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第65話 人の子は愚かなりしも果敢なり 

槍が振り下ろされる刹那。

 アスタロトをぐるりと囲む銘々が、合図をした訳でもないのに一斉に後ろに飛び退いていた。理屈ではない。死と隣り合わせの修羅場を掻い潜ってきた者だけが持つ、生物的な勘であった。

 張り詰めた空気が、硝子細工に鉄槌を打ち下ろすが如く、一瞬で粉々に砕け散る。アスタロトが高々と掲げた三叉槍は、ミエコの眼前、雷霆めいて境内の石畳へ叩き込まれた。轟、と肚の底を揺らす衝撃と共に、砕けた石片が水飛沫のように舞い上がる。

 白々とした月華を浴びて、砕石のシャワーがミエコ達に降りかかった。頬を掠めれば肉を裂き、目に入れば失明すら免れない凶悪な雨。それでも奇跡的に石片は悉く外れ、暴威に怯むより早くヒノエが動いた。


 ヒュッ――。

 甲高い風切り音が初秋の夜気を裂く。ヒノエの短弓から放たれた()()()()()()は、せいぜい五メートル足らずの間合いを疾風の如く駆け抜け、真っ直ぐアスタロトの顔面へ吸い込まれていく。

 人間であれば、瞬き一つ挟む暇も無かろう。

 だが――アスタロトは口の端を気色悪いほどに歪め、()()()。アスタロトは蛇の如く――目にも止まらぬ早さで上体を艶めかしく反らした。

 必中の矢は紙一重の所で、ぬらりと躱された。

『そこッ――!』

 ミエコの二十六年式拳銃が火を噴く。乾いた銃声が社叢に響き渡る。外しようもない巨躯である。たとえ射撃に難ありと評されようと、この距離なら頭か胴体を打ち抜ける――乙女は確信し引き金を引いていた。黒地に赤の紋様が毒々しい外套。その何処かに銃弾が食らいつく、そのはずであった。

 しかし。

 アスタロトの前に、ぬっとドラゴンの頭が割り込んだ。銃弾は厳つい顔をしたドラゴンの眉間に着弾した。瞬時に目映い光環が――清祓(きよはらえ)の霊光がフラッシュのように境内を目映く照らす。ドラゴンが「ギャッ」と耳障りな呻り声を上げたが、肝心の銃弾は鋼鉄の鱗に虚しく弾かれてしまった。


『小娘……まずはお前から』

 怒気を孕んだ低い声。弾丸を受けた怒りか、ドラゴンの双眸が赤々と燃えていた。アスタロトが顎をしゃくると、ドラゴンは長い首を擡げ、肺腑いっぱいに空気を吸いこんだ。

 まずい――。

 ミエコが飛び退こうとした、その時だった。

「こっちじゃ! 大トカゲ!」

 獣じみた怒声が響き渡った。

突如として横合いから飛び込んできた巨影が、ドラゴンの頭部へ拳を叩き込んだ。

『丸島さんッ!』

 いつの間に脱ぎ捨てたのか上着は既になく、筋骨隆々、斑模様の剛毛がぞわぞわと生やしながら丸島の巨躯が闇夜に撥ねた。三メートルを優に超える竜の首筋へ肉薄し、その爬虫類じみた細長い面を、渾身の力でぶん殴る。鈍い衝突音が境内を震わせた。


『ほぅ――』

 ドラゴンの頭部が爆ぜるように大きく仰け反り、牙の間から火花混じりの吐息が漏れ出た。焦げた臭気が広がる中、ドラゴンの手綱を巧みに御し、アスタロトは流れるような所作で丸島に三叉槍を勢いよく突き立てた。

 しかし、丸島の鋭い爪と豪腕は――貫き引き裂くばかりではない。

「ぬぅッ!」と唸り声を上げると、その豪腕が鋭い三叉槍の槍先を真っ向から掴み止めた。ギチギチと刃と爪が噛み合い、肉と骨が軋むような音が辺りに響く。二頭の荒牛ががっつり角突き合わせ、石畳が震えるようであった。

