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歴史を修正しないと出られない部屋  作者: 久能のの
五稜郭に落ちる誠の火

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7話

 老兵の口を塞ぐようにして暗がりへと引きずり込み、昌幸が極度の緊張で張り詰めていた肺から、ようやく熱く荒い息を細く吐き出した、まさにその直後のことだった。


 不意に、夜の静寂を鋭く切り裂くように、複数の乱れのない草鞋の足音が、暗闇の奥からこちらへ向かって急速に近づいてきたのである。

 ザッ、ザッ、という統制の取れた足音とともに、松明の赤い炎が闇の中で不気味に揺らめき、湿って重い夜の空気を物理的に押し退けるようにして、数人の屈強な人影がぬっと姿を現した。火薬庫周辺での微かな騒ぎの気配を察知し、急遽見回りに駆けつけてきた旧幕府軍の警備一団であった。


 その一団の先頭に立ち、周囲の空気を一瞬にして絶対零度まで凍りつかせるほどの、圧倒的で濃密な威圧感を放って歩み出てきた一人の男の姿に、昌幸は思わず息を呑み、全身の筋肉を硬直させた。

 月明かりと、部下の掲げる松明の赤い炎に照らし出されたその男は、他の歴戦の兵士たちとは明らかに一線を画す、鋭く研ぎ澄まされた抜き身の日本刀のような、触れれば切れるほどの危険な気配を全身に纏っていた。


 彼こそが、この旧幕府軍において総裁・榎本武揚に次ぐナンバー2の地位に君臨し、「陸軍奉行並」として実質的な野戦軍の総指揮を執る男、新選組副長・土方歳三その人であった。

 この時期の土方は、単なる前線で剣を振るう戦闘指揮官という枠に留まらず、「箱館市中取締」や「裁判局頭取」といった重職も兼任し、占領下にある箱館の治安維持および司法権までも完全に掌握していた。新政府軍の総攻撃が迫る極限状態の要塞において、軍律を何よりも絶対のものとし、それに違反する者にはいかなる理由があろうとも容赦のない裁きを下す、規律を重んじる厳正なる統治者。

 その妥協を許さない責任感と、戦場を支配する絶対的な威厳が、彼の細身の体躯から目に見えるほどの気迫となって立ち昇り、周囲の空間を完全に圧倒していた。月明かりに照らされた彼の横顔は彫りが深く、静かな怒りを孕んだ美しさを湛えている。


 土方の切れ長で底知れぬほど鋭い眼光が、焦げた匂いがむせ返るように立ち込める水浸しの地面、泥に塗れて丸められた分厚い莚、そして物陰で腰を抜かして震えている老兵の姿を瞬時に捉え、この現場で何らかの重大な異常事態が起きたことを、その恐るべき洞察力で正確に把握した。

 そして次の瞬間、その底冷えのするような鋭利な視線が、暗がりに潜んでいた昌幸と青の二人へと、真っ直ぐに、逃げ場のないほど鋭く向けられたのである。

 自らの軍の編成に所属しているはずのない、見慣れない若い男女。しかも、彼らはすでに過去の遺物となりつつある新選組の象徴、浅葱色に白い山形のダンダラ模様が染め抜かれた隊服を身に纏っているのだ。最終決戦を目前に控えた、誰もが疑心暗鬼に陥る厳戒態勢の五稜郭において、これほど不審で奇妙な存在は他にない。


 土方の整った眉間に深い皺が刻まれ、その漆黒の瞳に、明確な警戒の色と、氷のように冷たい殺気が宿った。彼が腰の刀の柄に直接手を掛けたわけではないが、その存在自体から発せられる無言の圧力は、いかなる言葉による厳しい尋問よりもはるかに重く、昌幸の心臓を物理的に鷲掴みにされたかのように締め付けた。

 もしここで、少しでも不審な動きを見せたり、言い淀んだりすれば、新政府軍の放った工作員として即座にその場で斬り捨てられる。そんな死の恐怖が、昌幸の背筋を氷の刃のようになぞり、駆け上がっていった。


 極度の緊張と恐怖に耐えきれず、昌幸が無意識の内に一歩後ずさりしそうになった、まさにその時だった。

 隣に並んで立っていた青が、静かに、しかし一切の躊躇う素振りも見せずに、すっと一歩前へと進み出たのである。

 自分が長年憧れ続け、歴史の彼方に焦がれ続けた英雄が、今、確かな体温を持った生身の人間として目の前に立っている。ほんの数分前まで、彼の運命を想い、生き長らえてほしいと願い、激しく葛藤していた青の胸中には、言葉では到底表現しきれないほどの感情の嵐が吹き荒れていたはずである。


