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第69話 オポチュニストの悲哀

『長い顔ね』

 通された応接間にて、乙女が抱いた酷く不躾な感想である。

 窓の向こうには、秋空を背に霊峰富士が悠然と聳えている。市井羨む眺望は、世評の通りのままである。だが、乙女の眼は向けられない。神宮司家の幾つかある応接間と似たような雰囲気の中、柔らかいソファーに腰を沈めていた乙女は、米次郎と一緒に立ち上がり、頭を垂れた。

 ――長い顔。

 実際に見たことはなかった。

 ニュース映画で見た横顔、新聞写真の正面、耳に残る甲高い声。縦に伸びた面差しと、チョビ髭。やや曖昧な印象を上書きするように、新たに長い顔――無礼な印象が乙女の脳裏に刻まれた。


「態々来て貰って申し訳ないね」

 労い言葉にすら疲れが滲み出ていた。

「御身の御多忙は、国民全てが存じております故」

「そう畏まらなくても結構ですよ、神宮司さん。それに――」

 その子が、と近衛がミエコに視線を向けた。

 乙女は静かに「神宮司美映子と申します、近衛様」と、(うやうや)しく頭を垂れた。

「よく出来たお嬢さんですね。話は色々聞いているよ」

 と悪気ない様子で近衛がはにかんだ。

(いったい何を聞かされてるんだか――)

 幼い頃の悪戯か。

 高等女学校での騒ぎか。

 闇夜に舞う羅刹の面影か。

 乙女の脳裏を色々な可能性が駆け巡り、僅かに紅潮したのを見計らって、米次郎が髭を揺らしながら笑った。

「えぇ、我が子ながら、よく出来た娘でございます」

「お、お父様!」

「微笑ましい限りではないですか、神宮司さん。こういう話ばかりなら、政治も楽なんだがねぇ」

 悲哀に満ちた溜め息が、荻外荘の居間に響いた。



 それから暫く、近衛の独白が続いた。

 愚痴と言ってしまえば簡単であるが、悩みの種は市井の理解を超えている。

 第一次近衛政権の頃、彼は日本中の期待を一身に背負っていた。世界恐慌が終わって漸く復活の兆しが見え始めた頃に、二・二六事件の騒乱が起き、軍内部の権力闘争が繰り広げられ、広田弘毅内閣、幻の宇垣内閣、短命の林銑十郎内閣と、政治も混乱の渦中にあった。

 元老西園寺の指命もあり、政界の貴公子(プリンス)大命降下(総理大臣就任)を受ける――。

 然うしてすぐに事変が始まった。

 最大の国難に政治は無力であるか?

 否、と国民は期待する。

 持ち上げられた神輿はそれはそれは立派だった。藤原鎌足まで遡れる、長き日本の歴史に刻まれた赫々たる堂上家(昇殿出来る家柄)の血統を以て、この未曾有の国難に相対していく。

 ――だが現実は甘くなかった。

 軍部、政治家、マスメディア、様々な持ち手が好き勝手引っ張っては押し出した。期待を掛けられながら、それに応えようとした神輿も、遂に疲れて投げ出した。

(思えば可愛そうな人ね)

 五摂家筆頭、帝大卒、百八十センチを越える貴公子らしい端正な容貌。誰も彼もが彼に総理の座を期待した。そして就任直後に日華事変が起き――彼は事変の不拡大と拡大を、風見鶏のように対応を変えてしまった。

 本人に自覚があったかどうかは分からない。だが、少なくない人間が近衛の軽薄な態度に嫌悪感を抱き、背を向けたのは事実である。新体制の構築――ナチスドイツ、ソビエト共産党の如き独裁政党を構想し、満を持しての再登壇。

 だが、国難は今も続いている。

 第一次政権時に犯した失敗(事変拡大)をまるで忘れたように。

 政党の消滅という議会政治の息の根を止め。

 神輿は再び帝国の頭上に持ち上げられる。


 もっとも、その同情も長くは続かなかった。

 ミエコは政治に疎い訳ではない。新聞も読むし、海外情勢にも耳を傾ける。御転婆娘と言われていようが、それは能動的姿勢の裏打ちでり、学校の成績――常に上位であるという事実の証左でもあった。

 何事も集中して学ぶ、学べる。

 聖ウルスラ高等女学校の閉鎖性に足を引っ張られているが、それでも尚、乙女はこの昭和十五年の大日本帝国の現実を、つぶさに見つめてきた。

 故に戦争を嫌い、自由を好んだ。

 だからこそ、近衛文麿に対する親近感など絶無であった。

 

「……陸軍の圧は予想以上だ」

 弱気が空気を湿らせる。

 堂々と表舞台に立っているはず、独裁に舵を取り、革新政治を実行したいという男の面影も声も、首の角度すら――威厳を感じさせるものは何一つなかった。

「今般の情勢下、帝国が生き残るには強い指導者が必要だ。そうだとしても、結局、政治家は彼ら(軍部)にとっては()()()()()()()邪魔者に過ぎない。満州事変を起こしたのも彼ら自身だというのに、その尻拭いを、……暴力で脅しながら我々に求めてくる。予算を通したのは、失敗だったんだろう」

 近衛の反省めいた愚痴に、乙女は御影大佐を思い出した。

 彼の者も――『羅刹』を利用し、怪異を、人間を、ありとあらゆる者を利用する。然うしておいて、自らは全く表に出ない。国民の視線も、声も何者からも()()()()()

「我ら『羅刹』に出来る事がございましたら、どうぞお申し付けください。――姫も、この戦争の行く末を案じております」

 米次郎の申し出に、近衛は静かに首を振った。

「……そうだな。だが、それには及ばんよ、神宮司さん。影の力を借りて国を正すは、正道に非ず。一線を越えてはならぬ。その心意気だけは、本当に有り難いが」

 歴代の総理と同じように――と言葉を締めくくった。


 ミエコは頭を垂れている父の顔を見た。

『お父様』

 乙女が言霊石で父に声を掛けた。

『どうした美映子』

『私達って、陸軍以上に横暴な存在なのかしら……』

 『羅刹』の存在は公にはされない。近衛の言葉から滲む『羅刹』の評価は、()()()()()()()()――なのだろう。乙女は善意の裏にある本音を、酷く冷静に受け取った。

 中世以来、時の権力者に迎合しつつ脅しつつ。

 もし権力者が反旗を翻し、異能と怪異の闇を暴こうとしようものなら、滝夜叉姫から術を掛けられ煙に巻かれたことだろう。それでも抗い、敵対したならば……、歴史上の人物の何人かは、『羅刹』がその命を奪っていたに違いない。近衛も五摂家の歴史があるだけ尚更に、その事実を重く受け止めていたのだろう。

『言うな、美映子。仕方のないことなんだ』

 諦観の父と距離を取ろうとする近衛。乙女が悲壮な顔を浮かべていると、近衛は「あぁ、すまない」と頬を掻いた。

「本来の依頼を忘れて愚痴を零してしまうとは、私も疲れているのだな」

 照れ隠しに季節外れの団扇をパタパタ仰いだ。

「本日呼んだのはだね、神宮司さん――いや、君達『羅刹』にしか依頼できない案件なのだ。ある場所を、君達の力で調()()して欲しいんだ」

  咳払い一つに調子を整え――、近衛は霊峰富士の高みを眺めながら依頼を口にした。



 帝国の中枢、帝国議事堂――。

 誰もいないはずの天井から、妖しい声が聞こえてくる――と。


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