第73話 願わくは暗黒の世の中を
「もう少しで侵蝕が終わろうというのに……本当に邪魔な奴らだ」
念話ですらなく、寂寞としたホールに甲高い跫音と男の声が響く。二人が纏っているフードは真新しく、昔日の銃撃痕などは見当たらい。何処かで誰かが支援して準備している――その事実が、改めて乙女の印象に刻まれた。
だが、大事なのはそこではない。
中宮冴子は――相変わらず虚ろな表情のままである。ヒノエからの助言を思い出し、二十六年式拳銃の銃把を確と握り直した。銃口を向けられても尚、教祖は泰然としていた。
『ここを狙うのは悪くない趣向ではありますね』
『私達に討滅されなければ――ね』
伊沢の呟きにヒノエが重ねた。
「ほざけ」
階段を降りきった教祖は、後ろに中宮を従えて、露骨に怒りの表情を浮かべた。
「……貴様らさえいなければ、この国も――否、この国を渦の中心として、全世界を都合良く惨禍に巻き込めるものを。浅はかな迷夢は闇に帰してやるのが、幸せであろうに」
『貴方がやらなくても、この国の指導者は、勝手にそうしてしまうかも知れませんがね』
天照大御神の御前にもかかわらず、伊沢が再び毒を吐いた。
『戦争で儲かる連中と、いい気になる愚か者がこの国には多いのです。戦争の帰結が、欧州の|パッシエンデールのようなもの《砲撃により更地となつた街》であれば、誰も戦争なぞ望みもしないでしょう。しかし――貴方が望むのは、さらにその先なのでしょう? 平等が良い事は否定しませんが、世界最終戦争によって全てが破壊され、下方に平準化された平等というのは絶対に戴けませんネェ』
『――御託は良いわ、伊沢。この人に仇成す愚者は、矢弾じゃないと納得しないわ』
贅言は不要、と。
ミエコと志乃が銃口を教祖に向ける。後ろに連なる中宮に当たらぬよう、互いの射角が被らないように確度を強く意識し、左右に展開した。それでも――近い。その気になれば教祖は感嘆に中宮を盾に出来る。如何にして引き離すか、一考を巡らせていると、伊沢が剣指を口に添えながら呟いた。
「しかし解せませんねぇ。此処を襲うということは、私達が乗り込んでくる事が前提になるはずです。今までの貴方の逃亡劇とは、明らかに違います。――つまり」
教祖の男がかぶりを振った。
「分かっているじゃないか。こちらもいい加減、ケリを付けたくてな」
――集え、遣われる者共よ。
と、教祖が声を上げた。
その途端であった。
八階ホール、三方の壁が動いた。白壁の直線的意匠が、波打つように動いたかと思うと、三角波のように徐々に盛り上がり始めた。
突起が――さらに形を成し、壁から幾つも幾つも伸び始めた。ミエコは我が目を疑った。形を成して壁から生えてきたのは、――鼠のような人の顔、ヒトにしては小さな手や腕、そしてそれ以外の全てが灰色の体毛に覆われた、鼠だったのである。
「ひっ――!」
髑髏や死人を見ても悲鳴を上げなかった乙女が、思わず声を漏らした。
壁から放り出され、ボトリボトリと産み出されるのは、体高六十センチ程度の鼠。否、――鼠と人間の間――なのであろうが、乙女にはどうしても顔が人間にしか見えず、そうなれば酷く簡単な反応を上げるのは自明の理であった。
人面鼠は一匹二匹と数を増し、銘々に黒い影を纏わせている。ギィギィと、聞くに堪えない低い呻き声を上げながら、えらく生々しい指先で顔を拭い、――黒い瞳で乙女達を凝視した。
「き、気持ち悪い!」
「お嬢様!」
左右に展開したミエコや志乃の後ろでも、人面鼠はボトボト産み出され続けている。二人の乙女は咄嗟に身体を動かし、伊沢を中心に背を合わせた。拳銃とライフルが、左右に向けられ、正面に向かいヒノエの矢が番えられた。
「行け――」
酷く簡素な命令であった。教祖の口元は余裕に綻び、手を掲げた瞬間。
人面鼠たちが一斉に地鳴りのような唸り声を上げて、ミエコ達に向かって走り出した。津波のように走り出した鼠たちは――本来であれば前肢四本、橈骨、尺骨が上手く体重を乗せて器用に走るハズなのだが――見てくれの悪い人間の手でベタベタ地べたを這いずり回るが如く、速度は決して速くはない。
しかし、圧倒的に多い。見渡すかぎり十数匹は確実にいる。
考えている暇など無かった。
ミエコの拳銃が火を噴き、志乃の自動小銃の銃声が重なった。軽く乾いた銃声と、重く腹に響く銃声が交互、或いはテンポ良くホール一杯に響き渡った。日本軍の三八式実包を撃てるロシア製自動小銃が遺憾なくその威力を発揮し、人面鼠は一匹一匹、近づいた者から血煙を上げてその場に倒れ込んだ。
ミエコの射撃も同様で、威力の低い九ミリ弾であるが、人道銃のお陰か的確に鼠たちの眉間を撃ち貫いていく。六発を撃ちきった所で拳銃を中から折って装弾を始めたが、その間、ミエコに向かって近づいてきた人面鼠を射貫いていたのはヒノエであった。ミエコはあまりに人間じみた風貌の鼠に、胃の吸い物が今にも迫り上がって吐きだしそうであった。
一方――伊沢は先程ばら撒いていた人形を用途転換した。
「はッ!」
剣指に息を掛けると、散らばっていた人型――式が一瞬にして青い炎を纏い、それぞれがまるで意志があるように浮かび上がっては空を舞い、螺旋状に人面鼠に向かって突撃した。ホールの大空間を花火の様に『火炎式』の弾道が残光を輝かせる。着弾した式は、人面に張り付くと炎の勢いを一気に増し、身体全体が炎に包まれる。
――それは地獄絵図であった。
人面故に、断末魔の叫び故に、吹き上がる血煙故に、鼻を突く焼け焦げた死臭故に――。銃声が間断なく続き、返り血がミエコ達に容赦なく降りかかる。まともに声を発さず、粛々と虐殺の風景が帝國議事堂に刻まれる。
人面鼠の死体が積み重なり、二十体を数えたところで、
『これ以上は難しいわよ、伊沢』
と、ヒノエが視線も合わせず、矢を射ながら言った。
『そうですね。それでは――』
伊沢が慣れた手付きで懐に手を伸ばした。
黒いスーツから顔を覗かせたのは、4枚の呪符。それらを高く放り投げると、それぞれの符が同じように空を切り、人面鼠が産み出される場所のすぐ近くに飛んでいった。ピタリと壁にくっついた所で、伊沢が新たなる命を式に下した。
「四鬼――行きなさい」




