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歴史を修正しないと出られない部屋  作者: 久能のの
五稜郭に落ちる誠の火

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8話

 五稜郭の火薬庫が無事に守り抜かれたことで、旧幕府軍の継戦能力は辛うじて維持された。それはつまり、土方歳三が時代の流れに屈して降伏という不名誉な生き恥を選ぶことなく、己の信じる武士としての信念のままに、最後の最後まで剣を振るって戦い抜くことができるという、何よりの確かな証であった。


「本当に、これで良かったんだよな。西園寺」


 昌幸が、確認するように、あるいは自分自身に言い聞かせるように静かに問いかけると、青は小さく、しかし決して揺らぐことのない絶対的な力強さを伴って頷いた。


「これが、彼の本当の生き様よ。時代の敗北者として生き恥を晒し、無理やり命を長らえさせるなんて、私が、そして誰よりも誇り高い彼自身が絶対に許すはずがないもの。……だから、これでいいの」


 青の紡いだ言葉には、自らの手で、この世で誰よりも愛し尊敬する無二の英雄を確実な死地へと送り出したという、心臓が引き裂かれるような悲痛な決断の代償が重く込められていた。しかし、彼女の美しい瞳にはもはや微塵の揺らぎもなく、一切の迷いや後悔を刃物で断ち切ったかのような、神々しいまでの清々しさすら漂わせていた。彼女は、その細い身にまとった浅葱色の新選組隊服の襟を両手でしっかりと正し、真っ直ぐに、一本の鋼の糸で天から吊るされているかのように背筋を伸ばした。凍てつく夜の冷風に煽られ、袖口に鮮やかに染め抜かれた白い山形のダンダラ模様が、バサリと鋭い音を立てて闇の中で翻る。

 そして彼女は、土方がすでに消え去った夜の闇の奥へ向けて、心の中で静かに、しかし万感の思いを込めて別れを告げながら、深く、そして息を呑むほどに美しい完璧な敬礼の姿勢をとった。愛する英雄に、彼が彼らしくあるための誇り高き死を迎えさせるため、自らの手で彼を死地へと送り出した彼女の、痛切なまでの深い敬意と、決して揺らぐことのない誠の心が、その無言の動作のすべてに宿っていた。


「さようなら、副長」


 誰に聞こえるわけでもない、夜風に溶けてすぐに消え去ってしまうような、ひどく細くかすかな呟き。昌幸は、そのあまりにも気高く、そして見ているこちらの胸が締め付けられるほどに痛ましい彼女の横顔から、どうしても目を逸らすことができなかった。


 火薬庫の爆発という、歴史を根底から狂わせる致命的で悪意に満ちたエラーは、彼らの命懸けの奮闘によって完全に阻止され、歴史の修正プロセスはここに無事に完了した。

 その事実を証明するかのように、不意にピピッ、ピピッと、タイムマシンの活動限界時間の到来を告げる、この時代にはあり得ない無機質で冷たい電子音が遠く離れた空間の歪みから鳴り響いた。

 その不気味な音を合図にするかのように、五稜郭の骨の髄まで凍みるような冷たい夜気も、胃の腑を直接かき回すようなむせ返る焦げた匂いも、足の裏にねっとりと張り付く泥の生々しく不快な感触も、すべてが唐突に、まるで水に溶けた絵の具のように希薄になっていく。昌幸の視界の端から、圧倒的な歴史の重みと質量を持っていたはずの景色が、無数の細かい光の粒子となってボロボロと音もなく分解され始め、瞬く間に二人の周囲の世界は、上下左右の感覚すら奪い去るような暴力的な光の渦に呑み込まれ、完全にホワイトアウトした。


 視界が真っ白に染まると同時に、三半規管を根底から乱暴に揺さぶる強烈な浮遊感と、内臓がせり上がるような強烈な吐き気が彼らを襲った。永遠にも感じられる数秒間が経過した後、その不快な感覚がフッと嘘のように消失し、やがて視界が再び確かな物質の輪郭をゆっくりと取り戻していく。


