幕間2
初夏の陽光をたっぷりと反射して、路面電車がガタゴトと軽快な走行音を立てながら通り過ぎていく。
西園寺青は、停留所「五稜郭公園前」のホームに一人、静かに降り立った。肌を撫でる風には、どこか北の大地特有の、清涼で透き通った冷たさが微かに混じっている。彼女の陶器のように白い肌に影を落とす、長く艶やかな黒髪が、その爽やかな海風に煽られてふわりと美しく舞い上がった。
彼女の視線の先には、絵の具を溶かしたように青く澄み渡った空と、その下で平和な休日の空気を満喫する人々の姿があった。行き交う観光客たちは皆、穏やかな笑顔を浮かべ、手に持ったスマートフォンやカメラで思い思いに風景を切り取っている。街路樹の緑は生命力に溢れ、風に揺れる葉擦れの音が心地よい背景音のように街を包み込んでいた。
手元のスマートフォンを開き、あらかじめ調べておいた観光サイトのモデルコースを確認する。画面に表示された現在地と目的地のマップを見比べながら、青はゆっくりとした足取りで歩みを進め始めた。
すれ違う人々は、誰も彼女が抱えている数奇な運命など知る由もない。平和な現代の女子高生として、休日の小旅行を楽しんでいるようにしか見えないだろう。しかし、青の胸の奥には、こののどかな風景とは対極にある、凄惨で生々しい記憶が確かな質量を持って渦巻いていた。
つい数日前のことだ。出口のない無機質な「白い部屋」から抜け出すべく、タイムマシンを使って過去へと跳躍し、彼女は歴史の特異点に立っていた。血と泥、そして硝煙の匂いがむせ返るように立ち込めていた、明治二年五月十一日未明の五稜郭。凍てつくような夜の冷気、燃え盛る炎の熱波、そして、歴史を狂わせまいと必死に駆け回ったあの極限状態の記憶が、今も肌の表面に生々しい感覚として残っている。
しかし、今彼女の頬を撫でるのは、殺伐とした夜風ではなく、ただ優しく穏やかな現代の空気だけだ。砲声が轟き、いつ誰が命を落としてもおかしくない極限状態の戦場が、長い年月を経て、こうしてのどかな街として息づいている。その途方もない時間の流れと、自分たちがあの特異点で命懸けで守り抜いた歴史の延長線上にこの平和が存在しているという事実に、青の胸の奥には静かで深い感慨が満ちていった。
交差点を渡り、特別史跡五稜郭跡へと続く道を歩く。郭内へと足を踏み入れると、星形の城郭を縁取る深い水堀が、太陽の光を反射してきらきらと輝いていた。抜けるような青空の下、観光客たちが散策を楽しみ、笑い声が初夏の穏やかな風に乗って聞こえてくる。
観光サイトのモデルコースに沿って歩みを進めるうち、青はひっそりと佇む「土饅頭」の前を通りかかった。それは、箱館戦争という激動の時代に巻き込まれ、名もなきまま命を落としていった兵士たちが眠る場所である。
青は静かに足を止め、姿勢を正すと、ゆっくりと目を閉じて深い黙祷を捧げた。名もなき彼ら一人一人にも、愛する家族がいて、帰るべき故郷があったはずだ。時代の巨大な奔流に飲み込まれ、北の大地で散っていった命。彼らが流した夥しい血の上に、今のこの平和な日常が成り立っているのだという事実が、胸の奥を静かに、しかし強く締め付ける。
さらに奥へと進むと、堂々たる姿で復元された「箱館奉行所」が見えてきた。広大な建物の中に足を踏み入れると、真新しい木の香りが漂い、当時の精緻な建築様式が忠実に再現されている。
青は、かつてこの場所で自分が誰よりも敬愛する推しが、陸軍奉行並や裁判局頭取としての重責を担い、軍議や日々の政務に追われていた日々をありありと思い描いた。彼が歩いたであろう長い廊下、彼が鋭い眼差しで睨みつけたであろう中庭の景色。それを、百数十年の時を超えて、現代の自分がこうして辿っているという事実に、不思議な感慨がこみ上げる。
新選組の副長として剣を振るうだけでなく、数千の軍勢を指揮し、治安維持や司法権までも掌握していた土方歳三。彼の「誠」の精神は、ただ敵を斬ることだけでなく、この箱館という土地の秩序を守ることにも向けられていたのだ。