 だが、今の彼女の凛とした佇まいに、歴史オタクとしての脆弱さや、単なるファンの少女としての甘えは微塵も存在しなかった。彼女は背筋を真っ直ぐに伸ばし、浅葱色の隊服の袖を僅かに握り締めながら、土方の放つ射抜くような鋭い視線を、一歩も退かずに正面から真っ直ぐに受け止めた。


「ご報告いたします」


 夜の冷たい空気に、青の澄んだ、そして何よりも毅然とした声が美しく響き渡った。


「先ほど、そちらの見回りの者が疲労による居眠りで手元を狂わせ、火薬樽のすぐ傍に灯を落としました。失火による爆発の危険がございましたため、我々が未然にこれを消し止め、防ぎました」


 そこには、命の危機に瀕した者の怯えも、権力者に対する媚びも一切含まれていなかった。ただ起きた事実のみを的確に、過不足なく伝える理知的な報告。それは、厳格な統治者である土方歳三という男に対し、自らの行動の正当性と事態の重大性を端的に証明するための、完璧な司令塔としての振る舞いであった。


 青の澄んだ声は、五稜郭の冷たい夜気に、不思議なほど透き通って響き渡った。

 彼女を睨みつけていた土方歳三の、極限まで張り詰めていた鋭利な眼光が、その言葉を聞いて微かに揺れる。彼は目の前の少女を、ただの不審者を見るような目つきから、西園寺青という一人の人間の本質をその魂の底まで見極めようとするかのように、その切れ長の瞳を細めて真っ直ぐに見返した。

 青の瞳には強い意思の光が宿っており、今の彼女の視線に迷いは一切なかった。己が心から敬愛する無二の英雄を、確実な死地である戦場へと自らの手で送り出す。そのあまりにも悲痛な決断を下した者だけが持つ、血を吐くような覚悟の炎が、淡い月明かりの下でもはっきりと見て取れた。

 数多の死線を潜り抜けてきた歴戦の武人であり、人間の死生観と覚悟というものを誰よりも間近で見つめ続けてきた土方は、その青のただならぬ気迫と悲壮な覚悟の奥に、言葉で並べ立てられる以上の確かな何かを確実に感じ取ったのだろう。

 周囲の空気を絶対零度に凍てつかせていた底冷えのするような強烈な殺気が、まるで春の雪解けのように、嘘のようにスッと霧散していく。

 土方の眉間に深く刻まれていた皺がふっと緩み、固く結ばれていたその口元に、どこか肩の力を抜いたような、微かな微笑みが浮かんだ。それは、平時であれば決して見せることのない、鬼の副長として恐れられる男が見せた、不器用だが確かな、心からの称賛の表情であった。


「……大儀であった。よくぞ未然に防いでくれた」


 低く、しかし地の底から響くような深い声でそれだけを短く告げると、土方は彼らの素性や目的についてこれ以上の野暮な詮索をすることなく、静かに踵を返した。

 闇夜の風に翻るその広い背中は、これからの過酷な運命と、散りゆく幕府の最期をすべて一人で背負って立つような、途方もなく大きく、そして限りなく孤独な威厳に満ちていた。彼は静かに控えていた部下たちを引き連れ、新政府軍との最終決戦が間もなく始まろうとしている自らの持ち場へと、一切の迷いのない力強い足取りで去っていく。

 遠ざかる彼らの足音が完全に夜の静寂に溶け込んで聞こえなくなるまで、昌幸と青の二人はただ無言でその場に立ち尽くし、英雄の背中を見つめ続けていた。


 新政府軍が箱館への総攻撃を開始する、まさにその運命の日である明治二年五月十一日の未明。

 昌幸と青の決死の働きによって、五稜郭の火薬庫は焼失の危機を完全に免れ、無事にそのすべてが守り抜かれた。水を含んで重くなった莚の下で、歴史を狂わせるはずだった火種は完全にその命を絶たれている。

 この莫大な火薬の温存こそが、旧幕府軍の継戦能力を最期まで繋ぎ止めるための絶対条件であった。極端な火薬不足によって戦う術を根こそぎ奪われ、戦わずして敗北を受け入れるという絶望的な事態は、ここに完全に回避されたのだ。


 それはつまり、あの誇り高き孤高の男が、自らの信じる美学をへし折ってまで、降伏という生き恥を晒す理由が、この世界から永遠に消滅したことを意味している。

 土方歳三は、己の信念を最期の瞬間まで貫き通し、圧倒的な敵を前にしても徹底抗戦を選ぶ。五稜郭を出て、自らの死地である一本木関門へと、誇り高く出撃していくのだ。

 何者かの手によって歪められていた不名誉な歴史の特異点は、今この瞬間、本来あるべき誇り高き軌道へと確実に修正されたのであった。

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