3話
覚悟を決めたとはいえ、真っ白な密室を支配する重苦しい空気は少しも晴れることはなかった。
無臭で、温度も湿度も感じさせない人工的な空間の中、稗田昌幸と西園寺青は床に広げた古地図と羊皮紙の資料を囲むようにして再び向かい合っていた。永遠の幽閉という最悪のリスクを孕んだ未曾有の「二回跳躍」プラン。その前半戦となる第一のミッションは、第一合流地点であるポン=ド=ソム=ヴェールに到着する前の段階で、国王一家の乗る馬車の進行を約二時間遅延させるというものだった。
「目的は明確よ」
青の透き通った、しかし一切の感情を交えない声が静寂を切り裂いた。彼女の切れ長の瞳は、床の上の古地図を鋭く見据えている。
「馬車を物理的に遅延させることで、合流地点で待ち受けている第一護衛部隊の指揮官、ショワズール公爵に『逃亡は中止された』と誤認させる。彼が待ちきれずに部隊を撤収させれば、ルート上に敷かれていた護衛網はドミノ倒しのように次々と崩壊していくわ」
「要するに、どうやってその『二時間の遅れ』を人為的に作り出すか、だな」
昌幸は腕を組み、地図上のルートを睨みつけた。相手は逃亡中の巨大な馬車だ。それを止める手段を考えなければならない。頭を悩ませた末に、彼は一つの案を絞り出した。
「俺の案としては、ルート上に精巧な偽の障害物を設置して、接触事故を誘発するのが一番現実的だと思う。あのタンスを探せば、倒木や石柱の偽物をでっち上げるための資材くらい入ってるだろ。少し細工すれば、暗闇の中で本物と見分けがつかないような障害物を作れるはずだ」
昌幸は自身の考えを口にしながら、それが最善だと信じていた。馬車がそれにぶつかれば、史実通りのサスペンション破損トラブルが起きる。これなら、武装した従者たちが目を光らせているであろう国王の馬車に、生身で直接近づく危険を冒さずに済む。
しかし、青の反応は氷のように冷ややかだった。
「却下よ」
一切の躊躇もない、無慈悲な一刀両断であった。
「なんでだよ。俺たちの安全を考えたら……」
「不確定要素が多すぎるわ。御者が障害物に気づいて避けてしまったらどうするの? 私たちのタイムマシンには活動限界という絶対的な時間制限があるのよ。一度失敗して、別の場所に障害物を仕掛け直すような時間的猶予はどこにもないわ」
青の漆黒の瞳が、射抜くように昌幸を見据えた。
「確実な手段を取るべきよ。馬車が小休止で停車している隙にあなたが直接接近し、サスペンションの役割を果たす革紐に切り込みを入れるの。走行中の激しい振動で後から確実に断裂するように細工すれば、修理が困難な路上で長時間の立ち往生を強制できるわ」
「……本気で言ってるのか?」
昌幸は思わず声を荒らげ、冷たい床から腰を浮かせた。
「相手は一国の国王一家だぞ。今はまだ第一護衛部隊と合流する前だから大規模な軍隊はいないとはいえ、パリから付き従ってきた屈強な近衛兵や従者、それに御者たちが目を光らせているはずだ。そんな連中の目を盗んで馬車の下に潜り込むなんて、見つかればその場で切り捨てられて終わりだ」
死の恐怖がリアルな想像となって背筋を駆け上がる。天王山の山林や五稜郭での死線も恐ろしかったが、無謀な単独潜入にはまた別の生々しい恐怖があった。冷たい刃を突き立てられる自身の姿が脳裏にちらつき、胃の腑が鉛のように重くなる。
しかし、青の整いすぎた顔立ちは微塵も揺るがなかった。
「ええ、危険なのは百も承知よ。でも、確実に歴史を修正するためには、不確定要素を完全に排除しなければならない。障害物という『偶然』に頼るのではなく、物理的な『必然』を作り出すのよ。あなたなら、そのくらいの細工はできるはずでしょう」
