2話
史実通りに逃亡を『失敗させる』。青のその宣言を受けて、二人は再び床に散乱した歴史資料の海へと向き直った。
史実ではなぜ失敗し、この改変された歴史ではなぜ成功したのか。その決定的な差異を見つけ出さなければ、どの時間、どの場所に介入すべきかも分からないからだ。
空調設備などどこにも見当たらないのに、常に一定の温度と湿度に保たれたこの閉鎖空間は、時間の経過すらも曖昧にさせる。日本史よりも世界史が得意とはいえ、専門的すぎる当時の古文書を延々と読まされ続ける昌幸の目は、とうに限界を迎えつつあった。
一方で、青は文字通り微動だにせず、驚異的な集中力で活字を追い続けていた。腰まで届く艶やかな黒髪が陶器のように白い頬にかかっても、それを耳に掛けることすら煩わしいとばかりに、彼女の白魚のような指先は一定のリズムでページをめくり続けている。
やがて、張り詰めた静寂をふいに破るように、青の呟きが漏れた。
「……なるほど。そういうことね」
張り詰めた静寂をふいに破った青の呟きに、昌幸は疲労で重くなったまぶたを擦りながら顔を上げた。
「何かわかったのか?」
「ええ。ヴァレンヌ事件という歴史の特異点において、なぜ彼らの逃亡がこの世界線に限って『成功してしまった』のか。その根本的な原因が、当時の記録の欠落部分から逆算できたわ」
パタンと重い音を立てて手元にあった分厚い古文書を閉じると、青は切れ長の瞳で真っ直ぐに昌幸を見据えた。
「解説する前に、まずは史実の前提を共有しておくわ。一般的に、ヴァレンヌ事件は無謀な計画だったと思われがちだけれど、当時の状況や軍の配置を客観的に分析すれば、本来であれば十分に成功する公算の高い作戦だったのよ」
「成功するはずだった? じゃあ、なんで俺たちの知ってる史実じゃ、途中で捕まって最終的にギロチン行きになったんだよ」
「それは、彼らが自ら招いた、数々の愚かな人為的ミスが連鎖した結果に過ぎないからよ」
青の薄い桜色の唇から、容赦のない辛辣な評価が紡ぎ出される。
「まず、彼らは逃亡の移動手段として、極めて鈍重で巨大な『ベルリン馬車』を選択した。国王一家全員で同乗し、万が一の際にも王室としての威厳を保つためよ。その結果、身を隠すための機動性は完全に失われ、悪路に足を取られて大幅なスケジュールの遅延を引き起こしたわ。さらに、国王自身の致命的な警戒心の欠如。一刻を争う逃亡中にもかかわらず、彼は自分がまだ民衆から愛されていると無邪気に信じ込み、不用意に馬車の窓から顔を出してしまったの。そうした初歩的なミスの積み重ねが、最終的な破滅の呼び水となったのよ」
昌幸は特大の溜息を吐き出し、乱暴に自身の頭を掻きむしった。
「命懸けの逃避行で威厳を優先して、おまけに顔出しまでしたってのか。追われている自覚がなさすぎるだろ。そりゃ捕まるべくして捕まったって感じだな」
「ええ、その通りよ。史実の彼らは、自らの手で破滅への階段を一段ずつ、ご丁寧に登っていったのよ」
青は滑らかな手つきで別の資料の束を引き寄せ、その一節をトントンと指先で叩いた。
「問題は、この改変された狂った歴史において、その『破滅への階段』がどうなっているかよ。結論から言うと、この世界線では、史実で確実に起きたはずの『二つの致命的なエラー』が、なぜかすっぽりと欠落しているの」
「二つのエラー……?」
昌幸が聞き返すと、青は真っ白な指をすっと一本立てた。
「一つ目は、『馬車が無傷であったこと』。史実では、鈍重な大型馬車で舗装もされていない悪路を無理に走ったため、途中でサスペンションの役割を果たす革紐が破損し、その修理のために長時間の遅延が発生したわ。そのせいで、ポン=ド=ソム=ヴェールという第一合流地点で待機していた第一護衛部隊の指揮官、ショワズール公爵が『到着が遅すぎる。逃亡計画は中止されたのだ』と誤認して、自らの部隊を撤収させてしまったの。これが、道中の護衛網がドミノ倒しのように崩壊していく引き金よ」
青はそこで言葉を区切り、氷のように冷ややかな視線を資料から昌幸へと向けた。
「けれど、この改変された歴史では、どういうわけか馬車の故障が一切起きていないのよ。彼らは予定に近いペースで進軍を続け、撤収してしまう前のショワズール公爵と無事に合流を果たしてしまった。指揮系統が保たれたことで後続の護衛網も正常に機能し、彼らが無防備な状態に陥ることは最後までなかったわ」
「なるほど……馬車が壊れなかったせいで、軍隊の護衛が最後まで手厚くついてきちゃったのか」
昌幸が納得して頷くと、青は二本目の指を立てた。
「そして二つ目。これが最も決定的よ。『国王が異様なまでに警戒心を抱いていたこと』」
「警戒心? さっきは警戒心がなかったから捕まったって言ってたよな」
「ええ。史実では、サント=ムヌーという宿駅を通過する際、王が不用意に顔を出したことで、宿駅長であるドルーエという男に正体を見破られてしまったわ。彼が抜け道を通って先回りし、ヴァレンヌの町の橋をバリケードで物理的に封鎖したからこそ、逃亡劇は失敗という結果を迎えたのよ」
