飛ぶことはできず、二人はこの出口のない密室に永遠に閉じ込められることになる。
心臓が再び嫌なリズムで警鐘を鳴らす中、昌幸は息を呑んで無機質な計器を覗き込んだ。
「……タイマーのカウントダウンは、停止しているわ」
青の透き通るような声が、静寂の部屋に響いた。彼女の視線の先で、限界に向けて時を刻んでいた活動限界のタイマーは強制送還のプロセスをキャンセルし、次の起動を待つスタンバイ状態のランプが静かに、しかし力強く点灯していた。
「マジか……」
昌幸は特大の溜息とともに、額に浮かんだ冷や汗を手の甲で乱暴に拭った。二回目の跳躍は可能だ。彼らが苦肉の策としてひねり出した「二回跳躍プラン」がシステムの裏を突き、見事に機能したことが実証された瞬間だった。永遠の幽閉という最悪の恐怖から解放され、昌幸の胸の奥からじわじわと確かな達成感が湧き上がってくる。
「喜ぶのはまだ早いかもしれないわ、稗田くん。私たちの工作が、本当に歴史の歯車を狂わせたかどうか確認するのが先よ」
青はかすかに口角を上げながらもすぐに気を引き締め、床に散乱していた歴史資料の山から一冊の分厚い歴史書を拾い上げた。昌幸も横から覗き込む。青の白魚のような指が、先ほどまで「国王一家の逃亡は遅延なくスムーズに進行した」と記されていたページをめくる。
活字の海を鋭利な視線で追っていた青の指が、ピタリと止まった。
「……あったわ。記述が書き換わっている」
「本当か!」
昌幸が身を乗り出して活字を追うと、そこには新たな歴史の途中経過がはっきりと刻み込まれていた。国王一家の乗る巨大なベルリン馬車は、ポン=ド=ソム=ヴェールへと向かう悪路の中、サスペンションの役割を果たす革紐が突如として断裂。修理が極めて困難な路上での長時間の立ち往生を強いられ、予定から約二時間という致命的な遅延が発生したこと。そして、その到着の遅れから、第一合流地点で待ち受けていた指揮官ショワズール公爵が逃亡計画は中止されたと誤認し、自身の部隊を撤収させてしまったこと。それが引き金となり、ルート上に敷かれていた護衛網が連鎖的に崩壊していったことが、紛れもない歴史的事実として記されていた。
「完璧だ……。俺が細工した通り、激しい振動で後から革紐が切れて、狙い通りの遅延が発生したんだ」
自らの手が十八世紀の巨大な馬車を止め、歴史のうねりに明確な亀裂を入れた。その圧倒的な事実に、昌幸は震える拳を強く握りしめた。
「ええ。あなたの泥臭い工作のおかげで、彼らは軍事的な保護を失った無防備な状態へと陥ったわ。第一の介入は、文句なしの成功よ」
青もまた歴史書をパタンと閉じ、切れ長の瞳に力強い光を宿して頷いた。未曾有のプランの前半戦は、二人の読み通りに完璧な形で完遂されたのである。
安堵の息を吐き出したのも束の間、青は床に座り込む昌幸を見下ろし、氷のように理知的な声を響かせた。
「息をつく暇はないわ。第二のミッションの目標を再確認するわよ。私たちの二度目の跳躍における目標は、護衛を失ってサント=ムヌーの宿駅に到着した本物の馬車に対し、国王の顔を宿駅長であるドルーエに確実に認識させること」
「理屈は分かってる」
昌幸は重い頭を掻きむしりながら身を起こす。
「だが、この改変された歴史じゃ、本物の国王は異常なほど警戒して馬車の窓から絶対に顔を出さないんだろ。それが根本的な障害になってる」
「その通りよ。史実通りにドルーエを追跡者として覚醒させるには、どうしても国王の顔を見せる必要があるわ。でも、本人は馬車の奥に引きこもって出てこない」
昌幸は腕を組み、冷たい床を睨みつけながら思考を巡らせた。外から石でも投げて無理やり窓を開けさせるか。いや、相手はあの分厚いベルリン馬車だ。そんなことをすれば、顔を見る前に不審者として護衛の残党や宿駅の連中に捕縛されるのがオチだ。じゃあ、また偽の伝令書をでっち上げて外に誘い出すか。だが宿駅に到着した時点じゃ、もう偽装が通用する状況じゃないかもしれないし、警戒しきっている王族本人がのこのこ馬車から降りてくる保証もない。