隙のない、徹底された正論だった。感情を排し、ただ目的の完遂のみを追求する彼女のロジックには、反論の余地がない。タイムマシンの制限時間という絶対的な足枷がある以上、失敗の可能性を孕む作戦は致命傷になり得るのだ。
押し黙り、唇を噛む昌幸を見て、青は静かに、だが強い意志を込めて言葉を紡いだ。
「やるしかないのよ、稗田くん。この狂った歴史を、本来あるべき姿に修正するためには」
その言葉に、昌幸は特大の溜息を吐き出した。抗えない現実への降伏宣言だった。自身の巻き込まれ体質を呪う言葉すら、今は空虚に響くだけだ。
「わかったよ……。直接工作でいく。西園寺の言う通りにする」
こうして、危険を伴う直接工作の実行が決定した。だが、方針が定まったことで、二人はすぐに現実の分厚い壁に直面することになる。
昌幸は頭を抱え、絶望的な事実を口にした。
「とはいえ……どうやって近づくんだ? 少数とはいえ、武装した男たちが王の馬車を守っている。休憩で停車したとしても、全員が馬車から離れるなんてあり得ない。真正面から突っ込んでいって馬車の下に潜り込めるほど、十八世紀の人間たちも節穴じゃないだろ」
「ええ。警備の目を欺いて、あなたが安全に近づくための確実な隙を作らないと、話が始まらないわね」
「それはそうだけど……だから、どうやって?」
昌幸が問い返すと、青はわずかに眉根を寄せ、口元に手を当てて沈黙した。
いつもなら即座に的確な指示を出す彼女が考え込んでいる姿を見て、昌幸は青にも具体的な案がないのだと悟る。彼女を頼っていても状況は動かない。昌幸もまた、腕を組んで自らの頭をフル回転させ始めた。
相手の視線を強制的に別の場所へ向けるしかない。自分という異物が馬車に接近するための、絶対的な死角を人為的に作り出すのだ。
「……偽の伝令書をでっち上げるのはどうだ? 護衛たちを馬車から離れさせるような、もっともらしい指示を書いたやつをな」
青はその意図を即座に理解し、切れ長の瞳を微かに細めた。
「なるほど。第一護衛部隊の指揮官であるショワズール公爵からの偽の命令を与えて、現場の兵士たちを馬車から遠ざけるというわけね。論理としては悪くないわ。でも、相手は王族を護衛する忠実な部下たちよ。得体の知れないただの紙切れ一枚で、疑い深い彼らを完全に騙し切れると思っているの?」
彼女の指摘はもっともだった。不自然な文書であれば即座に偽造と見破られ、かえって警戒を強める結果になる。だが、昌幸の唇には不敵な笑みが浮かんでいた。
「俺を誰だと思ってる。ただの巻き込まれ体質の平凡な高校生だが、美術品や当時の工芸品の知識なら、お前のその完璧な歴史知識にも引けを取らないつもりだぜ。見様見真似で作ってみせる」
昌幸は勢いよく立ち上がると、部屋の隅に鎮座する古びた木製タンスへと向かった。
作戦が破綻しないよう、ここで下手に恐怖や雑念を混ぜるわけにはいかない。
昌幸は錆びついた取っ手に手を掛ける前に深く息を吸い込み、目を閉じた。自身の内にある一切の邪念、焦り、そして死への恐怖を強固な意志で完全に締め出す。頭の中に思い描くのは、純粋な作業に必要な資材のみ。十八世紀フランスの公文書に使われていた、わずかに黄ばんだ最高級の羊皮紙。鉄とタンニンが混ざり合った特有の匂いを放つ没食子インク。しなやかな鳥の羽ペン。そして、文書に絶対的な権威を持たせるための、封印用の赤い蜜蝋。それら偽造に必要な道具一式だけを脳裏に鮮明に焼き付け、ただひたすらに強く念じながら、昌幸は慎重に引き出しを手前へと引いた。
