前編
私はこみ上がる咳を抑えようと胸を押さえた。幼い頃から体が弱く、特に肺や気管支の弱い私はよく咳が出る。昔は発作のような激しい咳をしては高熱を出していた。今夜はその時みたいな激しい咳が出てしまい胸に鈍い痛みまで走る。
そんな痛みに呼応するかのように、私の胸を埋め尽くすのは喪失感や罪悪感。そして今も消えることの無い後悔の思い。
そんな思いを感じながら上着のポケットから包み紙を取り出した。水差しの水をコップに注ぐと私は苦い粉薬を口に含み水で流し込んだ。
この薬は即効性だ、あれほど激しかった咳がみるみる治まってゆく。ただし効き目が抜群な分、副作用も強いため決して多用してはならない薬だ。しかしそんな薬を毎夜服用しなければならない事態に私は陥っていた。
昔よりいくらかマシになったとはいえ、余り強いとは言えない私の体。鞭を打つように酷使しているからか疲れが一向に取れない。顔色の悪さを誤魔化すために化粧をしていたが、体まで痩せてしまえばどうしようもない。とうとう父上から勉強も公務も休んでしばらくベッドの上で安静にするようにと厳命されてしまった。
だからといって私は休む訳にはいかない。運良く与えて貰ったこの人生は贖罪の為に生きるのだと既に決めている。無理を重ねたせいで命を縮めることは私にとってむしろ本望だ。
だが寝る間も惜しんでがむしゃらに生きてきたからだろうか。気づかぬうちに私はあらゆることに長けた存在になっていた。そんな私を完璧な王子だと、さすがは王太子となる方だと皆が称賛してくれる。そんな言葉に驕ることもなく、日夜勉強に公務にと励み続ける私の姿を見て彼らは声を揃えて言うのだ。「貴方ほど未来の国王に相応しい方はいない」と。ずっと欲しかったその言葉を私は何より嬉しく誇らしく思っている。
そう、確かに心の底からそう思っているはずなのに、時々どうしようもなく苦しくて誰かに助けて貰いたくて堪らなくなる。訳も分からずに泣いてしまいたくなる、すがり付きたくなる。
でもそれは贅沢というものだ。泣いてすがって助けて欲しいだなんて、そんなことを思う権利すら私には無い。
……私は既に一度目の生を失敗している。失敗なんて生ぬるい、私は国王の癖に守るべき国民を苦しめ続けた『悪魔』そのものだったのだから。
着替える気力もなくなんとか上着だけ脱いでベッドに横になる。寒気からか体が小刻みに震え睡魔まで襲ってきた。疲れと咳のし過ぎで弱った体では睡魔に抗うことも出来ず、私は意識を失うように目を閉じた。
*****
レオナルドとしての人生はこれで二回目。神の奇跡の如き『時魔法』によって私は自分の時を逆行し過去へと戻ってこれた。
一度目の人生の話をしよう。
この国――ガルシア王国の第一王子レオナルドとして生まれた私は幼い頃から体が弱かった。度々咳の発作と高熱を出しては寝込んでいた私は医師から二十歳まで生きられないと宣告されていた。そんな私を両親は可哀想に思ったのだろう。私はそれはそれは甘やかされて育てられた。どんな我が儘も叶えられてしまう少年時代。自分が誰よりも偉い人間なのだと勘違いしてしまうのも無理はない。その結果、傍若無人な王子様の出来上がり……という訳だ。
この段階では私はただの体の弱いワガママ王子、いくらでも矯正の余地はあった。だが私……いや俺はとにかく愚かな人間だった。救いようのないくらいの愚か者だった。
そこそこ健康になった俺は十五歳から、貴族の子息令嬢の義務でもある王立ガルシア学園に入学した。俺は学園始まって以来の問題児として教師の頭を悩ませることになる。そんな俺は一年後、学園の名ばかりの生徒会長になっていた。
「俺はこの国の第一王子、未来の国王だぞ!」そう偉そうに言っては生徒達や教師に対して傍若無人に振る舞っていた。
そのくせ心の中では『どうして第一王子としてしか見てくれないのか』と訳のわからない思いを抱えていた。それが矛盾していることにも気づかないのだから自分のことながら呆れてしまう。
