第77話 闇の中ではカタチは消えて
憑依――。
乙女の目には、そのようにしか見えなかった。
人間が人間らしさを失うとは、精神の様態ばかりを言うのではない。狐憑きに限らず、神降ろし、神宿り、憑き物、シャーマニズム――その全てにおいて通常とは異なる状態、外見、言葉、行動が伴う。赤らめ顔、振り乱した髪、蒼白の身体――と枚挙に暇がない中で。
教祖の目は既に、人の眼ではなかった。
乙女は訝しげに唇を尖らせた。銃口の先に、頬が痩けた短髪の青年――否、中年に差し掛かっているようにも見えた。この距離でまじまじと見るのは初めてである。皺も濃い。肌も浅黒い。不健康そうなざらりとした肌質が、白熱灯に瞭然と浮かび上がっている。
しかし、何にも増して目を引いたのは、その奇行であった。
「御影ェ! この世を覆う暗黒は、浅ましい火遊びの比ではないぞッ!」
突如――。
教祖は苦しみ悶えるように、両手で頭皮を掻きむしりだした。乙女達一同が瞠目する中、教祖の指はバリバリと音を立て――突き立てられた爪が、己の皮膚を削っているのが瞭然と見て取れた。浅黒い肌が、髪の黒が、滲んだ赤に染まっていく。削られた皮膚に滴るように真っ赤な血が――教祖の頬にまで幾筋かが伝った所である。
寸時の狂乱は激しい息づかいと共に終わった。
「貴様――帝国軍人の気概すら失ったか。人あらざる怪異如きに憑依されようとは」
まるで憐れむ言い草であった。だが憐憫の情など微塵も持ち合わせていないだろう。部下の死だけが一時感情を起伏させたが、この男に限ってそういう温かさはない。ミエコは銃口を教祖に向けたまま御影を一瞥した。
毫も動じぬ冷血漢の鉄面皮が、狂った教祖を見下していた。
「ハハ、ハハ――。貴様こそ、怪異のなんたるかを知らんと見える」
「ほざけ。貴様は既に用済みなのだ」
御影大佐の左手がスッと持ち上がった。純白の手袋は如何にも冷たそうで、例え親の敵のような讐敵であろうと、その指先はぶれることもないだろう。指揮者に合わせて振るわれる最新機密兵器――試製機関短銃の口々が今にも火を噴きそうだった。
「待ってください御影大佐」
伊沢が慌てて止めに入ろうとしたが、「構わん。撃て」と酷く冷たく号令を下した。
次の瞬間。
一斉に機関短銃の群が火を噴いた。
パタパタパタ――と軽めの銃声が幾つも重なり、音の壁が面となって放たれる。音速を超えた拳銃弾の津波が、たった一人の男に襲いかかる。瞬きをする間もない。戦場の如き硝煙と砲火が、帝國議事堂のダンスホールを一気に埋め尽くした。
銃弾が身体を貫けば、人間など一瞬で倒れ込んでしまう。銃弾が神経系を貫けば、人間は立つ事も適わない。眼や脳、心臓を貫かれれば当たり前に死ぬ。
語るまでもない事実。
――にもかかわらず。
教祖は何十発もの銃弾を受け。
目に見えて分かるほど大量の鮮血――銃弾痕が全身にありありと浮かび上がる。
飛び散った血肉が散乱する。
しかし――。
「まさか……どうして」
眼前、公開処刑場じみた風景に、乙女は引き金を引かなかった。引く暇すら無かった。実際の所、呆気にとられていたと言われればそれまでだが、無理もなかった。眼前の光景は酷く常軌を逸していた。
教祖は体勢を僅かに崩し、糸の切れたマリオネットの体である。
――が、倒れない。
手足が流木の枝のような角度で固まっている。
その癖、顔だけは確り俯いていて様子を窺えない。頭蓋骨を砕く銃弾もあったはずだが、教祖は頭頂部からクロークの先までを鮮血で染め上げながら――尚も息をしていた。
ヒヒ――、ヒヒ。
引き攣った笑い声が、死んでいるはずの教祖から漏れた。
銃弾が喉を貫通しても尚、声が、男と女の混じり合ったような声が、念話と共に溢れだした。
「『この世を覆うは不安と恐怖。猜疑と嫌忌。驚心駭目、慄き震える人間に与える幸福は』」
――闇だ。
その一言を皮切りに、バネ仕掛けのように頭が持ち上がった。
忿恚の左眼が黒く染まる。水面に墨が広がるように、赤黒い染みは瞬く間に教祖の顔面を、首筋を、上体に広がっていった。穴だらけのクロークから僅かばかりに覗き見える肉体は――酷く非人間的な輝きを帯びていた。
ミエコは豁然と目を見開いた。
それは、かつて遭遇した漆黒の怪異の様――表面をなぞるのは空間の皺みであった。クロークの下で、非生物的な生物が、風を起こしながら生まれようとしている。
「伊沢ッ!」
黒衣の巫女が叫んだ。
咄嗟の行動に一瞬の気後れもない。ヒノエは声を掛けると同時に矢を放っっていた。
清祓が施された鎧通しの矢が猛然と空を切り、風を孕んだ教祖のクロークに突き刺さった。だが光環もなく、刺さった感触すらなかった。それどころか、装甲に弾かれるように甲高い音すら聞こえてきた。
「はいはい」
二の矢を応じたのは伊沢であった。
眉一つ動かさず、懐から一枚の符を取りだした。併せて『隠形鬼――』と諳んじると、ダンスホールに落ちる教祖の影が、突如としてむくむくと盛り上がり始めた。
人面鼠の遺骸ではない。人でもない。
瞬く間に迫り上がり、形を成したのは――筋骨隆々の黒い鬼であった。
かつて――『太平記』に伝わる藤原千方が従えた鬼は四匹。最後に召喚されたのは、闇に紛れ気配を消し、不意打ちで相手を喰らう隠形鬼であった。教祖とも異なる非人間的な紅い瞳が、ぎょろりと教祖を睨んだ。
瞬く間に形を成した三メートルもの巨躯が見下ろすのは、邪な風が乱れるクロークの下。最早人間であるかどうかも分からぬ布のお化けに対し、伝説の鬼が強大に迫り上がった筋骨から、強烈な手刀を繰り出した。
一閃、迅雷の如く――。
しかし、強烈な一撃は音もなく空を切った。床に到達する直前でピタリと止まった手刀に、隠形鬼自身も、伊沢も、目撃した全ての者が息を呑んだ。
白熱灯に照らされて、ボロボロになったクロークが空を舞う。
手刀の斬撃、風圧に破れた白布がヒラヒラと舞う中に、――それはいた。
「あれは――」
酷く歪んだ蝙蝠の羽。
羽ばたきもままならぬまま――裸体の半分以上が黒の甲殻じみた皺みに覆われ。顔は斜めに切るように、人間と化け物のアマルガム。半人半妖の体となった教祖が、虚空に舞いながらニタリと笑っていた。