『ヴェアヴォルフ、ルー・ガルー……ではありませんね。なるほど、実に興味深い』

 アスタロトは僅かに喜色を浮かべた。

余裕ぶってるんじゃないわよッ!」

 ミエコが叫び様、二発目を撃つ。乾いた破裂音と同時にヒノエの放った二の矢が襲いかかる。


 しかし――、()()()()()()()

 必中と思われた弾丸は、またしてもアスタロトを掠めるばかりであった。ぬらり、と気色悪く捻ったかと思えば、弾丸は黒い外套の裾端を貫いたに過ぎない。続いたヒノエの矢も同じであった。ドラゴンの翼が――まるで察知していたように、不気味に蠢いたかと思うと鈍い音を立てて矢を弾き落とした。

 ちぃッ――とヒノエが舌打ちした途端であった。

「うぉぉッ?!」

 丸島が素っ頓狂に叫んだ。

 アスタロトが巧みに三叉槍を捻った。

 たったそれだけの動き。にも拘わらず赤子の手を捻るが如く、槍を掴んでいた丸島の巨躯がぐるり振り回され、無様に石畳にたたき伏せられてしまった。

「丸島さん!」

 ミエコが思わず声を上げた。だが丸島は答えるまでもなく、獣さながらの驚異的な跳躍で跳ね起き、後方に飛び退いた。それでも三叉槍の穂先は執念深く、第二撃を加えるべく丸島を直線状に捉え続けていた。

(まずいッ)

 咄嗟に三発目を放った。

 だがまたも弾丸は――狙ったアスタロト本体ではなく、瞬時に身を起こしたドラゴンの分厚い胴体に着弾し、甲高い金属音を響かせるばかりであった。


 

『どうして――』

 ミエコが怪訝に零した。

 銘々がジリジリと後退りし、距離を取り始めたところでアスタロトは静かに嗤った。

『甘いのですよ、人の子よ。その()()()の力は中々のもの。なれど所詮は猿の浅知恵――()()()()()には至りもしまい』

 猿――、と聞き、ミエコは半ば無意識的に向拝柱の陰へ目を遣った。

 見事に身を縮ませて頭と尻を隠した猿は、外套の裾だけをチラリと覗かせている。尻尾の如く小刻みに震える裾が、当人の怯えきった有様を雄弁に物語っていた。

 その一方。

 微塵も動じず、剣指に呪い言葉を呟き続ける伊沢が目に止まった。

 その様子に気づいたのか、アスタロトはゆるりと手綱を引き、ドラゴンごと神社本殿への向きを変えた。

『……(はかりごと)などさせませんよ! 我が毒で骸を晒すがいい』

 突如、アスタロトは手綱を目一杯に引いた。

 ドラゴンが再び大きく首を反らす。鋭い牙の奥から、赤とも黒とも付かぬ瘴気がどろりと滲み始めた。炎――或いは宣告通りの毒か。乙女達が三度飛び退こうとした、その時。



「離れてッ!」

 鋭い女の声が闇を劈いた。

 冷たい風に乗って、黒い塊が闇を滑るように放物線を描いて飛んでいく。アスタロトの背中に向かって飛び込む、無骨な溝が刻まれたそれ(手榴弾)を認めた乙女達は、反射的に離れるように地面へ身を投げた。


 刹那。

 轟ッ――と境内を揺るがす爆音が炸裂した。爆風がアスタロトの背中を直撃し――夜の境内を紅蓮の炎が、清祓の白光が赫々と照らし出す。真っ白い爆煙が渦を巻き、熱風が吹き荒ぶ。

『ぐッ――!』

 初めてアスタロトが苦悶の声を漏らした。伏せていたミエコ達は――伊沢を除き、耳鳴りに顔を歪めながら漸く身を起こしたところであった。

 


『危なっかしいわね、羅刹は』


 

 先程、境内に響き渡った女の声。

 鳥居の方角からである。暗闇から染み出るように姿を現したのは見知らぬ若い女と、漆黒の留学生――デービッドが、鋭い眼差しでこちらを見据えていた。

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