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歴史を修正しないと出られない部屋  作者: 久能のの
ヴァレンヌに散る白百合の夢

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17/32

1話

 視界が暴力的なまでに白く染まるのには、もう慣れてしまっていた。

 いや、決して慣れたくなどなかったが、否応なしに細胞の一つ一つがその異常な感覚を記憶してしまっていたのだ。

 まぶたの裏側まで容赦なく入り込んでくる、冷たく人工的な光。匂いも、音も、空気の自然な流れすらも完全に削ぎ落とされた、果てのない無機質な空間。上下左右の境界線すら曖昧になる、出口の扉が一つも存在しない完璧な密室。


「……またかよ、勘弁してくれ」


 稗田昌幸は、鉛のように重くのしかかる身体を無理やり起こしながら、ひどく掠れた声をこぼした。極度に乾燥した喉から絞り出されたその呟きは、どこにも吸収されることなく、見えない壁にぶつかって虚しくエコーし、不気味な反響音となって自身の耳に返ってくる。


 三度目だ。

 前回の箱館戦争という血みどろの特異点から生還し、ようやく見慣れた学校の天井と平穏な日常を取り戻したと思っていたのも束の間だった。容赦なく繰り返される不条理なゲームの強制参加に、昌幸は特大の溜息を吐き出し、乱暴に自身の頭を掻きむしった。「どうして俺ばかりがこんな目に」という辟易とした思いが、ドッと押し寄せる疲労感とともに全身を駆け巡る。


 だが、ただ理不尽な状況を呪い、絶望に打ちひしがれているだけではない自分がいることにも、昌幸は薄々気がついていた。

 胸の奥底、心臓のすぐ裏側あたりに、微かな、しかし確かな熱を帯びた感情が燻っているのだ。

 あの五稜郭の暗闇の中で、圧倒的な歴史の重圧に抗い、燃え盛る炎から火薬庫を守り抜いた。何万という人間の運命を分ける歴史の分岐点に直接干渉し、本来あるべき正しい世界をこの手で取り戻したという、圧倒的なまでの達成感。平和で安全で、しかしどこまでも退屈で無味乾燥な現代の学校生活では決して味わうことのできない、強烈な生の充実。

 自分たちの知恵と行動があれば、どれほど巨大な歴史のうねりであっても、正しく軌道修正できるのではないか。

 そんな静かな高揚感に、自分がほんの少しだけ魅了され始めているという事実を、昌幸は完全には否定できなかった。


 とはいえ、それを顔に出すような間抜けな真似はしない。昌幸は気怠げな表情を作り、部屋の中央に異様な存在感を放って鎮座する、昔のアニメの小道具のようなチープなタイムマシンを胡乱な目つきで睨みつけた。

 ふと、傍らで衣擦れの音が微かに空気を震わせた。


「……嘆いている暇はないわよ、稗田くん」


 すぐ隣では、西園寺青がゆっくりと身を起こしているところだった。陶器のように滑らかで白い肌にかかる、腰まで届く艶やかな黒髪が、彼女の動きに合わせてさらりと美しく揺れる。

 彼女は自身の置かれた不条理な状況にパニックを起こすこともなければ、絶望して声を荒らげることもない。乱れた制服のプリーツスカートの皺を細い指先で軽く払い、すっくと立ち上がった。その整いすぎた横顔には、恐怖も焦燥も見当たらない。あるのは、眼前に立ちはだかる新たなパズルをどのように解き明かすかという、理知的な演算の光だけだった。

 彼女の切れ長の瞳が、無機質な白い床に無造作に落ちていた一冊の本に向けられる。

 現状の歴史を確認し、この理不尽なゲームのスタートラインに立つための唯一のツール。

 青は足音すら立てずに静かに歩み寄ると、それを拾い上げた。


 表紙に記されていたのは、これまでの『日本史』ではなく、『詳説 世界史』の文字だった。


「今度は世界史かよ。日本の歴史の次は、世界の歴史まで修正させようってのか」


 昌幸のぼやきを意に介する様子もなく、青は床に座り込み、日常のささいな作業をこなすかのような滑らかな手つきで、その分厚い教科書のページを開いた。パラパラと紙が擦れる乾いた音だけが、無音の空間に響き渡る。


