4話
昌幸は立ち上がり、静かに呼吸を整えた。
部屋の中央にあるレトロなタイムマシンに乗り込み、操作盤に手を伸ばす。無機質なタイマーの作動音が鳴った直後、強烈な閃光が視界を白一色に塗り潰した。空間がねじ曲がり、自身の身体が凄まじい引力で吸い込まれていくような圧迫感と、細胞が一度バラバラになって再構築されるような特有の吐き気が全身を襲う。
やがて光が収束し、足裏に硬い床ではない土の感触を覚えたとき、無臭だった密室の空気は、初夏特有の湿り気を帯びた草土の匂いへとすり替わっていた。
「……どうやら、少し離れた場所に降りてしまったようね」
青の静かな呟きに、昌幸は重い頭を振りながら周囲を見渡した。到着したのは、鬱蒼とした木々が茂る十八世紀フランスの田舎道である。頭上には星空が広がり、辺りは深い夜の闇に包まれていた。直接馬車のすぐそばに転移できれば手っ取り早かったのだが、周囲に目当ての馬車の姿はない。足元には、未舗装で深くえぐられた悪路がどこまでも続いている。
「相手は国王一家全員が乗った巨大な馬車だ、そう簡単には隠れられないはず」
昌幸は特大の溜息を吐き出しながらも、青を促して歩き始めた。街灯すらまともになく、暗闇の中で馬車の轍がくっきりと残る土道を辿っていく。靴底から伝わる石の硬さと泥のぬかるみに顔を顰めながら数分ほど歩いたところで、前方を歩いていた青がぴたりと足を止めた。
「見つけたわ。あそこよ」
青の視線の先、街道から少し外れた木陰に、のどかな田園風景には異様に浮き上がった鈍重な塊が小休止のために停車していた。六頭の馬に引かれ、豪華な装飾が施された巨大な「ベルリン馬車」である。周囲には数名の護衛の近衛兵や従者たちが馬の世話をしながら周囲に目を光らせているのが遠目にも確認できた。ショワズール公爵の本隊と合流する前とはいえ、彼らの腰に提げられた剣や銃は十分に致命的だ。
昌幸は極度の緊張で乾ききった唇を舐めると、先ほどの白い部屋で心血を注いででっち上げた一葉の羊皮紙を、青へ向けて無言で差し出した。
「……頼む」
真正面から近づけば怪しまれるため、青が道端にいた浮浪児の少年に声を掛けた。小銭を握らせ、「あそこにいる兵隊さんに、この手紙を届けてくれないかしら」と、当時のフランス語で語りかけ、上品な微笑みとともに偽の伝令書を託す。少年が言葉を理解し、嬉しそうに頷いて馬車の傍で休憩していた護衛たちの元へと駆けていくのを見送ると、青は自身の発音が無事に通じたことに密かに安堵の息を漏らした。
昌幸たちは茂みの陰から、息を殺してその様子を窺う。心臓が早鐘のように鳴り響き、こめかみから嫌な汗が伝い落ちていくのを感じた。
「……ん?」
少年から手紙を受け取った護衛の一人が、怪訝そうな顔でそこに押印されたショワズール公爵の赤い紋章を見るなり、目を見開いた。
「おい、公爵閣下からの伝令書だ!」
その鋭い声に、周囲で休憩していた護衛たちが弾かれたように集まってくる。護衛たちは少年から差し出された手紙を怪訝そうに受け取ると、一切の疑いを持たずにその封を切った。
「『道中の宿駅にて、特定のワインと食料を至急調達せよ』だと……」
「急げ、国王陛下のご休憩が終わる前に済ませなければ」
公爵の威厳を示す精巧な筆跡と紋章は、兵士たちの目をいとも容易く欺いたようだった。上官からの正式な命令だと完全に信じ込んだ彼らは、すぐさま数名が手分けをして動き出す。ガチャガチャと重い装備を鳴らしながら、指定された物資を調達するため馬車の周辺から次々と離れていった。宿駅の方向へと遠ざかっていく彼らの背中を見送りながら、昌幸は陽動作戦の完璧な成功を確信し、密かに安堵の息を吐き出した。
残されたのは、馬の面倒を見ている御者と、見張りの兵がわずか一人か二人。武装した人数が目に見えて減っていくにつれ、馬車周辺を取り巻いていた物々しい警戒態勢は緩み、残された見張りたちの空気にも明らかな弛緩が混じり始めていた。
物陰に潜んでいた昌幸は、その様子をじっと観察しながら、じわりと掌に滲む汗をズボンで拭った。心臓が嫌なリズムで警鐘を鳴らしているが、この期に及んで逃げ出す選択肢などない。
