第70話 どえらい場所に来たものね
『……こんな所に来る事になるとはね』
バタン――と黒塗りのパッカードのドアが、夜気を裂いて重く閉じられた。
秋の宵闇すでに深く、時計の針は10時を回る。往時の帝都、夜の盛りは那辺の彼方に消え去り、国民精神総動員運動の成果宜しく――緊縮と自重という闇が街を覆っている。風もどこかうら寒く、乙女は開襟の革ジャケットの胸元を、ぎゅっと掻き合わせた。
運転席から降り立った伊沢が、意外そうに口を開く。
『ミエコさんは初めてでしたか? ここに来るのは』
『そりゃそうでしょ。関係ない人間が気軽に来るような場所じゃないわよ』
『……それもそうね。私は二度目だけど』
黒衣の巫女は飄々然として、秋風に千早の裾を舞わせている。
『以前は何で来たの?』
『動作確認よ。伊沢が張った術がちゃんと機能するか、姫に依頼されてね』
『そうでございましたか。……その折も、その服装、でございますか?』
伊沢の背後に立った志乃が、トランクから大ぶりのバッグ――得物を収めた仕事袋を取り出しながら、和やかに問うた。場違い、と言いたげであったが、ヒノエは僅かに眼を細めただけで、泰然と応じた。
『勿論ですよ。これが正装ですもの。……というより、志乃さんも、その格好で』
『うふふ。私もこれが正装に御座いますので』
(どっちもどっちじゃない)
ミエコが苦笑いを浮かべながら、胸元に手を差し入れホルスターを確かめた。得物の確認だけは、如何なる時も怠る訳にはいかない。ふと図見上げれば、薄墨色に沈んだ夜闇に聳える角錐型段型屋根――帝国議事堂の威容が、乙女の瞳に映り込んだ。
秋風吹く冷たい夜である。廣島県倉橋産の花崗岩が、尚更にその白を誇っている。両翼に議事堂を抱え、積み上げれば富士山の三十倍の高さにも達するという花崗岩の量は、まさしく国産の粋を集めた帝国の精華であることを物語っている。
費やされた歳月、十七年。
鉄骨総量九千八百トン。
工事従事者総延二百五十四万人。
総経費実に二千六百萬圓――。
関東大震災の災禍に見舞われ、幾多の延期や変更を乗り越えて、日本で一番高い建造物として君臨する摩天楼は――同時に政党政治の墓標でもあった。
『この屋上に』
月華を浴びて輝く議事堂中央塔が、乙女達を見下ろしていた。近衛文麿の言う『妖しげな声』を思い浮かべながら、乙女がしばし呆然と見上げていると、
「さっさと参りましょう」
と伊沢が声を出した。相変わらず漆黒のスーツに身を固めた伊沢は、音もなく、すす――と歩みを進めていく。余計な感慨に浸る暇は無い、ということだろう。
正面入口から堂々と入るのは流石に憚られたものか、一行は衆議院側東南にある出入口へ足を踏み入れた。警備の人影が遠くにちらほら見えるが、乙女達を訝しむ様子はない。
『話は通してあります。夜間工事する旨も伝えてありますので』
『とても工事の人間には見えないけどね』
『地鎮祭の延長戦よ。立派な工事よ、工事』
スーツ姿の男に黒衣の巫女、眼鏡のメイドに洋装お転婆娘――何ら共通点を持たぬ集団が、音を殺してそろそろと歩み出す。
夜の帝国議事堂は水を打ったように静まり返っていた。
当直や警備の者もいるが、使っていない電気は消され、一歩間違えれば足下すら覚束ない暗さである。それでも電灯が発する一条の光を僅かに滲ませる石灰岩と漆喰の壁は美しく、足下は防音仕様の赤い絨毯がm目の届く先まで敷かれている。
衆議院側から入った乙女は、『きっとまっすぐ行けば有名な中央広間ね』と、密かな期待に胸を膨らませたが、まるで見透かすように『人目を避けるから極力階段で行くわよ』とヒノエが釘を刺した。
『えー、最新の昇降機があるんでしょ?』
『どうせ一番上まで行けやしませんよ。それに辺りの様子も見ておきたいので』
『お嬢様、急がば回れ、ですよ!』
全力疾走、特段急いでいる風もないが――乙女は志乃の励ましに小さく笑みを浮かべ、気を取り直して歩み出した。
帝国議事堂は地下一階、両翼が地上三階、中央部が四階、その上に塔が八階まで聳える。主要室数は四百近くを数え、あらゆる用途の部屋が犇めいている。建物の造りこそ直線的とは言え、面構えが似た部屋が多く、下手をすれば方角ところか自分の位置すら見失いかねない迷宮の様相である。しかし先を行く伊沢の足取りには、一片の迷いもない。
階段、階段、廊下――また階段と。
東南から南側へ上がり、三階廊下を真っ直ぐ進む。防音絨毯の上を、音もなく足早に影が走る。意匠を凝らした部屋や廊下に見蕩れる暇すら、ミエコには与えられなかった。中央棟付近の職員階段から四階へ上り、漸く中央塔に差し掛かったものの、中央棟広間上部を覗き見る間もなく、一行は狭い中央南廊下階段に入り込んでしまった。
『――ところで、丸島さんは?』
ミエコが半ば不満げに問うた。
『調べ物ですよ。もっとも、ここの通信機を使ってすぐに呼び出せるでしょうが』
『言霊石が接続された通信機――ここにもあるのね』
『えぇ。念じればすぐに姫まで届きますよ。少し頑張れば髑髏の数体もお届けできるでしょう』
『厭な配達ね』
くくっ、と志乃が肩を揺らした。
『姫が聞いたら起こりますよ、お嬢様』
連続する階段にも拘わらず、志乃はけろりとした顔である。ミエコはふと、以前の立川偽装神社――アスタトロとの遭遇時に志乃がいなかったことを思い出した。体調不良、と伊沢から聞かされていたが、今は全然そんな素振りはない。『|メイド・オブ・オールワーク《何でも屋》』の志乃が――健康に掛けては御転婆娘を遥かに凌ぐ丈夫な志乃が、一体どうしたのか。
脳裏を過った疑問は、しかし眼前の階段という労力に掻き消され、ともすれば薄らぎ、やがて総理大臣直々の指命による調査の重大さが頭を擡げた。
『――で、目的の場所ってまだなの? 階段ばかりで飽きたわ』
愚痴まじりの真剣な問いに、黒衣の巫女が半ば笑みを含んで答えた。
『じゃ、飽きない話をしてあげる。――帝國議事堂の天辺は階段でしか辿り着けない展望室になっているの。基本非公開のね。で、その真下に広いフロアがあるのは知ってた?』
『知らないわよ、そんなの』
『――目的地はそこ。彼処には私達「羅刹」が設置し、最大級の迷妄術を掛けた特殊な神社があるのよ』




