第67話 戦争なんてなければいいのに
「な、な、何言っとるんじゃ! ミエコ嬢!」
変化を解かぬまま、虎顔の丸島が甲高い声を上げた。あんぐりと開けた口から牙が覗いているが、今ばかりは威厳もへったくれもない。銘々が呆気にとられる中で、――ミエコだけは酷く真剣な顔をしていた。
「『ミエコ、あんた――』」
「『気にしないで、ヒノエ。――戦争なんて全部クソじゃない。どっちに転んだって、碌な事にならないわ。お互いに殺し合ってるんですもの。暴支膺懲なんて言ってるけど、大陸で不利になったらどうするつもりよ? 自分の国だけが安全で、絶対に業火に焼かれないなんて、あり得ないでしょ』」
取り繕ってなどいない。寧ろ本気で危ぶんでいるからこそ、あの怪異の予言が、乙女の心にずっと影を落としていた。世界中が戦火に呑まれていくなら、銃後だけが安穏としていられるはずもない。太歳が、ヨルムンガンドが、――陰気の奔流が世界を侵しているなら尚更だった。
罷り間違えなくとも『売国奴』の烙印を押される乙女の暴言である。だが、揺るぎない乙女の貌を見てアスタロトは愉快そうに笑い、シャンランが「――へぇ」と興味深げに感嘆を漏らした。
『くく、面白いですねぇ。起きるかどうかも分からぬ事を、斯くも断言する人の子がいようとは』
先程までの仏頂面はどこへやら、
『吹き込んだのは、何かの怪異ですかね』
と、アスタロトは上機嫌に冠を弄った。目元を隠しているにもかかわらず、目尻が笑っているのが見え透いていた。
「『アンタには関係ないわ』」
『ふふふ、結構。――成る程、はるばる来た甲斐があったものです。愚かなる人の子なれど、その愚直さ故に――未来を掴めるかも知れません。神に連なる痴れ者共に頭を垂れなければ、ね』
三叉槍の鋭い穂先は、もはやミエコ達に向けられてはいない。――そう思える程、アスタロトは優雅に槍を肩へ担いだ。
「『天使……、そちらの方も気をつけねばなりませんか。そうですか』」
喜色を浮かべた大悪魔に、伊沢が怪訝な顔の儘に応じた。
『人の子よ、我が警句は主の言葉と心得よ。――敵は悪魔だけではありませんよ。神に天使に、それに新参者が蠢いているのです』
――新参者?
聞き慣れぬ言葉にミエコが問い返そうとした時であった。
『アスタロト』と、滝夜叉姫が突然鋭く釘を刺した。
『ルシフェルが何処まで考えているか知らぬが、伝言は正確にせい。天使どもの暗躍は今に始まったことではないわ。お主の命は、この災禍という火種に油を注ごうとする輩を、太歳の暴走も、彼奴ら含めて止められるか確認することであろう?』
畳み掛ける様に語気を強めた姫の言葉に、アスタロトは僅かに口角を下げた。
やがて溜め息一つに肩を竦ませた。
『何にお怒りか存じませんが――その通りですよ。「暗黒の知啓団」という愚者の群が、人の子ばかりではありません。天使にも、愚かしくも悪魔にも危害を加えようとしているのです』
「『なんですって――!』」
思わず乙女が叫んだ。あの首領が、人間と怪異に喧嘩を売る事など、正直ミエコにはどうでもよかった。ただ一つ、級友の中宮が心身共に囚われの身である事実。それだけが胸の奥を冷たく締め上げた。彼女が人からも怪異からも敵として狙われてしまう――その怖れに乙女の柔肌は粟立った。
「『あいつ……なんで』」
『あら、目的は分かりやすいじゃない。ミエコさん』
シャンランが唇一つ動かさず、視線だけを投げた。
『天使も悪魔も人間も、みんなまとめて喧嘩売ってんのよ。考えられるのは二つだけ。――一つは、全ての登場人物が舞台の上でしっちゃかめっちゃかの大喧嘩している混沌そのものを目的にしている場合。もう一つは、混沌の影で自分達の目的を通すつもりでいる場合。――この2つしかないわ』
シャンランが『暗黒の知啓団』についてどこまで知っているか、ミエコには判然としなかった。だが見得を切った割にはボンヤリとした回答に、乙女は僅かに安堵した。なぜ安堵したのか、自身にも分からない。それでもミエコは、細やかな笑顔を浮かべて『そうね』と返した。
「『あいつはこの世を闇で覆って世界平和を、なんて嘯いてたわ。でも悪魔にも喧嘩を売っている所を見ると――その闇は悪魔じゃない。もっと別の――』」
『そこまでじゃ、ミエコ』
滝夜叉姫の嗄れた声が、一段重くなった。
『そこで詮議しても意味はなかろう。――アスタロトよ、用向きが済んだのなら、主ルシフェルへ報告すると良い。ヒノエ達もご苦労であった』
「『姫、しかし――』」
『もうよい』
伊沢の抗議すらぴしゃりと退けて。乙女であればむっとして食い下がる所であろうが、もうすぐ三十路に近づく黒衣の男は――言葉を呑み込んで静かに頭を垂れた。
『――それでは、私はお暇致しましょう』
アスタロトが手綱を引くと、ドラゴンの首がぐいっと大きく持ち上がった。鋭角の翼が扇のように広がり、大きく羽ばたきを始めると、境内一杯に突風が巻き起こった。間もなくドラゴンの巨体とアスタロトの巨躯は、まるで重力から解き放たれたかのようにふわりと浮かび上がった。
偽装神社に落ちてきた時のような赤いヴェールはない。一羽ばたきで鎮守の森を軽々と跳び越えるほどの飛翔である。ミエコ達がそれぞれに見上げる中、
『人の子らよ、我が主の戯れ――地上にばら撒いた秘石の力を手に、これからも神を疑い、天使に矛先を向けるのですよ。ハハハハ――』
と高笑いしながら、戯れ言とも真言ともつかぬ言葉を投げつけた。
「『なんやて――』」
丸島が叫んだ時には、既に身体は闇空に融けていた。境内に木霊するのはドラゴンの羽音、脳内に残るのはアスタロトの嘲るような高笑いだけであった。
「どういうことじゃい、いったい」
「気にしない方が良いわ。ただの悪魔の戯れ言よ」
ヒノエがぶすっとした顔で腕を組む。「いや、姫の方じゃい」と牙を剥き出しに不満を漏らした丸島をよそに、シャンランはニヒルな笑顔を浮かべていた。
「故弄玄虚」
『煙に巻いちゃって、いやねぇ』
中国語と日本語を上手く使い分け、シャンランは拳銃をホルスターに収めると、くるりと踵を返した。
「『シャンラン、もう帰るんかいな』」
『えぇ。危機は去ったでしょ? これで貸し借りはナシよ』
颯爽と、足取り軽く去って行く舞台女優に、猿渡が追いすがるように「ま、待って――」と声を掛けた。
「那么、大家再(それじゃあ、また)」
手榴弾を纏った白いブラウスが、闇夜に融けていく。歩き方すら美しい去り際に、ミエコが見蕩れていると、突然うへへへ、と気色悪い笑い声が境内に響いた。
「李香蘭に、声かけて貰っちゃったぁ――」
銘々が呆れる中、猿の間抜けなニヤけ顔が境内の闇に燦然と浮かんでいた。