「手順はもうわかっているわね。これまで通り、現代のページから過去へ遡って史実とのズレを探すわよ」


 青の隙のない声に促され、昌幸も特大の溜息を飲み込んで彼女の隣に腰を下ろした。二人は、現代の世界情勢が記された最新のページから精査を始める。

 だが、その視線はすぐに、ある国の記述に釘付けになった。


「……どうやら、今回の舞台はヨーロッパのようね」


 青の白魚のような指がぴたりと止まった先。そこには現代のヨーロッパ地図が描かれていたが、見慣れたはずのフランスの国土に記されていたのは、「フランス共和国」という国名ではなかった。


「フランス……王国?」


 昌幸は思わず訝しげな声を漏らした。

 記述を読み進めると、驚くべきことに、現在のフランスはブルボン朝が統治を続ける君主国であると記されている。表面上はイギリスや日本のような立憲君主制の形態をとっていると書かれているものの、その実態は大きく異なっていた。強力な特権を持つ貴族階級と厳格な身分制度が現代に至るまで色濃く温存されており、市民の権利が厳しく制限された極めて権威主義的な国家体制が敷かれているというのだ。


「王様と貴族が現代でもふんぞり返ってるってことか。タイムスリップしたわけでもないのに、まるで中世の歴史書を読まされてる気分だ……」

「ええ。政治体制が根本から変わっているわ。これほど大規模な影響が現代まで続いているということは、歴史の根幹を揺るがすような巨大な特異点が過去に存在しているはずよ」


 青は氷のように冷ややかな声で事実を受け止め、さらにページを過去へと遡っていく。二十世紀から十九世紀へ。活字の海を泳ぐようにページがめくられていく中、昌幸の目に、ある文化史のページが飛び込んできた。

 日本史よりも世界史を得意とし、特に芸術史や文化史に深い造詣を持つ昌幸にとって、そのページは政治史の記述以上に強烈な違和感を放っていたのである。


「待ってくれ、西園寺。この十九世紀の美術のページ……何かおかしいぞ」


 昌幸が青の腕を軽く叩いて手を止める。


「おかしいって、何が?」

「絵画だよ。本来なら、この時代には市民革命の熱気を伝えるような、民衆の力強さや社会からの解放を象徴する名画がたくさん生まれているはずなんだ。力強く旗を掲げる女性や、立ち上がる市民の姿を描いたようなやつがさ。でも、ここに載っている図版は……」


 昌幸は教科書の図版を指差した。そこに並んでいたのは、見慣れない王権を過剰に賛美する壮麗な宮廷画や、王族の権威を示すためだけの古めかしく保守的な肖像画ばかりだった。民衆の自由や権利を謳い、社会への反逆や感情の爆発を表現するような作品は、歴史から完全に抹消されている。


「文化や芸術ってのは、その時代の社会の空気を一番色濃く反映する鏡みたいなもんだ。市民の権利を主張するような表現が根こそぎ消え去って、権力者に媚びるような絵ばかりが残ってるってことは……市民たちが声を上げる機会そのものが、歴史のどこかで完全に叩き潰されて、奪われたってことじゃないか?」


 昌幸の鋭い指摘に、青の切れ長の瞳が僅かに見開かれた。


「なるほど。あなたのその無駄に偏った知識も、たまには役に立つものね」


 青は珍しく昌幸の推察を素直に肯定すると、そこからさらに遡るように、十八世紀末の政治史のページへと一気に指を滑らせた。

 市民の権利が芽生え、絶対王政が打ち倒されたはずの、あの巨大な歴史の転換点。そこに記されていたのは、あまりにも凄惨で、絶望的な事実だった。


「……あったわ。ここが歴史の分岐点、改変の全貌よ」


 青の紡ぐ声は、無機質な部屋の空気をさらに冷たく凍らせるようだった。

 昌幸が息を呑んで活字を追うと、そこには、十八世紀末に勃発した「フランス革命」が、外国勢力の大規模な軍事介入を受け、完全に武力で鎮圧されたと記されていた。市民の反乱は無残に粉砕され、革命指導者たちはことごとく処刑され、絶対王政の存続が決定づけられている。