ひねり出しても、確実性に欠ける案ばかりが浮かぶ。青も黙って昌幸の思考を阻害しないよう見守っているが、その切れ長の瞳は不確実な手段は取れないと雄弁に語っていた。
「不確定要素が多すぎる。何より、タイムマシンの活動限界という時間制限がある以上、失敗してやり直す余裕なんてどこにもない……」
ぶつぶつと呟きながら自身の思考を整理していた昌幸は、ふとハッとし、ある発想の糸口を掴んだ。相手が動かない。外から無理やり動かすこともできない。ならば、どうするか。
「……なぁ、西園寺」
昌幸は顔を上げ、青を真っ直ぐに見据えた。
「本物の国王がどうしても顔を出さないっていうなら、いっそのこと、本物にはずっと引きこもっていてもらえばいいんじゃないか?」
「どういうこと?」
「つまり、ターゲットである宿駅長ドルーエの視界に国王の顔が映りさえすれば、それが本物である必要はないってことだ。俺たちが自ら身代わりとなって、意図的に正体の露見を引き起こしてやるんだよ」
ただの日本の高校生が、一国の王と王妃のフリをする。自らの口から出たそのあまりにも突飛なロジックに、昌幸自身も狂気を感じていた。しかし、青はその言葉を聞いて目を微かに見開いた後、ふっと口角を上げた。
「なるほど。あなたのその泥臭くて斜め上の発想、こういう極限状態では本当に頼りになるわね。ええ、それが最も確実な手段よ」
青の同意を得て、昌幸は重い腰を上げた。
「……気は進まないが、あのタンスの中身を確かめてみるか」
昌幸は部屋の隅にぽつんと置かれた古びたタンスへと歩み寄った。深層心理を読み取るこの装置に、今はもう雑念を交えている余裕はない。ただひたすらに、十八世紀フランスの最高権力者が身に纏うにふさわしい、豪奢な衣服だけを脳裏に思い描く。ギィィという金属が不快に軋む音とともに慎重に引き出しを開けると、そこには古い絹と香水の微かな匂いとともに、目を奪われるような見事な衣装と小道具が畳まれていた。
二人は無言のまま、タンスから調達したルイ十六世とマリー・アントワネットに完全に扮するための豪奢な衣装を身に纏い、入念に変装を行っていく。
光沢のある上質なベルベットのコートと、精巧な金糸の刺繍が施されたベストの重みに、昌幸は自身の置かれた状況の不条理さに再び辟易とした。自身の深層心理から引きずり出されたという事実も相まって、精緻な刺繍が施された絹の重みや、首元を締め付けるクラヴァットの感触が、これから挑むミッションのプレッシャーを物理的に増幅させているようだった。
しかし、振り返った先で幾重にも重なる滑らかなシルクのドレスと大ぶりな羽飾りのついた優雅な帽子を被り、完璧な王妃の姿へと変貌を遂げた青の圧倒的な美貌と威厳ある佇まいを前に、そのぼやきも一瞬だけ喉の奥へと引っ込んだ。きつく締め上げられたコルセットや幾重にも重ねられた豪奢な布地という時代錯誤な装いすらも完全に己のものとしており、まるで中世の絵画から抜け出してきたかのような堂々たる威厳を放っている。
無機質な白い部屋の隅で、再び重々しい軋み音を立ててタンスの引き出しが開かれた。そこには、衣装だけでなく、十八世紀の貴族たちが好んで使用していた鉛白の白粉と、鮮やかな赤いルージュが収められていた。
宿駅長ドルーエの目を欺き、高貴な身分を演出するためには、この時代の特有の極端な化粧が不可欠だった。しかし、現代の、しかも普段は必要最低限の身だしなみしか整えない高校生にとって、当時の化粧品はあまりにも勝手が違った。
「……くっ、この白粉、どうしてこんなに伸びが悪いの」
手鏡を片手に、青が苛立たしげな声を漏らした。普段は完璧な冷静さを崩さない彼女が、不慣れな鉛白の粉と油の扱いに悪戦苦闘し、整った眉を顰めている。その様子をしばらく眺めていた昌幸は、特大の溜息を一つ吐き出すと、彼女の横へと歩み寄った。
「貸してみろ。お前のその不器用な塗り方じゃ、高貴な王妃どころかただの幽霊だ」
「なんですって? なら、あなたにこの時代の化粧の作法がわかるとでも言うの」