 ゆっくりと瞬きを繰り返して気がつくと、昌幸と青は、手術室の蛍光灯のような冷たくて影のない光が隅々まで満ちる、元の無機質で何もない「白い部屋」へと帰還していた。

 無機質で無音の「白い部屋」の冷酷な光の下で、昌幸はゆっくりと、まるで呪縛から解き放たれたかのように、肺の底に真っ黒に溜まっていた重たい空気を長く、長く吐き出した。五稜郭のあの肌を刺すような冷たい夜風も、鼻腔の奥にこびりついて離れなかったむせ返るような焦げた匂いも完全に消え去り、そこにあるのはただ、鼓膜をギリギリと内側から圧迫してくるような、人工的で完全な無音の静寂だけだった。気温も湿度も完全に一定に保たれたこの空間は、先ほどまでの圧倒的な生命のやり取りがあった戦場と比べると、まるで巨大な墓標の内部のように空虚に感じられた。


「……戻って、きたんだな」


 昌幸が、まだ微かに震えの残る声で呟くと、青もまた小さく、しかし確かな安堵を込めて息をつき、身にまとっていた浅葱色の羽織の袖をゆっくりと下ろした。彼女の整った美しい表情には、すでにいつもの、感情の波を一切表に出さない冷静な理知の光が完全に戻っていた。


 昌幸は、重い足を引きずるようにして足元に目を落とした。継ぎ目の一つすら見当たらない真っ白な無機質の床の上には、彼らがこの血みどろの時代へと放り出される前に広げたままにしておいた一冊の教科書、『詳説 日本史』が、まるで彼らの帰還を待ちわびていたかのようにポツンと置かれている。それが今、この理不尽で狂気に満ちた密室の脱出条件が完全に満たされたかどうかを証明する、唯一にして絶対のツールであった。


「確認しましょう、稗田くん」

「分かってる」


 昌幸は床に膝をついた。疲労で微かに震える指先で教科書に触れ、意を決してページを開く。無音の空間に紙をめくる音だけが響く中、箱館戦争のページを探り当てた。そこに視線を落とした瞬間、昌幸の胸を重く覆っていた鉛のような緊張感が、ふっと溶けて消えていくのを感じた。


「……消えてるな。あの降伏したっていう記述が」

「本当?」


 青が素早く歩み寄り、昌幸の肩越しに教科書の紙面を食い入るように覗き込む。以前このページを開いた時に青の心を激しく乱した、「降伏して新政府の役人として警視庁に勤務し、周囲から疎まれながら不遇の内に孤独死した」という記述は、跡形もなく完全に消滅していた。


 昌幸は微かに震える指先でページをなぞり、新たに書き換わった史実の黒い活字を黙読した。

 そこには、明治二年五月十一日の箱館総攻撃において、土方歳三が五稜郭を出て激戦地である一本木関門へと出撃した事実が記されている。そして乱戦の最中、崩れかける戦線を立て直そうと指揮を執り続けた末、腹部に銃弾を受けて落馬し、享年三十五歳で戦死を遂げたという。


 平和な現代の感覚からすれば、あまりにも早すぎる死だ。だが、他の最高幹部たちが最終的に降伏して生き延びた中で、彼だけが幹部クラスで唯一の戦死者となり、自らの矜持を最後まで曲げなかった。激戦の果てにその遺体が発見されることはなかったが、武士の鑑として散った壮絶な最期は後世に語り継がれ、明治八年には大鳥圭介ら生き残った同志たちの手によって函館山麓に碧血碑が建立されたと締めくくられていた。

 その短くも濃密な生涯にどれほどの鋼のような信念が詰まっていたかを、間近であの背中を見送った昌幸には痛いほどに理解できた。


「……享年、三十五歳。あんたの愛した『鬼の副長』の、立派な最期だ」


 昌幸が静かに告げると、青はゆっくりと目を閉じ、深く細く息を吸い込んだ。彼女の表情には、英雄の死を悼む悲哀よりもむしろ、深い満足感と、その生き様への絶対的な肯定の光が満ち溢れるように宿っていた。


「ええ。……最後の最後まで、自身の定めた『誠』の二文字に殉じ切った。私たちが憧れた、あの土方歳三のままだったわ」


 青の短い呟きには、愛する英雄への絶対的な信頼と、揺るぎない確かな誇りが満ちていた。歴史が改変されたまま生き延びて不遇の晩年を過ごす彼を見るくらいなら、剣と共に誇り高く散る彼であってほしかった。彼女の痛切な願いは、見事に成就したのだ。