 自由と平等を求めた人々の願いは外国の軍靴によって容赦なく踏みにじられ、その結果として、貴族階級が支配する現代の「フランス王国」へと歴史が大きく歪められてしまったのだ。

 フランス革命が武力によって完全に鎮圧され、絶対王政が存続しているという、あまりにも巨大な歴史の改変。その絶望的な事実を前にしても、西園寺青の眼差しが揺らぐことはなかった。


「全体像は掴めたわ。次は、この巨大な改変を引き起こした根本的な原因……歴史の『特異点』を特定する必要があるわね。稗田くん、資料を探してくれるかしら」


 青の淀みない指示に、昌幸は重い溜息を一つ吐き出した。


「やれやれ。またあのタンスの出番かよ」


 ぼやきながらも、昌幸はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅にぽつんと置かれた古びた木製のタンスへと歩み寄った。

 この一見何の変哲もないレトロな家具は、引き出しを開ける者の深層心理にある願望を読み取り、具現化して吐き出すという厄介な性質を持つ。下手に雑念が混じると、前々回のようにとんでもない代物を吐き出しかねないことを、昌幸は身をもって知っていた。


 昌幸はタンスの錆びついた取っ手に手を掛ける前に小さく深呼吸をし、余計な考えを頭から締め出した。

 頭の中に思い描くのは、ただ一つ。十八世紀末、フランス革命期における詳細な歴史資料。革命の推移が克明に記された、ありとあらゆる記録だ。一切の不純な思考や自身の煩悩を締め出し、純粋な情報への渇望だけを念じながら、昌幸は慎重に引き出しを手前へと引いた。

 ギィィと金属の軋む音と、ゴトゴトという重たい木擦れの音が無機質な空間に響く。引き出しが開くと同時に、無臭だったはずの白い部屋に、古い羊皮紙とインクの匂い、そして微かな埃の匂いがふわりと立ち込めた。

 引き出しの中には、色褪せた分厚い革張りの歴史書や、当時の公文書の束、細かい活字がびっしりと印刷された専門書が所狭しと詰め込まれていた。昌幸はそれらの資料を両腕いっぱいに抱え上げると、真っ白な床の上へとドサリと広げた。


「さあ、ここからは文字とのにらめっこだ。世界史の範囲なら、俺も多少は役に立てるだろ」

「ええ。この資料の山から、手分けして特異点の全貌を洗い出すわよ」


 青は滑らかな所作で床に座り直し、広げられた資料の山へと手を伸ばした。

 そこから、終わりが見えない文字との格闘が始まった。時計のない密室では、太陽の傾きも感じられず、時間の経過すら曖昧になる。紙が擦れる乾いた音と、二人の微かな息遣いだけが部屋の空気を震わせていた。

 昌幸も資料を手に取り、不慣れな単語の羅列を必死に追うが、すぐに目が霞んでくる。一方の青は、まるで精密機械のような凄まじい集中力を保ち、圧倒的な歴史知識と氷のような分析力をフル稼働させて、膨大な活字の海から歴史の綻びを洗い出していく。


 どれほどの時間が過ぎた頃だろうか。一定のリズムでページをめくっていた青の白魚のような指が、ある一冊の古びた記録書の上でぴたりと止まった。


「……見つけたわ」


 果てのない静寂を切り裂いた彼女の声には、確信に満ちた静かな響きがあった。昌幸は弾かれたように手元の資料から顔を上げ、彼女を見た。


「特異点が分かったのか?」

「ええ。フランス革命という巨大な歴史のうねりを根底から狂わせた、決定的な分岐点よ」


 青は手元にあった記録書から顔を上げ、切れ長の瞳で昌幸を真っ直ぐに見据えた。


「一七九一年に起きた、『ヴァレンヌ事件』。ここが、すべての歪みの起点になっているわ」


 彼女の薄い桜色の唇から紡ぎ出されたその単語が、冷たい空気の中に重く溶け込んでいった。


「ヴァレンヌ事件……? 世界史の授業で名前くらいは聞いたことがあるぞ。確か、ルイ十六世とマリー・アントワネットがパリから逃げ出そうとして、途中で見つかって捕まったっていう事件だろ」


