第66話 シャンラン爛爛と
何もかもが、この夜には似つかわしくない。
少なくともミエコには、そう思えた。
夜半の神社は、墨を溶かし込んだような闇に沈んでいる。鎮守の杜は漆黒の装いである。点在する灯籠の朱が、まるで血の色のように空気へ滲み出ている。湿り気を帯びた冷気は既に失せ、代わりに研ぎ澄ました静寂が満ち満ちていた。
そこへ――。
薄闇の中、淡く光るアスタロトの身体と灯籠の朱が交錯する境内に、一人の女の姿が瞭然と際立っている。黒髪は光を受けて細く艶めき、肩の所で切り揃えられた黒髪は、濡羽のような艶を帯びながら軽やかなウェーブを描いている。真っ白なブラウスの上に、サスペンダーや肩掛けベルトを装甲のように纏う。胸元から細い胴体にかけて、まるで葡萄のように手榴弾が幾つもぶら下がっていた。
きっと捥ぎ取っては片っ端から投げつける――のだろう。
くっきりとした目元に引き締まった唇。整った眉に睫毛は、確り化粧で整えられ洗練された女の顔である。頬は柔らかな膨らみを湛え、顔は意気軒昂、溌剌とした若さの気配が溢れていた。
彼女の傍らに佇むデービッドが佇んでいる。
いつも手にしていた奇妙な杖を両手で構え、杖先をアスタロトに向けていた。学帽に外套、すっきりとしたフォルム。――にも拘わらず、妙に曲がりくねった杖を常用していた。ミエコはかねてより不思議に思っていたが――漸く理解した。
あれは、銃だ。
太い杖の芯は真っ直ぐ一条を保ちながらも、上部に行くに連れ流木の様相――無骨に太く歪んでいる。だが歪みではないのだろう。石突きにはぽっかりと丸い穴が空いており、手元の持ち方から察するに、――あれは彼の長物なのだろう。
かつて暗黒の知啓団首領に襲われた光景を思い出し、きっと刃も入ってるに違いない、と乙女は一人静かに首肯した。
あまりに場違いな二人が、石造りの鳥居を潜ってこちらに歩み寄ってきた。
「シャンラン! 何でここにおるんや⁈」
獣の瞳が真ん丸に開かれ、大声が響き渡った。
シャンラン――中国人だろうか?
ミエコは暗闇に浮かぶ女を改めて凝視した。確かに中国人にも見えるし、日本人にも見える。
(どこかで見たような……)
乙女の疑念は共有されず、一時弛緩した空気の只中を女は悠然と歩を進めた。
『上海で助けて貰った恩義は返さないとね』
シャンランと呼ばれた女は、腰のホルスターから颯と拳銃を抜いた。改良大型拳銃なんて華奢な女性に似つかわしくないのに、やはり遠目に見れば渾然一体のバランスを美しく保っている。
無言のまま、銃口はアスタロトへ向けられた。
示し合わせるようにデービッドも構え直した。
『デービッドさん』
『助けに来ましたよ、皆さん』
微笑みを浮かべて僅かに歯を覗かせた。
「随分と勿体付けた現れ方してくるじゃない。――何? 中国と英国の共同作戦?」
短弓に再び矢を番えたヒノエが、呆れ気味に呟いた。
「そうデスヨ。来日していたシャンランさんと、横浜でアイまして」
「シャン、ラン――?」
デービットの言葉に反応したのはミエコ達ではなく、向拝柱の陰に隠れていた猿渡であった。柱の陰から頭を覗かせると、突然「うえっ」と嘔吐くような声を喉から漏らした。――アスタロトがまだ居るにも拘わらず――柱から飛び出てきた。
震える指で女を指差した。
「り、り、りこう――、李香蘭んんッ!」
酷く素っ頓狂な声であった。
「えっ――?」
猿の言葉でミエコは思い出した。
確かにそうだ。
雑誌のグラビアで見たことがある。初江達と女優の話で盛り上がった時にも話題に上った。中国人俳優、歌手で現在人気爆発中の――李香蘭だ。ミエコの記憶にある彼女のブロマイドはチャイナドレスに身を包む麗人そのものであった。
しかし。
『今、そう呼ばれるのは厭なのよね』
シャンランは酷く倦んだ表情のまま念話で答えた。
『仕事は仕事。今この瞬間は「女優」じゃないわ』
引き下ろされた撃鉄、シャンランの指先が安全装置を外した。
『……ヨシちゃんの言う通りね。あっちでもこっちでも火の手が上がり、闇が映える。欧州の大悪魔まで現れる始末。――人外の始末は人の手で行われるべきよ』
連発射撃が可能になった改良大型拳銃が、悠然とアスタロトの冠に向けられる。しかし、優雅に構える美しい女優の立ち姿に、猿は鼻の下を伸ばして見蕩れている。命のやり取りが行われる戦場だというのに、である。恰度間に立っていたミエコは、あまりの落差に思わず苦笑いを浮かべるしかなかった。
痺れを切らしたのか、アスタロトが再び手綱を引いた。
『――人の子よ。私に気取られず近づくとは、何かの異能の持ち主ですね。しかし――』
と三叉槍を再び振り上げた刹那。
バンッ――!