青の整いすぎた顔立ちが、歴史の矛盾を紐解くための理知的な演算によって微かに引き締まる。
「でも、この世界線のルイ十六世は、なぜか道中ずっと馬車の窓を固く閉ざし、息を潜めるようにして顔を隠し通したのよ。その結果、サント=ムヌーで誰にも正体を見破られることはなかった。ドルーエという鋭い追跡者は誕生せず、当然、先回りによるバリケード封鎖という最悪の障害も発生しなかったの」
「史実のミスを、都合よく回避しやがったってことか……」
忌々しげに呟く昌幸の言葉を肯定するように小さく頷き、青は無機質な白い床に広げられた分厚いフランスの古地図を見下ろした。
「ええ。だから、歴史を本来の史実へ復元するためには、私たちが過去へ赴き、意図的に引き起こさなければならない出来事が二つあるわ」
青は古地図から視線を上げ、一切の感情を交えない声で端的に告げた。
「一つ目は、馬車の進行を物理的に遅延させること。そして二つ目は、サント=ムヌーの宿駅で国王の正体を確実に露見させることよ」
「なるほどな。要するに、俺たちがタイムスリップして、まず第一合流地点の手前で馬車が遅れるように工作する。そのあと、サント=ムヌーの宿駅で王様が顔を出すように仕向ければいいってことだろ。なら、馬車の工作を終えたあとに、急いでその宿駅まで向かえばいいんじゃないか?」
「本当に安直ね、稗田くん」
青は、昌幸の希望的観測を孕んだ言葉を無慈悲に遮った。その切れ長の瞳には、初歩的な数式を間違えた生徒を諭すような、呆れの色がはっきりと浮かんでいた。
「私たちが使っているこのふざけたタイムマシンには、活動限界という厳格な時間制限が存在することを忘れたの? 最初の跳躍でも、あの制限時間にどれだけ追い詰められたか思い出してみなさい」
青の鋭い指摘に、昌幸は口ごもった。蒸し暑い山林の中、刻一刻と迫るタイムリミットと明智軍の気配に急かされながら、泥まみれになって道なき天王山を駆け上がった記憶が、生々しい悪寒となって背筋をなぞる。
青は白魚のような指先で、手元の分厚い地図上に描かれた二つの地点をトントンと叩いた。
「この地図の縮尺をよく見て。馬車の工作を行うべきポン=ド=ソム=ヴェールの手前の地点から、次に介入しなければならないサント=ムヌーの宿駅までは、物理的に大きく距離が離れているわ」
「距離が離れてるって、具体的にどれくらいなんだよ」
「当時の度量衡や、山や森を迂回する曲がりくねった街道の構造を計算に入れても、優に数十キロは離れているわ。現代の舗装されたアスファルトの道を自動車で走るなら、一時間もかからない距離かもしれない。けれど、私たちがこれから向かうのは、二百年以上も前、十八世紀のフランスよ」
青の言葉が、重い鉛のような現実となって昌幸の胃の腑に落ちていく。
「……っ」
昌幸は思わず自身の足元を見た。現代の便利な移動手段など何も持たない、ただの日本の高校生である彼らが、街灯すらまともになく、馬車の轍で深くえぐられた未舗装の悪路を移動しなければならないのだ。
「現地で馬を調達するとか、通りすがりの馬車をヒッチハイクするとか……」
「無意味な仮定はやめなさい。言葉もろくに通じない、身元も不明な東洋人の子供二人が、どうやって当時のフランスの田舎町で都合よく馬を手に入れるというの? 革命の熱気と疑心暗鬼が渦巻く地方の村々で、怪しい余所者に無条件で協力してくれる人間なんてそう簡単には見つからないわ。仮に奇跡的に移動手段を確保できたとしても、交渉や手配に費やす時間は、私たちの命綱であるタイムマシンの制限時間を無慈悲に削っていくことになるのよ」
青の理路整然とした反論に、昌幸はぐうの音も出なかった。
歩けば何時間も、あるいは半日以上もかかる距離。馬を確実に手に入れる手段もない。しかも、相手は一国の国王一家を乗せて走り続ける馬車である。それを先回りして工作し、さらに数十キロも離れた先の宿駅へと移動して、再び彼らを待ち構える罠を張る。そんな神業のような立ち回りを、わずか数時間しかない活動限界内に、自らの足だけでこなせるわけがない。
「つまり……」
昌幸は、自分たちがぶつかった絶望的な壁の高さを測るように、重苦しい声でゆっくりと呟いた。
「俺たち二人だけで、制限時間内にその長距離を自力で移動することは、絶対に不可能ってことか」
「……ええ。一回の跳躍の中で、離れた二つの地点に干渉しなければならない。でも、制限時間内にその長距離を移動するための現実的な手段が何一つないのよ」
常に理路整然と最適な解を導き出してきた青が、珍しく言葉を濁した。彼女の切れ長の瞳が、かすかな焦燥を帯びて手元の資料と古地図の間をさまよっている。
一回のタイムスリップという前提条件の中で、限られた時間と物理的な距離の壁を越える。その矛盾したパズルを前に、完璧な司令塔の思考すら行き詰まりを見せていた。
昌幸もまた、腕を組んで床を睨みつけた。
一度の跳躍で与えられる時間は限られている。一回の跳躍で数十キロ離れた二箇所に行くことは、どう考えても物理的に不可能だ。
……一回で?