「化粧の作法は知らんが、顔料の性質と筆の運びならわかる」
昌幸は青から半ば強引に白粉とルージュを取り上げると、彼女の正面に立った。そして、顔を上げるよう顎で促す。青は不服そうに唇を尖らせたが、現状、自分ではどうにもならないことを悟ったのか、大人しく目を閉じて顔を向けた。
だが、いざ作業に取り掛かろうと筆を構えた瞬間、昌幸の指先がピタリと止まった。
間近で見る西園寺青の顔立ちは、本当に恐ろしいほど整っていた。陶器のように滑らかで透き通るような白い肌。長い睫毛が落とす繊細な影。そして、微かに上気した薄い桜色の唇。誰もが振り返る氷の美少女の無防備な顔が、吐息がかかるほどの至近距離にあるのだ。健全な男子高校生である昌幸の心臓が、警鐘のような嫌なリズムとは全く違う、ひどく暴力的な鼓動を打ち始める。
(落ち着け、俺。これはただの作業だ。十八世紀の絵画を修復しているだけだ。カンバスに顔料を乗せる、ただの美術品の修復作業だ)
昌幸は自身の内側に渦巻く激しい動揺を悟られまいと、必死に自己暗示をかけながら、震えそうになる指先を強固な意志で制御した。極度の集中力を発揮し、真剣な眼差しで白粉を肌に馴染ませていく。その視線は、一切の邪念を排除した職人のそれだった。
しかし、そのあまりにも真っ直ぐで熱を帯びた視線で顔中を隈なく見つめられることに、今度は青の方が耐えられなくなってきたらしい。普段はどんな状況でもペースを崩さない彼女の長い睫毛が、微かに震え始める。沈黙と至近距離の熱量に耐えきれなくなった青は、パチリと目を開けると、ほんのりと頬を赤らめながら鋭い言葉を投げつけた。
「……私の美しさに今更見惚れたの? 見惚れるのは勝手だけど、作業の手は止めないでね」
それは、明らかな照れ隠しの混じった、彼女なりの防衛規制だった。昌幸は一瞬だけ筆を止め、気怠げに肩をすくめてみせた。
「……うるさいな。カンバスの素材が良すぎて、下手に触るのが怖いだけだ」
「……っ、ふん。減らず口を」
昌幸の照れ隠しのような軽口に、青は顔を背けるようにして再び目を閉じたが、その耳たぶが微かに朱に染まっているのを昌幸は見逃さなかった。
やがて、青のメイクが完了すると、今度は攻守が交代した。豪奢なベルベットのコートを着込んだ昌幸が床に座り、青が彼を見下ろす形で白粉を手に取る。
「さあ、今度は私の番ね。あなたのその特筆すべき特徴のない平凡な顔を、少しでも高貴に見せるのは至難の業だけれど」
「失敗して一緒にギロチン送りにされるのだけは勘弁してくれよ」
「誰に口を利いているの。大人しくしていなさい」
青は容赦ない罵倒を浴びせながらも、先ほどの仕返しとばかりに、昌幸の顔へとギリギリまで顔を近づけてきた。彼女の真剣な切れ長の瞳が、昌幸の顔を覗き込む。微かに揺れる黒髪から漂う、清潔で甘い香り。そして、息が触れ合うほどの距離にある彼女の長い睫毛と、艶やかなルージュを引かれた唇。先ほど必死に鎮めたはずの昌幸の心臓が、再び激しく跳ね上がる。視線をどこに泳がせても彼女の圧倒的な美貌が視界を埋め尽くし、昌幸はただ全身を硬直させて耐えるしかなかった。
「……よし、完成よ」
永遠にも似た数分が過ぎ、青が満足げに息を吐いて身体を離した。
二人は立ち上がり、タンスに備え付けられた鏡の前に並んで立った。そこに映っていたのは、もはや日本の高校生ではなかった。豪奢な衣装と、時代特有の青白い肌に赤いルージュを施された二人は、まさに中世の絵画から抜け出してきた王と王妃そのものだった。完璧な変装がもたらした青のあまりの変貌ぶりに、昌幸は一瞬、言葉を失って見惚れてしまった。しかし、すぐに我に返り、照れ隠しのように口を開く。
「……まあ、遠目なら誤魔化せるだろ」
「ええ。所詮は紛い物よ。宿駅長を騙し切るためのね」
青もまた、素直に褒め合うことを避けるように、感情を抑えた声で打ち消した。いつもの険悪な毒舌と皮肉の応酬。しかし、無機質で冷たいはずの白い部屋の空気の中には、普段の彼らよりも少しだけ熱を帯びた、微かな余韻が確かに残っていた。