同時に、自分たちが特異点を修正し、彼を降伏という生き恥から救い出して「正しい歴史」の死地へと送り出したことの、途方もない重みと責任が、冷たい質量を持って彼女の細い肩にのしかかってくるのだった。一人静かな奉行所の片隅で、青はその重圧から逃げることなく、己のなすべきことを成し遂げたのだと、真っ直ぐに事実と向き合い続けていた。
奉行所跡の散策を終えた青は、隣接する五稜郭タワーへと向かった。
滑らかに上昇するエレベーターで展望フロアに降り立つと、そこには巨大な星形の城郭がジオラマのように眼下に広がっていた。完璧な幾何学模様を描く水堀と、その内側に広がる豊かな緑。平和で穏やかな現代の風景を上空から俯瞰しながらも、彼女の胸中には、あの特異点で駆け抜けた過酷な時間の記憶が静かに蘇っていた。
フロアの順路を歩み進めた青は、アトリウムの一角でぴたりと足を止めた。そこには、馬上から降り立った姿を象った土方歳三のブロンズ像が設置されていた。
洋装に身を包み、腰の刀に手を添えて鋭く前を見据えるその凛々しい立ち姿は、彼女が焦がれ続けた英雄の威厳をそのまま写し取ったかのようであった。窓から差し込む自然光が、ブロンズの冷たい表面に陰影を作り出し、今にも彼が動き出して低い声で号令を発しそうなほどの圧倒的な実在感を放っている。
青は静かに像を見上げ、あの出口のない「白い部屋」での出来事に思いを馳せた。
歴史の教科書に記されていた『降伏し、新政府の役人として警視庁に勤務。不遇の内に孤独死した』という改変された歴史を初めて目にした時、彼女の心はどれほど激しく掻き乱されたことか。
孤高の武人としての誇りを無残に奪われた結末への強烈な嫌悪感。それと同時に胸の奥底から湧き上がってしまった、「無様であっても、彼が激動の時代を生き延び、天寿を全うした」という事実に対する、ファンとしてのひどく純粋で利己的な喜び。相反する二つの感情が荒れ狂う嵐となって、普段は氷のように冷静な彼女の理性を、根本から激しく掻き乱した。
あの時、自分の腕を引き剥がし、真っ直ぐな瞳で突きつけられた言葉が、今も耳の奥に鮮明に残っている。
『信念のために最後まで剣を振るうのが、あの人の生き様だったんじゃないのか。誇りを奪って無理やり生き長らえさせることが、お前の愛した『鬼の副長』に対する、本当の誠なのかよ。』
それは、彼女と共にあの部屋に閉じ込められた、巻き込まれ体質の男子生徒からの、残酷なほど真っ直ぐな問いかけだった。あの言葉がなければ、自分は一時の感情に流され、愛する英雄の生き様を永遠に歪めたままにしてしまっていたかもしれない。
彼女は自らのエゴを分厚い氷の下に封じ込めた。愛する推しに引導を渡すという、身を引き裂かれるような覚悟をもって、彼の命を確実に奪う「正しい戦死の歴史」への修正を決断したのだ。暗闇の五稜郭で迫り来る炎を食い止め、彼を死地へと送り出した己の決意を、青は静かに振り返る。
眼前に立つブロンズ像の揺るぎない眼差しを見つめ返していると、彼女の胸の内にあった一抹の痛みは、やがて澄み切った確信へと変わっていった。
あの夜、彼は己の美学を曲げることなく、最後の最後まで「誠」の信念を貫き通した。そして、武士としての誇りを胸に一本木関門で凄絶に散っていったのだ。自分が命懸けで守り抜いたのは、他でもない彼のその気高き誇りであった。
自分の選択は、決して間違っていなかった。
凛としたブロンズ像を前に、青は深い納得と共に小さく息を吐き出した。彼女の陶器のように白い頬には、あらゆる迷いを完全に断ち切った、静かで晴れやかな光が宿っていた。
五稜郭エリアを後にした青は、かつて激戦の地であった一本木関門付近へと足を向けた。
現代の若松町は、車が行き交い、ビルが立ち並ぶ見慣れた市街地となっている。しかし、その一角にひっそりと佇む「土方歳三最後の地碑」の前にたどり着くと、青は周囲の喧騒から完全に切り離されたように歩みを止めた。小さな花壇に囲まれたその石碑には、誰かが手向けた新鮮な花が飾られている。