そんな俺の心の隙間に、元平民である男爵令嬢のマリアが入り込んでしまう。薄桃色のふわふわとした髪をポニーテールにした彼女は言葉巧みに俺に近づいた。常に俺が求める甘い言葉を囁いてくれる彼女に知らぬまに心を奪われていた。俺には幼少期に決められた、誰よりも美しく賢い完璧な婚約者がいたのにだ。
そんな俺は婚約者を裏切りマリアと口づけを交わしてしまう。それが地獄の始まりだとも気づかぬまま、俺はマリアとの生まれて初めての口づけに夢中になった。
そしてそこから先の記憶は靄がかかったようにぼんやりして思い出せなくなる。ここから先の記憶は、又聞きだったり俺の朧気な記憶を繋ぎ合わせたものになる。
後で知ったことだが実はマリアは魅了魔法の使い手だった。だが魅了魔法は専用の魔道具で防ぐことができるし、王族はその魔道具を常に身につけることが義務とされている。俺も指輪の形の強力な魔道具を常に指にはめていて普通であれば魅了魔法にかかったりはしない。
残念なことにどうやらこの世には更に強力な魅了魔法が存在していたらしい。発動条件が口づけと限定的なこともありその事実を知る者はほとんど居なかったのが災いした。そもそもが第一王子であるならば、信用出来ない相手と簡単に口づけを交わすなどあり得ないこと。暗殺してくれと言わんばかりの愚かな行為だ。
実際何代か前のこの国の第二王子が他国の令嬢に一目惚れし、令嬢の唇に遅効性の毒が塗ってあるのに気づかず口づけを交わした。その日の夜に王子は息絶え令嬢も違う毒を飲み死んでいたというショッキングな事件があった。そう、彼は他国のハニートラップに引っ掛かってしまったのだ。
愚かなことにマリアに心奪われていた俺はそんなあり得ないこと――口づけを行ってしまう。マリアと口づけをかわしてしまった俺は、あっさりと魅了魔法にかかる。それも強力な魅了魔法にだ。俺はそのままマリアの操り人形となってしまった。それはおぞましい地獄の始まりでもあった。
遊び呆けて勉強もしなければ最低限の公務もしない。公爵家の令嬢である自らの婚約者――シルフィーナを蔑ろにし、男爵家の令嬢であるマリアを侍らし寵愛している。一度目の人生の俺はそんな最低な第一王子であった。にも関わらず王太子になれると自信満々に思い込んでいた。
よく考えて欲しい。そんな王子を未来の国王にしようと誰が思うだろうか。しかもこの国にはもう一人、まだ幼いが第二王子のアレンがいるのだ。
やがて運命の夜が訪れる。
ガルシア王国国王である俺の父上の私室へ来るように言われた俺は、呼ばれてもいないのにマリアを伴い王の私室へと向かった。扉から現れた俺とマリアの姿を見た父上は大きなため息をついた。今ならば分かる。父上は俺に失望したのだ。
そして父上はゆっくりと威厳溢れる声で「お前は王太子には不適格だ」とそう俺に告げた。「このままではお前を廃嫡し平民に落とさねばならない」とも……。
俺は逆上しマリアは怒り狂った。
父上が何故私室でこんな話をしたのかなんて、少し考えればすぐに分かる。父上の愛情に恩情に気づくことも無いまま、俺は、俺は……! マリアに操られていた俺はその場で国王を、実の父親の胸を剣で刺したのだ。そして同じくその場にいた王妃を、自分を愛してくれていた実の母親の首に剣を突き刺したのだ。
それをマリアはニタニタと化け物のように醜悪な笑顔を浮かべて見つめていた。
俺は両親を手にかけると部屋を出て、そのまま弟であるアレンの元へと向かった。血みどろの俺を見て誰も何も言わなかった。ただ虚ろな目で俺を見つめているだけだった。それを不思議に思うこともなくふらふらした足取りで俺はアレンの部屋へ向かった。
まだ幼い弟はベッドの上でぐっすり眠っていた。今思えばそれだけが救いだ。アレンに恐怖を与えずに済んだのだから。
愚かな俺を見つける度に「兄さま、兄さま!」と駆け寄っては甘えて慕ってくれた可愛い可愛い弟。そんな弟のアレンの小さく細い首を……俺は力一杯絞めて殺してしまったのだ……!
