第79話 科学が照らす、その先は――
水を打ったような静けさの帝國議事堂ダンスホール。だが、静謐は虚無を意味しない。目には見えない意志と意志が、弓張の如く虚空を引き攣らせている。撓みすらない弦の上、ミエコは小さく首を振り、「えぇ、満足したわ」強弁した。
「無事、級長を助けられたもの。これ以上何を望むのよ」
気丈に振る舞うミエコであったが、それ故にこそ――嫌な事実が擡げている事にだれもがきづいていた。
平穏は戻らないぞ。
御影の言葉に熱はなかった。
「この娘の意識が戻っても、お前を憎んだままだ。あの男の催眠か術か暴力か――この一ヶ月、何があったかも恐らく知るまい。この娘は何も知らず人を殺し、操られ、捨てられ、お前を憎んでいる」
「それでもいいわ」
「ほぅ。――では、また何者かに利用され、またお前を殺しに来るぞ」
傷口をこじ開ける言葉のナイフ。
それでも尚、乙女は歯を食いしばって答えた。
「……そんなことはさせない。例え軍が碌でもないことをしようとも、私は何も知らない彼女を守る。関係ない人間を巻き込んで――何が陸軍よ、何が羅刹よ。人の平穏と幸せを踏みにじるなら、さっさと解体すればいい。そんな軍隊いらないわ。私達はアンタとは違う道を行く」
これこそは乙女の矜持。
誰にも否定はさせない、青春の精華。
人の居るべき平穏が、怪異の悪意に晒されても、軍靴に踏まれようとも――例え火雨が帝都に降り注ごうとも、人間賛歌は時代の闇を切り開く。ミエコは眦を吊り上げ御影を睨み付けた。
すると「御影大佐――」と、志乃が間に入った。
同時に自動小銃のボルトが、ガチャリと音を立てた。
「これ以上お嬢様を愚弄するなら、大佐と言えど許せません」
貫くような殺気に、御影は眉を顰めた。
「……志乃君、いい加減に目覚めたまえよ。この小娘は君達を振り回しているだけにすぎない。羅刹に関わらなければ、全て理路整然と落ち着くのだ。道理が分からぬ君ではあるまい」
「いいえ。私は命を懸けてでもお嬢様をお守りします。これは私の使命なのです」
「志乃――」
ミエコの瞳に自然と涙が溢れた。
滲んだ視界に映る志乃は、昂然と銃を掲げている。
迷いなど微塵も見受けられない、整然とした姿勢。頼もしい指が引き鉄に掛けられた所で、「そうか、君は――」と御影が静かに目を瞑った。
それから間を置かず、何をか言わんや、とでも言いたげに肩を落とした。
「人は宿命からは逃れられんと、世は言う。だが……君が半生を捧げるべきは、この事実なのか。君はそれで本当に良いのか」
突然。
ゴホン――と大きな咳払いがダンスホールに響き渡った。
「御影大佐。そこまでにして貰えませんかね」
伊沢が後ろ手を組みながら、ミエコの横に立った。
「ミエコさんはまだ若い。粗相もします。呪力も技術も泰山北斗とは参りません。――しかし、そこまで貶すのはらしくありませんよ、大佐。志乃さんに艶事を言って口説くのも辞めていただきたい。――お二人とも、私達の仲間なのですから」
飄々としつつも、僅かに熱を帯びた言いであった。
「伊沢君、君こそらしくないな。――姫から何を聞かされている? 我々の与り知らぬあの化け物を知っているのではないか?」
明け透けな探りに、伊沢は「さぁね」と素気なく答えた。
「姫には姫の事情もございましょう。しかし、大佐のことを良くは思っておりません」
「随分とざっくばらんに言うな。全く気にならんが」
「――あらそう。なら、私から訊いて良いかしら?」
神籬を直していたヒノエが、背を向けたままに問うた。目を瞑り、天照大御神に祈りを終えた所で、くるりと振り返った。
「御影大佐。アナタの飼い犬は訳の分からない化け物になった。依代の娘は羅刹に奪還された。……あなた」
――中宮を殺すつもりだったわね。
黒衣の巫女が酷く冷たく言い放った。
御影は産毛一つ動ぜず、視線は虚空を眺めるばかり。寸時の間を置き「流石に答えんよ、その問いには」と呟くように言った。
「いいわ、答えなくて。上澄み――あの自動人形の戦闘試験も私達が行ったようなもんだし、もう十分でしょ。――あの男が正気を保っていたら、二人とも軍で接収し、また何かの兵器として活用する気だったんでしょ? ……強欲も過ぎると領分を越えて、私達と本気でぶつかるわよ。そうなったら容赦しないわ」
黒衣の巫女の音調重く。ミエコの胸に、ヒノエの言葉が重くのし掛かった。倒れた中宮冴子――ミエコが守っていたのは人面鼠からだけではなく、人の悪意からでもあった。
「さすが、滝夜叉姫が一目を置くだけのことはあるな、血統の巫女よ。だが――完徳の乙女に影響を受けすぎたと見える。もう少し大局的、合理的に俯瞰できる逸材と思っていたが、幾分か直情的にすぎるな」
「なっ、――志乃さんを口説いてたどの口が!」
巫女の抗弁に返ってきたのは、冷たい苦笑いであった。
「それが最もこの国のためになるからだ。――だが、もう良い。羅刹と戦う力があるなら、その力は敵国へ向けるべきだ。英米もドイツもソ連も中華民国も、全員敵だ。どの国も覇権を争い、遠交近攻、接した途端に敵となる。虎視眈々と爪を研ぎ、全てのものを戦争に動員する」
――神宮司ミエコよ。
御影が真っ白い手袋を虚空に翳した。
「お前は見る義務がある。神宮司家令嬢として、羅刹の輩として、この時代を生きる若者として。世界を巻き込む戦争という妄念がどれだけのモノか。――否、人間の執念を」
(――科学の妄念じゃない)
ミエコは伏せ目がちに神籬へ視線を投げた。
天照大御神の無言が全てを物語っている。
伊沢には気を許していたであろう天照大御神が口を噤み、神の御言葉を授けない。
神に見放され――否、神を見放し、怪異を貪り、科学の鎧を身につけた冷たい男は、乙女を見下ろし告げた。
「函館に来い。いいものを見せてやる」