周囲を流れる穏やかな現代の空気の中にありながらも、青の胸の奥には、彼が己の信念のために最期まで剣を振るうべく歩み去っていった光景が、確かな熱を帯びて蘇っていた。暗闇の奥、新政府軍との最終決戦が迫る自らの持ち場へと、一切の迷いのない力強い足取りで向かっていったあの広く孤独な背中。
青はゆっくりと目を閉じ、胸の前で深く手を合わせた。
幕府への忠義と自らの美学を、命が尽きる最後の瞬間まで貫き通した彼の気高き魂へ向けて、音のない祈りを捧げる。
彼が生き恥を晒すことなく、彼らしく誇り高く散るという本来の歴史の奔流を、自分たちの手で無事に守り抜いたこと。それは、自らの意思で愛する英雄を死地へと送り出した青なりの、静かで切実な報告であった。日常の喧騒から切り離されたようなその場所で、青は己の敬愛する英雄への慰霊の時間をただ静かに過ごした。
一本木関門跡での静かな祈りと報告を終えた青は、帰路につく前に、函館駅周辺の土産物屋へと足を踏み入れた。
明るい蛍光灯に照らされた店内には、色鮮やかなパッケージの函館名菓や海産物、そして観光地特有のどこか浮かれた新選組グッズが所狭しと並んでいる。浅葱色の羽織を模した可愛らしいキーホルダーや、デフォルメされた隊士のキャラクター商品。数日前にあの血と泥にまみれた過酷な戦場で、本物の死線と熱を肌で感じてきた青にとって、それらの品々はあまりにも平和で、微笑ましい現代の幻影のように見えた。
陳列棚の間をゆっくりと歩きながら、ふと彼女の視線がある一つのコーナーで止まった。
そこにあったのは、新選組の『局中法度』がびっしりと無骨な筆文字でプリントされた、分厚くて重たい陶器の湯呑みだった。「士道ニ背キ間敷事」から始まる厳格な掟がこれでもかと表面に刻まれたそれは、歴史オタクの青にとっては惹かれる品だが、一般の高校生にとっては暑苦しいことこの上ない代物だろう。手に取ってみると、見た目通りのずっしりとした重量感が手のひらに伝わってきた。
その無骨な湯呑みを見た瞬間、青の脳裏に、この平和な空間にはおよそ似つかわしくない一人の男子高校生の顔が唐突に浮かび上がった。
あの理不尽で真っ白な密室から共に過去へ跳躍し、文句や皮肉を絶え間なく口にしながらも、冷たい泥水にまみれて重い水桶や莚を運び続けた巻き込まれ体質の少年。不測の事態においても決して逃げ出さず、彼女の無茶な指示を泥臭く、しかし確実な手際でこなしてみせた、手のかかる同級生――稗田昌幸の、疲労困憊で泥だらけになった顔だ。
彼がいなければ、自分はあの大火災を食い止めることはできなかった。彼がいなければ、自分は己のエゴに負けて歴史を歪めていた。決して素直に称賛の言葉を口にするつもりはないが、彼のその泥臭い執念と、危機的状況下における異様なまでの作業能力には、確かな信頼を置いている自分がいる。
「……あいつには、これくらいがちょうどいいかしら」
文句を言いながらも結局は自身の役割を全うし、歴史の修正に最後まで付き合ってくれた彼には、この重くて実用的な、けれど歴史オタクからの嫌がらせのような湯呑みがよく似合う。そう思うと、青の薄い桜色の唇から、無意識のうちにクスリと小さな吐息がこぼれた。
自分一人だけで完結するはずだった神聖な休日の聖地巡礼。その最中に、よりにもよってあの卑屈でやれやれとため息ばかりついている少年の顔を思い出し、あろうことか彼への土産を選んでいる自分がいる。その事実がどうにもおかしくて、彼女の陶器のように滑らかな頬は、普段の完璧な氷の仮面からは到底想像もつかない、ひどく柔らかで年相応の自然な笑みに彩られていた。
平和な現代の光に包まれながら、青はその無骨な湯呑みをしっかりと手に取ってレジへと向かう。自らの手で守り抜いた誇り高き歴史の余韻と、手のかかる相棒へ向けた少しだけ重みのある手荷物を抱え、彼女はいつもの騒がしくも平穏な日常へと続く帰路についた。