突如として。
話を打っ手切るようにシャンランの大型拳銃が轟然と火を噴いた。
機関銃、或いは散弾銃にも似た鉄の暴風。乾いた銃声が連続して夜気を震わせた。着脱式弾倉に用意された二十発の拳銃弾が、鉄火のシャワーとなってアスタロトに浴びせかけられた。
常人なら反動で狙いなど定まらない。成人男性――軍人でこそ制御に苦しむ代物だ。
だが暴れ狂う銃口だからこそ、アスタロトは避ける術を持たなかった。全身隈無く清祓の光環がバチバチと輝き、その内の何発かは確実に黒い外套を貫いていた。
三叉槍の反撃も間に合わず、槍を杖代わりに前のめった。
『ぐッ……、卑怯な!』
『悪魔に「卑怯」って言われるなんて、光栄だわ』
(格好いい……)
ふん、と鼻を鳴らしたシャンランに、ミエコは呆然と彼女を見つめていた。
未だ猿が見蕩れて立ち尽くしているが、――その気持ちも分かる。彼女の魅力は外見だけじゃない。スマァトで男勝りで、洒脱で肝が据わっている。無骨な装備も彼女が纏えば舞台衣装――、凛と佇む姿勢など銀幕から飛び出てきたようであった。
『貴様ァッ――!』
突如、アスタロトの怒声が脳髄に劈く。
猛然と手綱を引き、三叉槍を即座に引き戻した。器用に体勢を立て直すと、三叉槍を脇の下から繰り出すように鋭い刺突がシャンランに向けられた。
闇を切り裂く三叉槍が煌めく。
しかし――シャンランが避ける迄もなく、突然彼女の眼前に黒い影が地面より迫り上がった。
弾丸のような三叉槍は、影を突いたまま、ピタリと空中に止まった。
否――、止められていた。
ボンヤリとした黒い影が、俄に貌を得る。
朱に照らされて浮かび上がるのは、かつて見た鬼。
岩肌のように迫り上がった上腕二頭筋に三角筋、大黒柱と見紛う程の首、鋭い爪も角も、ありとあらゆる筋肉が人間離れの造形である。丸島と比較しても目の瞠るばかりの巨躯である。かつては人形から生えた茨木童子が、その隻腕で三叉槍の刃先をガッチリと掴んでいた。
思わぬ登場に驚いたのか、アスタロトが一瞬身体を震わせた――その時。
パンッ――と突然、伊沢がに手を叩いた。
『そこまでで勘弁して貰えませんかネェ、大公爵アスタロト殿』
拍手を合図にするように、次々とアスタロトの周囲で影が迫り上がった。一体、二体、三体――と、瞬く間に茨木童子と似たような鬼達が貌を得た。
ミエコの横にも仰ぎ見るばかりに大きい鬼が現れる。鬼達の赤い眼が溢れ出る殺気を宿してアスタロトを睨んでいた。
『我が姫も、これ以上の争いを良しとしておりませんので――』
伊沢が深々と溜め息をついた所で、ミエコ達の脳内に、かつて聞いた嗄れたあの声が響き渡った。
『そこまでじゃ、ルシフェルの使い』