ふと、部屋の中央に鎮座するタイムマシンに視線が向く。
美しい数式のような正解がないのなら、ゲームのルールの裏をかくような盤外戦術に頼るしかない。彼は必死に思考を巡らせた。
このタイムマシンのルール。歴史を修正しないと出口は開かない。制限時間が来れば強制的に帰還させられる。
ならば。
「……なぁ、西園寺。一回のタイムスリップで二つの地点に干渉できないんだったら、答えは単純なんじゃないか?」
昌幸の唐突な問いかけに、青は真意を測りかねるように怪訝な顔をした。
「タイムスリップを、二回行えばいいんだよ」
「二回、ですって……?」
青の端正な顔立ちに、わずかに驚きの色が混じる。それは彼女の完璧な思考回路には存在しなかった、あまりにも乱暴な選択肢だった。
「そんなの不可能に決まっているでしょう。この機械は、一度過去へ飛んだら、制限時間が来れば強制的にこの部屋に引き戻される仕様よ。歴史を修正しない限り、クリア扱いにはならない。修正のプロセスが完了していない中途半端な状態で、二回目のジャンプなんてできる保証がどこにあるの」
「保証なんてどこにもない。ただの俺の思いつきだ」
昌幸は自嘲気味に笑い、部屋の中央のタイムマシンを指差した。
「俺たちが知っているのは、『歴史を修正すれば出口が開く』ということと、『活動限界が来れば強制送還される』というルールだけだ。だが、この白い部屋にいる間は、タイムマシンのタイマーは進まないはずだろ?」
昌幸は言葉を区切り、真剣な眼差しで青を見つめ返した。
「もし、過去での活動限界が来る前に、俺たちの意志で自発的にこの白い部屋へ一度戻ってきたとしたら、どうなる? ミッションはまだ途中だから、当然出口の扉は開かない。でも、俺たちが現代に戻ってきた時点で過去でのタイマーはストップして、再び別の時間と場所へ向けて、二回目の跳躍ができるんじゃないか?」
青の瞳が、限界まで見開かれた。
それは、確実性を重んじる彼女にとっては到底受け入れがたい、あまりにも危険な賭けだった。歴史の修正プロセスが完了していない状態で、自らこの密室に帰還する。もし昌幸の仮説が外れ、システムが再稼働しなかったらどうなるのか。
「……もし自発的に帰還して、二度目の跳躍ができなかったらどうなるか、分かっているの? 私たちは馬車を遅らせただけの未完成な歴史を抱えたまま、この部屋に取り残される。タイムマシンが再稼働せず過去に戻れなくなれば、永遠に出口の扉は開かなくなるわ」
青は震えるような声で、その恐ろしいリスクを口にした。
「ああ、その通りだ」
昌幸は特大の溜息とともに、重い肩をすくめた。
「でも、他に方法があるのか? 物理的な距離と時間の制約を乗り越えるには、この不確実なルールの隙間を突くしかない。確証のない二回目の跳躍にすべてを懸ける。それが、俺たちが今取り得る唯一の選択だろ」
口の中には微かに鉄の味が広がっていた。永遠の幽閉という恐怖が胃の腑を直接かき回すように暴れ回っている。だが、ここで立ち止まっていても事態は一ミリも好転しない。現状の物理的制約を打破するには、未知の領域へ踏み込むしかなかった。
昌幸の提示したあまりにも泥臭く、しかし唯一の活路と言えるその提案を前に、青はしばらくの間、沈黙した。彼女の中で、完璧な理屈と生存への渇望が激しくぶつかり合っているのが分かった。
やがて、彼女は深く息を吸い込み、ゆっくりと目を開けた。そこにはもう、一切の迷いはなかった。
「……狂っているわ。でも、あなたのその無謀な発想に乗る以外に、私たちがこの歴史を修正する道はないようね」
青は小さく、だが確かな意思を持って頷いた。
決して成功の保証はない。しかし、この狂った密室から生きて脱出するため、二人は退路を断ち、苦渋の決断としてこの未曾有の「二回跳躍プラン」を受け入れたのだった。




