第75話 人道銃に思いを委ね
教祖の言葉に応ずるように、中宮の顔が歪んだ。
「あなたは――絶対にッ!」
許さない――重い一言がダンスホールに響くと、中宮を取り巻くように空気が皺んだ。直線的なダンスホールの柱が歪んで見える。皺みは細波の如く、ぼつぼつ滲む波の花は漆黒の牡丹。嫉妬に肩を怒らせる少女の周りで――内臓が破裂して朽ちたはずの鼠が人面鼠が、ビクビクと身体を痙攣させている。
動き出す。
吹き飛ばされた顔面が、灰色の毛皮からはみ出た臓腑が、老人のような指先が、ビクリ、ビクリと――。
「ミエコ! 離れて!」
黒衣の巫女が危険を察知して叫んだ。
中央の祠を守るように陣取る伊沢に、左右に分かれて矢弾を撃ち込む二人の乙女。人面鼠の群をいなす3匹の鬼。
しかし、量が質となる。
壁から産まれ人面鼠の数こそ減ったものの、斃された遺骸が蘇ると――。子どもでも分かる悪夢も、ミエコには想像する余裕がなかった。
眼前、短刀を振り回す級友。
嫉妬の炎に歪んだ瞳は、既に人のそれではないのだ。
「お願いッ! やめて、中宮ッ!」
避けるのは容易かった。
学校の授業――体操、球技の類いでも負け知らずの乙女である。優れた体幹、瞬発力、しなやかな肢体は一般人という枠から十二分に飛び抜けている。対して中宮は、どちらかと言えば鈍重で、体操の成績ではミエコに一度も勝った験しがない。女子体育の振興と良妻賢母主義の懊悩を体現するが如く――不慣れな乙女の白刃など脅威ではない。
故に、こそ。
級長への慈悲は、全て嫉妬と憎悪に変化する。
「アンタに、武器なんて、似合わないわッ! クラスの皆に、顔向けできるの! 今のアンタが!」
「だ、黙れえええッ――!」
死臭溢れるダンスホールに、黒と紺のスカートが翻る。死んだはずの人面鼠がむくむくと起き上がり、ミエコに向かおうとするが、襲いかかってくる鼠の津波の間隙を縫い、ヒノエと志乃が射撃を加えた。合図せずとも分かる。二人揃ってミエコを助けるために――。
だが、余裕はない。
数が違うのだ。白刃を拙く振り翳す乙女の後ろ側では、幾十匹の人間の上半身ほどある死骸が、山が形成されつつある。
『ミエコ! 中宮を撃ちなさいッ!』
「なッ――! なんですって!」
突如脳内に響き渡ったヒノエの怒号に、即座に反論した。
「出来ないわよ、そんなこと!」
『いいから撃ちなさい! この鼠の群れ――死骸の依代になってるのはあの子よ!』
人面鼠の召喚は教祖だとしても――今、死せる怪異を蘇らせつつあるのは、依代と呼ばれた中宮に違いない。歴戦の黒衣の巫女は、千里眼に漆黒の線を見たのだろう。ミエコは淡い思い出や人倫に判断を鈍らせる前に、ヒノエの意を酌み取れた。
死風を孕み、乙女の身体が踊る。
人面鼠の死骸の合間、わずかに空いた床面にハラリと飛び移る。装弾を終えた拳銃を、片手で確と構えた。照星の向こう側には、憎悪を吐き出す級友の姿。
不図、地面に伏せっていた人面鼠の一匹が、擡げた手で乙女の足首を掴んだ。すると周りの鼠も腕を伸ばし一匹二匹、と無防備なミエコの足を雁字搦めに捕まえ始めた。
――逃げられないように。
依代の思うとおりに、鼠の死骸が動いている。
だからこそ――ミエコは動じなかった。
二十六年式拳銃。
ソロエが託した人道銃。
人を殺したくない銃。
「ゴメン……、中宮」
(お願い――)
一発の乾いた銃声が、ダンスホールに響いた。
鬼達が鼠を圧壊させる音、自動小銃の銃声、呪い言葉、短弓が風を切る音の只中に、凛と染み入るように、音が鳴った。
所々薄汚れた白いクロークに、赤い花が咲く。心臓でも、肺でもない。きっと何もかもを外してくれているに違いない。乙女は信じて引き金を引いた。
中宮が驚きの表情を浮かべ、――黒髪を風に、重力に靡かせながら後ろに倒れていく。一瞬の出来事であったが、ミエコの瞳には高速度撮影の如く映っていた。
――視界の端に教祖が見えた。
中宮からも、鬼からも、伊沢達からも離れ――何もない壁に近い場所に陣取っている。隠し通路でもあるのだろうか、逃げようとしている。己の傀儡を捨ててまで。
乙女の脳味噌が怒りに沸騰しそうになった、――その時だった。
突如――けたたましい銃声の津波が、ダンスホール一杯を埋め尽くした。乙女の銃声がスタートの号砲だったかのように、間断なく鳴り響き始めたたは、短く詰まった発砲音。乙女は音の方を見た。
七階から上る階段から、ぞろぞろと黒い人影が――鉄砲水のように噴き出している。だがその動きは洗練され、一糸乱れることもなく階段を駆け上がり、手摺りを背に瞬く間に円陣を形作った。
その時になって、乙女は漸く理解した。
陸軍の兵隊だ。
鉄帽に防毒面――真っ黒い誂えに目元だけが紅く光っている。腰に付けた被甲嚢やずらずらと並ぶ弾薬盒は、同じく黒く鈍い輝きを放っている。軍衣こそ陸軍のそれ――兵であったが、布脚絆ではない将校用の革脚絆がギリギリと床をなじるように踏みしめている。
何処かあべこべな印象を受ける。
乙女の直感が、何者かを推察する前に、現実が全てを塗り替える。
手に持っているのは――見慣れない機関短銃。
神宮司家の地下では、一通りの機関短銃を試射したミエコであったが、ベルグマン自動短銃達でもなければ、アメリカのトミーガンでもない。バナナ型弾倉が瞭然と視認できる――新型の機関短銃が、タタタン、タタンと小気味良いリズムで――蘇った人面鼠達を虐殺していた。
十名を越える兵士。
間断ない射撃が人面鼠を再び眠りにつかせる。
「まさか――」
驚いた声を上げたのは、意外にも伊沢であった。剣指を構えながら、呪い言葉を続けようとした所であった。
ダンスホールに冷たい、あまりにも冷たい声が浸みる。
「『そこまでだ。これ以上の逸脱は許可できない――』」
ぬらり――と。
影が、冷たい影が階段を、一段一段登ってくる。
カツカツと音を立て、四五式軍帽が闇より迫り上がる。
帽子の鍔から垣間見える冷たい双眸は、忘れもしない冷血漢のそれであった。
「御影大佐――」
「完徳の乙女よ、無様だな」
悪辣な一言が、ミエコの心に突き刺さった。




