第80話 北へ
福島縣上空を通過していた時であった。
ゴトンッ――と、大きな音を立てて、機体が大きく揺れた。
さして乗り心地も良くなければ、気象状況も良いとは言えない。円筒形のキャビンに中央を突っ切る通路を挟んで2列ずつ。座席がズラリと並んでいる。豪華な旅客機――ライセンス生産された米国ダグラスDC-3旅客機は、風のうねりに機体が軋む音とエンジン音を除けば、それはそれは静かなものである。機体に付けるケチはほとんどなかった。上空の強い風は、乙女を微睡んだ意識から引き起こした。
ミエコは機内を改めて見渡した。
乗客はいない――。
エア・ガールもいないし、サービスもない。
石を投げても誰にもぶつからない。
通常の国内線でもない。
無い無い尽くしの現状に、内心ニヒルに笑ってみた所で、四角い窓から指す強い日光が瞼に焼き付く。その様が嫌で、乙女は瞼を閉じた。
今朝の今朝まで飛行機に乗ることを知らされていなかったミエコは、うんざり気味にシートにもたれ掛かった。秋本番の空の旅――と言えば気ままなブルジョアジー趣味であるが、当のミエコにはそんな気など無かった。寧ろ憂鬱が募り、アンニュイな溜め息を漏らしては窓の外を見つめていた。
青が目に染みる。
白い雲が眼下に広がり、生き物のようにうねっている。
雲があれば気流が荒れる。そう知っていたとしても、乗客は命をパイロットと機体に預けている。振り回されれば荷物が飛び、運が悪ければ落ちて死ぬのだ。ミエコが革ジャケットに手を突っ込み、何度目かの溜息をついたところで「いい加減しっかりしなさいよ」と、隣に座っていたヒノエが呆れ様に声を掛けた。
「なに? 飛行機酔いでもしたの?」
「うぅん。そうじゃないわ」
「じゃあ何よ。不満なら不満と言いなさい。――どうせ姫は聞かないだろうけど」
「そう思うなら言わないでよ」
二人揃って口角を下げているのを見て、ミエコは苦笑いを浮かべた。
「腑に落ちないことなら、山のようにあるわよ――」
乙女の懊悩は十重二十重に編まれた綾織りであった。
「あの級長が心配?」
「そりゃあね」
――中宮は羅刹の息の掛かった病院に搬送された。
無論というのは暴論であったが、人道銃は文字通り霊験灼かに、少女の命を救った。全ての臓器と主立った血管、骨すら回避して――中宮は気を失っただけで――、ほとんど外傷を残さなかった。
翌日には目が覚めたが、ここ数ヶ月の記憶がなかった。
直近で覚えているのは、ミエコに突っかかった――羅刹に出会う直前の出来事であった。つまり記憶の中のミエコは、相変わらず学校の秩序を乱す異分子で、排除されるべき対象で、中宮からすれば絶対的経済、権威、権力格差に手を出せない苦しみを抱えていた、その頃と同じであった。
その事がミエコには嫌でしょうがなかった。
中宮が自分を嫌うのがではない。全て御影の言う通りになっていることが、乙女には我慢ならなかったのである。それは同時に、いつか利用され、再び自分を殺しに来る――そんな事まで考えたくもなかった。
だが、驚くべき事も明らかになった。
中宮の家系は狐憑きの家系であった。
「憑き物筋――なのは、大体察してたわ。一応宗門人別改帳まで遡ってみたけど、級長のそれは病とかじゃなくて完全に遣う側のそれね。地元じゃきっと恐れられた家柄だったんでしょ。だから両親は帝都に引っ越して来た。能力の顕現は千差万別だから、両親は至って普通の人間だったわ。中宮冴子に宿った一族の宿業が、今になって蘇った」
――嫌な言葉ね。
ヒノエが眉を顰めた吐き捨てた。
「精神の病はないのね」
「そう。怪異を遣える――だから、教祖に目を付けられたのかしら?」
真相はまだ分からない。
何故、中宮だったのか?
一族に適性があるのは分かる。だがこの広い帝都だ。その気になればもっと適切な人材――被害者――がごまんと居るはずである。
なのに。
なのに何故、身近な級友だったか。
ミエコがうぅん、と呻り俯いた所で、「ま、術を掛けてきたんだから大丈夫でしょ」と、ヒノエがのほほんとばかりに肩を竦めた。
「随分と自信満々ねぇ。大丈夫なの?」
「伊沢には見劣りしないわ」ヒ、ノエが袖下で腕を組んだ。「忘れてたものを思い出すのも辛いだろうから、と二度と思い出せないように、形代付きの呪をかけといたわ。それこそ姫や伊沢じゃないと解けないわ」
「そう――」
それでもミエコの顔は晴れなかった。
眼下に広がる白い雲の遥か下には、ドス黒い太歳が渦巻く。青春真っ盛りの学園生活を度々休み、怪異を討っては夜の闇に舞う。美しい現実は、一枚皮を剥けば、死の臭いを纏った颶風が吹き荒れる。
(中宮、初江、磯子――)
瞼の裏に焼き付いた青春の日常。この得難き幸せを守る為に、夜に舞い、今――厭な奴に会うために、時速百八十二ノットで北へ向かっている。暫くして蒼穹を駆ける銀翼は、ゆっくりと降下を始めた。
まず目指すは青森。
それから連絡船で海峡を越え、最終目的地は北の大地――函館であった。