やがて、残った見張りの意識が完全に馬車から逸れ、背を向けて仲間同士で手すきの雑談を交わし始めたその一瞬。
昌幸は地を這うような低い姿勢で駆け出した。
音を立てないように慎重に、しかし素早く未舗装の地面を蹴り、巨大なベルリン馬車へと接近する。そのまま誰の視界にも入ることなく、見張りの完全な死角である車体下部の暗がりへと無事に身を滑り込ませた。
馬車の下は、乾いた土埃と獣の強い匂い、そして車軸に塗られた油の臭気が濃密に立ち込める閉鎖空間だった。頭上の分厚い板のすぐ向こうには、歴史に名を残す国王一家が乗っているかと思うと、異常なまでのプレッシャーで呼吸が浅くなる。
だが、昌幸はすぐに自身のやるべきことへと意識を切り替えた。薄暗い中、目を凝らして目当ての箇所を探す。車体を支え、悪路の衝撃を吸収するための要となる分厚く頑丈なサスペンションの革紐だ。
昌幸は懐から刃物を取り出すと、持ち前の器用な手先を活かし、その革紐へと慎重に刃を当てた。今この場で完全に断ち切ってしまえば、車体が傾き異常に気づかれてしまう。必要なのは、今は持ち堪えるが、馬車が再び走り出し、悪路の激しい振動に晒された際に後から確実に断裂するような絶妙な深さの切り込みだった。
芸術品の修復でも行うかのような極度の集中力で、昌幸は刃の角度と力を調整していく。ギシ……と革が微かに悲鳴を上げる感触が、刃先から指へと伝わってくる。自身の感覚だけを頼りに、最も負荷がかかるであろう部分を的確に狙い、深く、しかし致命傷の一歩手前で留める確実な切り込みを刻み込んでいく。
最後の微調整を終え、昌幸は小さく息を吐き出した。
油と土埃にまみれながら、巨大なベルリン馬車の車体下部から慎重に這い出した昌幸は、荒くなった呼吸を整える間もなく物陰へと滑り込んだ。買い出しに向かっていた護衛たちが戻ってくる前に、速やかに離脱しなければならない。心臓が早鐘のように打ち鳴る中、すでに退避して息を潜めていた青と合流する。
やがて、指定された物資を手にした護衛たちが戻り、馬車の周囲に再び慌ただしい気配が満ちた。御者の鋭い声とともに鞭が振り下ろされ、重厚なベルリン馬車が軋み音を立ててゆっくりと再び走り出す。
二人は木々の陰に身を隠したまま、遠ざかっていく巨大な車体をじっと見つめていた。舗装もされていない悪路を進む馬車は、石や深い轍に乗り上げるたびに激しく上下に揺さぶられている。
「……手応えはどうだったの?」
青が視線を馬車に向けたまま、静かな声で問いかけた。
「バッチリだ。サスペンションの革紐には、確実に深い切り込みを入れておいた」
昌幸が顔の泥を拭いながら答える。
「革紐には斜めに深く刃を入れて、馬車自体の重みと悪路の衝撃が一点に集中するように細工しておいた。あの激しい振動が続けば、耐えきれずに必ず裂けるはずだ」
昌幸が確信を持って告げると、青はそうとだけ短く返し、小さく頷いた。これで、彼らの意図した通り、修理が困難な路上での立ち往生と長時間の遅延が引き起こされるはずだ。
だが、安堵して重い溜息をつく暇はなかった。彼らには、次の、そして最も危険な賭けが残されている。
「急ぐわよ。このまま活動限界による強制送還のプログラムが作動してしまえば、ミッションは失敗と判定されてしまう」
青の妥協のない声に、昌幸は表情を引き締めた。歴史の修正プロセスが完了していない中途半端な状態で強制的に引き戻されれば、再跳躍の機会が失われ、永遠にあの白い部屋に閉じ込められる恐れがある。システムの裏をかき、二度目のタイムスリップを実現するためには、タイマーがゼロになる前に自発的に帰還ボタンを押し、システムを一時停止させる必要があった。
「ああ、分かってる。自分からあの無機質な部屋に帰るなんて、控えめに言って最悪の気分だけどな」
昌幸は軽口を叩きながらも、夜闇の森に停めてあるタイムマシンの元へと急いで駆け戻った。金属のハッチを開けて座席に滑り込み、震える指先で操作盤の帰還ボタンに触れる。これによって本当に二度目の跳躍が可能になるのか、確証はどこにもない。だが、今は自分たちで導き出した未曾有のプランを信じるしかなかった。