 隣に膝をつく昌幸は、そんな彼女の憑き物が落ちたような晴れやかな横顔を、ただ黙って見つめていた。

 普段はどこまでも冷静沈着で、容赦のない毒舌と切れ味鋭い皮肉で周囲を圧倒し、誰も寄せ付けない氷の美少女からは到底想像もつかない、一人のオタクとしてのひどく純粋で、熱く不器用な感情。いつ見回りに見つかって斬り捨てられてもおかしくない敵陣のど真ん中で、自らの命を危険に晒してまで火薬庫を泥まみれになって守り抜いたのは、他でもない彼女のその純粋すぎる執念があったからだ。巻き込まれ体質で、常に逃げ腰で卑屈な自分一人だけであれば、間違いなく途中で心が完全に折れて、無様に逃げ出していたことだろう。彼女のその強すぎる思いと行動力が、捻じ曲げられた巨大な歴史の奔流を、本来の正しい形へと力ずくで押し戻したのだ。


 ふと、昌幸は自身の両手に視線を落とした。指先にはまだ、五稜郭の冷たい泥が黒くこびりついており、重い水桶を運んだ荒縄で無惨に擦り切れた皮膚が赤く腫れ上がって、微かに血を滲ませている。生々しい痛みが、確かな現実としてそこに存在していた。

 だが、どういうわけか不思議なことに、その痛みはひどく心地の良い、生を実感させるものに感じられた。

 平和で、安全で、しかしどこまでも退屈な現代の学校生活。常に誰かの顔色を窺い、根も葉もない噂話に怯え、スクールカーストの下層で目立たないように息を潜め、成績を維持するためだけに、すでに死んだ人間たちの歴史の年号を機械的に暗記するだけの日々。そんな無味乾燥で灰色な日常に比べて、つい先ほどまでその身を置いていた、血と泥と硝煙の匂いが色濃く立ち込める戦場の、なんと鮮烈で、圧倒的な実在感に満ちていたことだろうか。

 自分たちはたった今、数万の軍勢の運命を変え、この日本の歴史の根幹そのものを守り抜いたのだ。


 昌幸の胸の奥底で、先ほどまでの恐怖や疲労とは違う、静かな熱を帯びた感情がゆっくりと広がっていた。ただ理不尽な状況に巻き込まれただけの被害者だと思っていたが、俺たちはたった今、巨大な歴史のうねりに直接干渉し、本来あるべき世界を取り戻したのだ。


 この絶望的で厄介なゲームは、一歩間違えれば永遠に虚無の空間を彷徨うことになる。しかし、自らの手と知恵で運命を切り拓き、歴史のパズルを解き明かしていく過程には、現代社会の退屈な日常では決して味わえない、確かな達成感があった。

 隣を見れば、相変わらず態度が尊大で、口を開けば悪態をつく完全無欠の美少女がいる。だが、彼女の圧倒的な歴史の知識量と判断力、そして自分の無駄に器用な手先と泥臭い体力が組み合わさった時、二人は時代を超えて困難を打破できる、悪くないコンビになっていた。ただのモブキャラでしかない自分にも、こんな風に能力を活かせる場所があるのだと、不思議な充実感が湧いてくる。


 次は、一体どの時代に飛ばされるのだろうか。どんな難題が突きつけられようと、今の自分たちならきっとその謎を解き明かし、歴史を正してみせる。

 心の中に芽生えたその静かな高揚感に、昌幸は自分でも少し驚いていた。どうやら自分は、この厄介な歴史修正のゲームに、ほんの少しだけ魅了され始めているらしい。


 不意に、無音だった白い部屋の壁の一部が、かすかな駆動音とともにスライドして開き始めた。その向こうには、彼らが本来帰るべき、平穏な高校の日常の廊下が待っている。

 身にまとった新選組の隊服を脱ぎ捨て、再び普通の高校生に戻る時が来たのだ。だが、この血と泥にまみれた五稜郭の記憶と、自らの内に確かに芽生えたこの小さな達成感は、これからの日常に戻ったとしても、簡単に消えることはないだろう。

 昌幸は分厚い教科書をゆっくりと閉じ、重い身体を引きずるようにして立ち上がった。


「さあ、帰ろうぜ。西園寺」


 深い充実感に満ちた青が、いつもの凛とした、一切の隙のない顔つきで力強く頷いた。二人は並んで、開かれた光の出口へと迷いなく歩み出した。

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