 昌幸の微かな記憶を辿るような問いかけに対し、青は古びた記録書から視線を外し、静かに、そして重々しく頷いた。


「ええ、その通りよ。史実におけるその逃亡劇は、結果として無惨な失敗に終わるはずだったわ。けれど……」


 青はそこで一度言葉を切り、床に広げられた膨大な資料の山へと鋭利な視線を落とした。その瞳の奥には、歴史の巨大なうねりが無残にねじ曲げられた事実に対する、静かな戦慄が宿っていた。


「この改変された世界線では、彼らの逃亡劇は完璧に成功してしまっているのよ」


 その言葉に、昌幸は息を呑んだ。一国の王と王妃が、市民を捨てて逃げおおせたという事実。それがその後の歴史にどれほどの絶望的な影響を与えるか、想像するだけでも背筋が粟立つ思いがした。


「ここにある資料を総合すると、逃亡成功がもたらした直接的な影響が明確に浮かび上がってくるわ」


 青は白魚のような指先で、変色した羊皮紙の束を次々と指し示しながら、よどみない分析を紡ぎ出し始めた。


「まず、国王一家は追っ手の追及を完全に振り切り、無事に国境付近の安全圏へと到達を果たしたわ」

「国境付近の安全圏……」

「そして、これが決定打となった。国王が出発する前にパリに残していった『国民議会の決定を無効とする宣言』が、彼らの安全確保と同時に公式に発布されたのよ」


 青の紡ぐ言葉が、無機質な白い部屋の空気をさらに重く圧迫していく。


「王が自らの口で革命を否定した。これによって、市民たちが血を流して作り上げた革命政府は、正当な国政を担う組織としての正統性を完全に失い、単なる『不当な反乱軍』として定義されてしまったの」


 昌幸は言葉を失った。市民の権利を求める気高き革命が、一瞬にして国家に対する反逆行為へと貶められてしまったのだ。


「それだけではないわ」


 青はさらに絶望的な事実を畳みかける。


「国王一家が安全圏に逃れたことで、ヨーロッパ全体の力関係が一変したのよ」

「……どういうことだ?」

「マリー・アントワネットの母国であるオーストリアや、隣国のプロイセンにとって、これまで『フランスの王家が人質に取られている』という事実が、軍事行動を起こす上での最大の枷になっていたわ。しかし、彼らが無事に国境へ逃れたことで、その足枷が完全に外れたのよ」


 青の視線が、刃のように鋭く研ぎ澄まされる。


「彼らは、正規のフランス王家からの救援要請という、これ以上ない完璧な大義名分を得た。そして、大規模な軍事介入を躊躇なく開始し……圧倒的な武力で、弱体化していた革命軍を完全に粉砕したのよ」


 昌幸は特大の溜息を吐き出し、乱暴に自身の頭を掻きむしった。

 だから、革命は潰されたのだ。自由と平等を求めた人々の願いは外国の圧倒的な暴力によって容赦なく踏みにじられ、その結果として、貴族階級が支配するあの歪んだ「フランス王国」が現代まで続くことになってしまった。


「結論は出たわね」


 青は資料からゆっくりと顔を上げ、部屋の中央に鎮座するタイムマシンへと、揺るぎない決意を込めた視線を向けた。


「私たちがこの理不尽な部屋から元の世界へ帰るための条件は、ただ一つ。この逃亡成功という歴史の特異点に直接介入し、史実通りに彼らの逃亡を『失敗させる』ことよ」


 彼女の隙のない宣言が、静寂の空間に鋭く響き渡った。それは、かつての血みどろの戦場とはまた異なる、国家の命運と市民の未来を天秤にかけるような、重く巨大なミッションの幕開けであった。

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