マリアの魅了魔法に堕ちていたからとはいえ、どうしてあそこまで非道なことが出来たのだろう。いくら操られていたとはいえ、俺が大切な家族を三人共殺してしまったことに変わりはないのだ。俺は……人じゃあない、悪魔なのだ……。
マリアの魅了魔法が使われていたのだろうか。俺は誰にも反対を受けることなく国王へと即位した。
当然ながら王国の中はめちゃくちゃになった。有数の農業大国として名を轟かせていたガルシア王国。肥沃な国土、勤勉で優秀な貴族達。代々の国王は名君と名高く誰からも敬われていたガルシア王家はもう存在しない。
今王家に残るのは怨嗟の声で溢れる王国の極悪非道な国王である俺、ただ一人。そして王妃はもちろんマリアだ。俺もマリアも気に入らない者がいれば有無を言わさず処刑した。今思えばそんな無茶苦茶な道理が何の反発も無く通るはずがない。きっと貴族たちにもマリアの強力な魅了魔法がかけられていたのだろう。
やがて俺――レオナルドは悪魔の如き王『魔王』と呼ばれ世界中から恐れられる存在になってしまった。
そこまで堕ちきってしまった俺は婚約者であったシルフィーナに対しても非道だった。王妃であるマリアと毎日王国の金を使って遊び暮らしていた俺は、シルフィーナを側妃にして国王と王妃の仕事を全て押し付けていた。不眠不休で仕事をこなすことになったシルフィーナはみるみるうちに痩せ衰えていった。絶世の美女としても淑女の鏡としても有名だったシルフィーナ。そんな彼女は俺と婚約しなければ誰よりも幸せになったことだろう。
何故だろうか。そこまでされても文句一つ溢すことなく、いつも柔らかな微笑みを浮かべて俺を必死に支えてくていたシルフィーナ。「幸せか」と嫌みたらしく聞いてみれば「貴方のお側にいられるだけで幸せです」とはにかみながら聖女の如き言葉が返ってきた。そんな心優しい彼女まで俺は手にかけてしまうことになる。
皆から尊敬され愛される側妃シルフィーナ。皆から恐れられ嫌われる王妃マリア。自業自得の癖にプライドだけは高いマリアはシルフィーナを許せなかったのだろう。いきなり彼女を処刑すると言い出した。
俺は必死に拒んだ。「どうかシルフィーナの命は助けてくれ! 何でもする!」俺はマリアに懇願した。もしかしたら魅了が解けかかっていたのかも知れない。
マリアは「分かったわ」と答えてニタニタと笑った。すると急に俺に熱い口づけを与えたのだ。俺の意識はそこで途絶えた。
次に俺の意識が戻ったのはそれから数日後、場所は処刑場だった。なんでこんなところに自分はいるのなと焦った俺はギロチン台に目をやった。するとギロチン台には美しい女がくくりつけられていた。訳がわからず体が固まった一瞬の間に、ギロチンの鋭い刃がドスンと落ちた。
首がごろりと転がり切り口から鮮血がシャワーのように噴き出す様を俺はただ呆然と見ていた。常闇の艶やかだった黒髪は艶もなくパサパサで、誰よりも麗しかったその顔は痩せ細っていた。そんな姿でも首だけになってしまっても彼女は誰よりも美しい。そんな彼女はいったい誰なのだ……?
ずっと気づかなかった。只の婚約者、パートナーだと思ってろくに話もしなかった。失ってはじめて気がついた。俺は彼女に初めて出会った時からずっと愛していた。
そんな彼女は……誰よりも愛しい、誰よりも麗しい、誰よりも賢い、俺が心から愛するシルフィーナだ……!!!
その瞬間、シルフィーナを失った衝撃で俺の魅了魔法は解けた。その反動でもあるのだろうか麻痺していた感情が俺の心に一気に溢れ出した。
胸を埋め尽くすのは激しい喪失感や罪悪感。強い強い後悔の思い。父を殺し母を殺し弟を殺し、多くの罪の無い貴族を国民を殺した俺は最後にシルフィーナまで殺してしまった。なんて俺は愚かな人間なのか……。胸に沸き上がるのはどす黒い炎のような強い憎悪の感情。マリアと自分自身への憎悪だった。
俺は剣を抜くとマリアの胸を刺した。きょとんとするマリアの口からはゴポリと黒い血が溢れた。赤ではなく真っ黒なまるで闇のような血だ。「お願い、助けて!」ともがき苦しむマリアが息絶えるまで俺はただじっとマリアを見つめていた。やがてマリアは最後に大きく痙攣すると動かなくなった。
マリアの死を見届けた俺は、今度は剣を自分の首に当てた。父を母を弟をそしてマリアを殺した剣を。俺は目を閉じると剣に力を込めようと柄を握りしめた――その時だった。
「お待ちください、レオナルド様!」
目を閉じた俺の耳に涼やかな声が響いた。ゆっくりと目を開けるとそこには長い白い髪を一くくりにして、真っ暗なローブを羽織った美しい男性が立っていた。
彼の名は魔導師シヴァ。彼は今では伝説になっている時魔法の使い手だ。時魔法を使って三百年以上生き続けているシヴァは、この国の最高位の魔術師でもある。
「やっと私の声がレオナルド様に届いた、申し訳ありません。貴方様をあの「闇の魔女」の魔の手から救えなかった……!」