ギィィと金属が不快な音を立てて軋むとともに、無臭だったはずの白い部屋に、古い紙と独特の酸っぱいインクの匂いがふわりと立ち込めた。目を開けると、そこには昌幸が思い描いた通りの完璧な年代物の書記用具一式が、静かに姿を現していた。
(変な煩悩が混ざらなくてよかった……)
昌幸は内心で安堵の息を漏らし、それらの資材を大事に抱えて白い床の上へと並べた。そして、先ほどまで青と共に格闘していた資料の山を漁り、第一護衛部隊の指揮官であるショワズール公爵の紋章と署名が記された当時の公文書を探し出した。
昌幸は床に座り込み、羽ペンをインク瓶に浸すと、真新しいが古びた風合いを持つ羊皮紙に向かって滑らせていった。彼の指先は、一切の迷いなく精緻な線を紡ぎ出していく。深い芸術史の造詣に裏打ちされた知識が、文字の跳ねや掠れ、筆圧の微妙な強弱に至るまでを完璧に計算していた。持ち前の手先の器用さが生み出すその筆運びは、まるで当時の書記官が乗り移ったかのように、数百年前の公文書の重厚な質感を見事に模倣していく。
文章の内容については、青の力が不可欠だった。当時のフランス語の複雑な文法、軍隊における正式な命令書のフォーマット、そして指揮官特有の威圧的な言い回し。青の淀みない完璧な知識を借りながら、昌幸は手際よく、しかし慎重に偽の指示を羊皮紙に刻み込んでいく。
「『道中の宿駅にて、特定の物資……国王一家のための上質なワインや追加の食料を至急調達せよ』……と。こんなもんだろ。ただ単に離れろと言うより、具体的な任務を与えた方が怪しまれない」
書き終えた文字を眺めながら昌幸が言うと、背後から覗き込んでいた青も同意するように小さく頷いた。
「ええ。長旅に備えた補給の指示として、極めて自然だわ。これなら兵士たちも疑うことなく、馬車の周辺から離れて買い出しに向かうはずよ」
文書の偽造は最終段階に入った。どれほど筆跡が完璧でも、指揮官の正式な紋章による封印がなければ、ただの怪文書で終わってしまう。
昌幸は火を灯し、用意した赤い蜜蝋を慎重に熱してドロドロに溶かした。それを、丁寧に折りたたんだ文書の合わせ目にポタリと垂らす。そして、資料にあった紋章の意匠を元に、タンスから出した小道具を使って即席で緻密に削り出しておいた偽の印面を、まだ熱を持つ蜜蝋の上から体重をかけて強く押し当てた。
数秒の静寂の後、蜜蝋が完全に冷えて固まったのを確認し、昌幸は息を詰めて印を引き剥がした。そこには、第一護衛部隊の指揮官・ショワズール公爵の紋章が、寸分違わぬ精巧さと立体感をもって赤々と浮かび上がっていた。
完成した偽の伝令書は、一介の日本の高校生が密室でたった今作り上げたとは到底思えないほどの、圧倒的な説得力と歴史的な威厳を放っていた。青は床に置かれたその偽造文書をそっと拾い上げ、様々な角度からまじまじと観察した。そして、その完璧すぎる出来栄えに、ふっと小さく息を吐いた。
「……あなたのその無駄に手先が器用なところ、こういう時に限っては本当に重宝するわね。見事なものだわ」
「素直に感心したって言えばいいものを。まあ、命が懸かってるんだ、火事場の馬鹿力ってやつさ」
昌幸は気怠げに肩をすくめながらも、会心の出来栄えとなった自身の作品を満足げに見つめた。これで、警備に穴を開け、自分が馬車の下へ潜り込むための道筋はできた。
「これで、護衛の目を逸らすための準備は整ったわね」
青の静かな確認の言葉に頷き、昌幸は自らが作り上げた完璧な偽造文書を慎重に懐へと収めると、深く息を吐き出した。視線の先には、無機質な部屋の中央で静かに次の稼働を待つ、レトロなタイムマシンが鎮座している。失敗の許されない、巨大な歴史のうねりへと再び身を投じる時が来たのだ。




