第76話 夢と啓蒙の狭間で
「戯れ言も児戯もこれまでだ」
いつにも増して――御影の冷たい言葉が、ダンスホールに染み入る。肌を突き刺す冷気は、乙女達にも教祖にも向けられていた。死臭漂う空気を切り裂く――その幕間に、ミエコは力無く手を放した人面鼠の死骸達を蹴りながら、倒れた中宮に駆け寄った。
大の字で仰向けになり、瞳を閉じている。顔面は蒼白で生気が感じられない。しかし、その顔は健やかに微笑んでいるようにすら見えた。胸元の赤い染みが見えたが、とてもとても小さい。出血こそあれど致命傷のそれには決して見えなかった。必ず外れる魔法の弾丸――乙女は改めて人道銃と誂えてくれたソロエに感謝しつつ、中宮を抱えた。
脈はある。
呼吸もある。
出血も大した量ではない。
――気絶しているだけ。その事実だけで良かった。
『ミエコ、中宮は?』
『大丈夫。気絶してるだけ』
『そう――良かった』
黒衣の巫女から安堵の溜め息が漏れた。辺り一帯を埋め尽くしていた人面鼠もなりを潜めている。御影大佐率いる――十名の特別部隊の銃口が一頻り銃火を収め、辺り一帯が人面鼠の死屍累々の小山を築き終わった頃であった。
「所詮、貴様の付け焼き刃など、この程度のものよ。まぁ――本来の目的からすれば十二分であったはずなのだがな」
階段を封鎖し、何もない壁を背にして――教祖の口元は真一文字のままであった。
「御影――貴様こそ、目的を失っているのではないか」
「ほぅ」
「次の来るべき大戦争――勝者を決する膂力が足らぬ。だが決戦など起こりえぬ」
一切の感情を交えず。
未だ吐き気を催す臭気の只中に、冷たい言葉が飛び交った。
「石原閣下が訝しんでおられたが、やはり貴様は自ら枷を外したのだな、――この駄犬が」貴様には十分な選択の余地を与えたつもりだ――と続けると、懐にそっと手を入れた。十四年式拳銃を手にするのだろう。ミエコがそう直感するとほぼ同時、教祖もクロークの袖下から拳銃を取りだしていた。
流れるような手付きで、相対する二人が鏡映しのように同じ拳銃を構えた。ただ、違いがあるとすれば、御影の部隊全員の銃口も合わせて教祖に向けられていることくらいであった。
「こちらの道に迷い込んだ貴様を救った恩すら忘れたか。名前を変え、興亜院という寄る辺を与えた鈴木貞一閣下。総力戦体制と最終戦争――全ては勝利のために、怪異の力も動員する石原莞爾閣下の思し召しを、貴様は無碍にしたのだ」
薄氷の上を、鋭い意志が滑ってはぶつかり爆ぜる。しかし、乙女達は傍観者ではいられなかった。今まで共有してきた事実が既にある。あるならば――この二人の間に入らねばならなかった。
「まるで説得するような言い回しね、御影大佐。この男に戻って来て欲しいの? 飼い犬に手を噛まれても、尚」
思わぬ入った乙女の茶々を、御影は鼻で笑った。
「フン――投下した資本は回収せねばならん。完徳の乙女よ。この男はな、かつては将来を嘱望された陸軍軍人だった」
明言されずとも、薄々分かっていた。
身体の身のこなし、語り口、十四年式拳銃――証左は積み上がっていた。
「だが、ある事件を契機に、この男は怪異を知る側になってしまった。そこで石原閣下の取り計らいで私が監督することになった」
「世界最終戦争の勝利のため、少しでも人員を増やそうとして?」
「そうだ。その為に大陸で準備を行った」
阿片の密輸、内モンゴル経由の危ない薬――金は天下の回りもの。回る先は後ろ暗い場所ばかりである。きっと最前線で捕虜などに対して、口に出来ない事も山のようにしたに違いない。乙女は直感的に口を噤んだ。
「だが、上海で女優擬きと虎柄男に嗅ぎ付けられたのは失策だったな。同じ怪異を扱う組織として、棲み分けが最も効率が良いにもかかわらず、貴様はヘマをした」
「――あぁ、そういうことでしたか」
今まで黙っていた伊沢が、いつの間にか取りだした扇子をパチンと鳴らした。
「全て得心しました。元々組織を分ける気はなかったのですね、御影大佐」
「そうだ、伊沢君。本来なら『暗黒の知啓団』など必要なかった。君や姫の追及を逃れ、独自に金と兵器と研究結果を揃える。その為の偽旗作戦でしかなかった」
新型機関短銃の銃身が鈍く光っている。金は製造工場も含めて膨大な金額であろう。彼らを一瞥してミエコは得心したように呟いた。
「汚れ役を担わせつつ、この国の怪異を活性化し、その上澄みを得る。――でも、その計画は破綻した。この男は――」
「自ら枷を食いちぎったようですねぇ。大陸で学んだのは付け焼き刃の道術。言霊石を強奪し、目撃者を殺し、少女の僻みすら利用して――本体の利益をも強奪しようとした、と」
御影は静かに頷いた。
「見るからに、我々の知らぬ怪異ばかりを従えている。本邦でも、大陸でも、西洋でもない。――貴様、どうやって遣っている?」
いや、違うな。
御影の十四年式拳銃が僅かに傾いた。
コンダクターに合わせて隊員達の銃口が正確に教祖の頭部へ向けられた。
「貴様は遣われているな。我らの知らぬ神か、なにかに」
ハハハハハハハハ――。
昂然と高笑いが響き渡った。引き攣った笑いは波のように揺れ、束の間の高鳴りは津波の引き汐の如く、ピタリと止んだ。銃口を向けられながら、出入り口を封鎖されながら、鬼と兵士と乙女達の殺意に囲まれながら――教祖は念話を呟いた。
『――私は闇だ。この世に光などなく、窮極の闇による叫喚の平等。我ら人間という、下等な存在でもなお幸福に至る縁――破滅と幸福は常に背を合わせている』
教祖の言葉を聞き、正気を失っている、と評するは簡単であった。だが、乙女達は分かっていた。正気なのだ。曇りなき意志、純然たる悪意――。
「貴様の神の名は――」
「我が名を呼ぶな!」
教祖がフードを乱暴にめくると――男の片目は、赤黒く染まっていた。




