第64話 アスタロト
静寂とは平穏を意味しない。緊張と均衡は両立し交錯する。かつて欧州戦線に存在したファニー・ウォーの如く――当事者同士の殺気と恐怖が、奇妙な静けさを産み出すのだ。張り詰めた空気がピリピリと肌を突き刺し、初秋の風は導火線に着いた火を煽るように境内を吹き抜けていった。
陣風吹き止み、ミエコは拳銃を抜き構えた。
銃口の先には怪異。
見れば見る程――これまで目撃したどの怪異とも異なる。
翼の生えた竜に、手綱を握った白人。――否、人というには大きすぎる。
豪壮な意匠の黒いロングコートを纏い、顔には特徴的な金属製の冠が垂れ下がる。鼻先まで覆う程大きく、闇夜に淡い光を帯びている。隠された瞳故に、機械的な印象すら覚えた。
怪異は成人男性の倍以上ある巨躯を悠然と反らせ、手に持った三叉槍を遊ぶように回した。
『やれやれ、斯くも雁首を揃えると壮観ですね』
威圧的に過ぎる口調だ。外見に違わぬ尊大さに、乙女心は反骨の気概を滲ませた。
『――誰よ、あんた』
物怖じしないミエコの問いに、尚も怪異の口元は真一文字で揺るがない。
『ほぅ、動じぬか。蛮勇か無知か、――そのどちらもかね』
馬鹿にされている。でも怒りなんてちっとも湧かない。怪異とは得てしてこういうものだもの――。ミエコは脳裏に染みついた怪異達の妖しい言葉を思い出しつつも、眼差しは冷静に状況を見つめていた。
怪異が跨がっているドラゴンは、赤い瞳に白い牙を剥き出しこちらを威嚇している。赤黒い皮膚は光沢を帯びた燐に覆われ、如何にも刃の一片すら通さぬように見えた。それを操る人型怪異も――、何処かで見たような気がしてならない。
訝しげに銃口を怪異に向け続けていたところで、「あぁ」と伊沢が扇子を叩き、口元をひっそりと隠した。
『そのお姿、思い出しました。――なるほど、地獄の大公爵殿でしたか』
社殿前の伊沢に相対するように、怪異はドラゴンの手綱を引き、ぐるりと向きを変えた。
『ほぅ――、我を知る者がこの東の果てにもいようとは。――やはり人の子は面白いものですね』
満足げな言い方だ。
『……何よ、地獄の大公爵って』
意外にも首を傾げたのはヒノエであった。
短弓を僅かに下げて眉を顰めたヒノエに対し、伊沢は酷く唇を歪めた。こちらの男も満足げ――意気揚々と語り出そうとした所で、ミエコが思い出したように口を挟んだ。
『地獄の大公爵――アスタロト、よ』
『アスタロト?』
『ヨーロッパじゃ有名どころの大悪魔よ。グリモワールや悪魔学じゃ上から数えた方が早い悪魔の中の悪魔よ。書籍でしか知らないけれどね』
ふぅ――、と溜め息交じりに息を整えた乙女にヒノエが苦笑を浮かべた。
『……あぁ、そう言えばミエコ、アンタは|ミッション・スクール《私立聖ウルスラ高等女学校》の生徒だったわね。今の今まですっかり忘れてたわ』
『別に学校のお陰じゃないわ。ただ、くそ真面目な規律が厭で、そっちの方もちょっと読んだことがあるだけよ。――確か、四十の悪魔軍団を率いる大公爵。「レメゲトン」の「ゴエティア」だけじゃないわ。色んなグリモワールで記載があって序列が変わったりするけど、少なくとも蠅の王ベルゼブブ、悪魔王ルシファーと肩を並べる――』
『小娘!』
縷々と語っていたミエコに対し、突如として怪異は怒り狂ったように怒鳴り声を上げた。
『口に気をつけなさい! 我が主はルシファー、私は主に仕える従僕に過ぎません。我が主への冒涜は許しませんよ』
三叉槍がぐるりと弧を描き、風切り音が甲高く境内に響き渡った。
『……あら、そうなの。これは失礼したわ。でもその尊大な口振り、何処ぞの陸軍軍人みたいで癪に障るの。堕天する前の影響かしら?』
『小娘――。今すぐその口を塞がねば、我が毒で息の根を止めますよ』
交わされた視線が今にも爆ぜそうなほど、殺気と意気がぶつかり合う。ミエコの的確な説明と火に油を注ぐ煽り合いに、伊沢が苦虫を噛み潰したような顔――見たこともないほどに嫌気を顔に滲ませていた。
『ミエコさんも大公爵殿もその気をお納めください。私どもは調査に来ただけです。赤い稲妻を、龍脈に反応する空飛ぶ怪異――貴方が何故、日本の上空を飛び回っているかをです。敵対する気など毛頭ありませんので』
随分と下手に出るな――とミエコが睨んだ所で、ヒノエが再び短弓を引き絞った。
『心にもないことを言うもんじゃないわ、伊沢。それに、このアスタロトとかいう怪異も、こんな所に話し合いに来たんじゃないわ。そうでしょ?』
『ほぅ、何故然う思うのです?』
『白々しいわね』と漆黒の乙女が吐き捨てるように言った。
『随分と挑発的な釣りじゃないの。真っ暗な夜空を赤い光がバチバチ光ながら飛んでるなんて、「私は此処にいます」「どうぞ来てください」って言ってるようなもんじゃない。――私達に接触するだけなら、普通に顔出せば良いのよ。でも大仰に空を舞い、軍人を怯えさせ、私達に対応を迫った。――つまり』
『ヒノエはんの言う通りや』
境内の地面で胡座を構いていた丸島が、のっそりを立ち上がった。
『怪異が怪異として姿を現すっちゅー時はな、目的がハッキリしとんのや。特に人語を解する怪異なんちゅうもんは、人間以上に人間臭いからのぅ』
『……試しに来たんでしょ、私達を』
ミエコが昂然と顔を上げ、銃口をアスタロトの冠に向けた。伊沢が一人、酷く落胆した顔のまま、黒いスーツの胸元に手を突っ込んでいた。
皆が銘々に即応出来る。
銃が、矢が、まじないが、変身すれば牙に爪が怪異に向かう。ぐるりと囲まれたアスタロトは手綱を握ると、天を仰ぎ見るように高笑いした。
『ははは、物分かりの良い小娘だ! ……良いでしょう。極東の島国に住まう人の子どもよ。我が尊き主命に基づき、――試させて貰うッ!』
三叉槍が点を突くように高く掲げられ、叩きの火蓋が切って落とされた――。




