鉄の留め金
炉の明かりの中で、ダリアさんの左腕を見た。
添え木は、手首から肘の上までを、厚い革で筒のように巻いたものだ。外側に、細い金属の棒が二本、鋲で留めてある。前腕に一本、二の腕に一本。肘のところで、二本は小さな蝶番でつながっている。
革を締めるのは、三つの留め金だ。いちばん手首に近い一つが、外れてぶら下がっている。
ハンナさんが立ち上がって、座っていた桶を、黙ってこちらへ押した。
ダリアさんは少し迷ってから、そこに腰を下ろした。
ぶら下がった留め金を、指で持ち上げる。
鉄だった。赤く錆びて、爪が少し曲がっている。
外れたのは、留め金そのものではない。留め金を革に留めていた鋲の穴が、裂けていた。
その穴は、丸くなかった。手首のほうへ、細長く伸びている。
「今朝、急に裂けたんじゃありませんね」
「今朝だと言った」
「裂けきったのが、今朝です。この穴は、ずっと前から手のほうへ引っぱられて、少しずつ伸びていました。初めてお会いした夜には、もう留め金がずれていた」
ダリアさんが、俺の顔を見た。
「気づいていたのか」
「はい」
「言わなかったな」
「あの夜は、門のほうが先でした」
ダリアさんは、鼻から短く息を吐いた。
「左手で、重い物を引きますね。毎日」
「手綱。門の縄。……右がふさがっていれば、左しかない」
革の表には、縫い目の跡が何列も残っていた。今の糸の外側に、古い針の穴が三列、並んでいる。顔を近づけると、汗と油の匂いがした。
「革は、何度か替えていますね」
「四度。自分で縫った」
「棒と蝶番は」
「替えていない」
炉の火が、棒の上を流れた。
白っぽい色だった。鋲の頭のまわりにも、蝶番の継ぎ目にも、錆が一つも浮いていない。汗を吸う革に、何年も留めてあった棒だ。すぐ下の鉄の留め金は、赤く錆びているのに。
「留め金は、あとから付けた物ですね」
「町に来てから、替えた。棒は、そのままだ」
俺は道具袋から、布の包みを出した。
ほどいて、かけらを棒の上に載せる。
同じ色だった。
炉の火を受けて、かけらと棒が、同じように白く光る。どこまでがかけらか、すぐには見分けられない。
後ろで、ハンナさんが息を止めた。
「星銀だと思います」
かけらを指で押さえたまま、俺は言った。
「このかけらと、同じ色です。鉄が錆びる所で、これは錆びていない」
ダリアさんは、棒とかけらを見下ろしていた。
炉の中で、炭が一つ崩れた。
「留め金は、直るか」
それだけだった。
「直ります。手首のところの革を、一枚だけ付け替えます」
俺は、かけらを布に包み直した。
◇
「外してもらえますか。巻いたままでは、縫えません」
ダリアさんは、右手だけで、残りの二つの留め金を外した。迷いのない手つきだった。
添え木を抜くと、左腕を膝の上に置く。右手が、すぐに肘の上を押さえた。
腕には、添え木の形どおりに、白い跡がついていた。
添え木を、作業台に載せる。
コンラートさんから買った牛の革は、ふいごに張っても、端が残っていた。
裂けた手首の一枚をほどいて、新しい革の上に置く。炭筆で形をなぞった。昼にふいごの革を切ったのと、同じやり方だ。
ハンナさんが、棚から目打ちを出してきた。木の柄が、手の形に黒く光っている。
「うちの人のだよ」
目打ちで、古い針の穴の位置に合わせて、新しい革に穴をあけていく。
「お前の、あれでは、つながないのか」
ダリアさんが、俺の手を見ていた。
「つなげます。でも、継ぎ目は元の革と同じ強さにしかなりません。この革は、汗でもう薄い。つないでも、同じ所から、また裂けます」
「門の横木は、つないだ」
「樫は、まだ丈夫でした。割れたのは、受け金が合わなかったからです」
ダリアさんは、それ以上は聞かなかった。
糸を通す。一針ずつ、引いて締める。
しばらくして、ダリアさんが言った。
「門で、行商に、それを見せていたな」
作業台の端の、布の包みのことだ。
「星銀を、何に使う」
針が、革の途中で止まった。
聞かれたことには、答える。
「塔です。装置の留め具が、八本とも抜かれていました。代わりを打つには、星銀が要ります。鉄では、力が渡らない」
「八本」
「はい」
ダリアさんの目が、作業台の上の添え木に落ちた。
白い棒が二本と、肘の蝶番。
俺は、針を最後まで通した。
「俺が見せてもらったのは、留め金です」
糸を引いて、締める。
「添え木のほうは、ダリアさんが話すときに聞きます」
◇
新しい革に、留め金を当てる。ハンナさんの棚の鋲を一本、裏から通して、金床の角で頭をつぶした。
曲がった爪は、小槌で軽く叩いて戻す。錆は、やすりで落とした。鉄の地が、少しだけ光る。
最後に、蝶番に油を一滴たらした。
肘のところを、何度か折り曲げる。油が、継ぎ目の奥へしみていく。
「巻いてみてください」
ダリアさんは添え木に腕を通して、三つの留め金を、右手で一つずつ締めた。
それから、左の肘を曲げて、伸ばした。
音がしない。
ダリアさんは、もう一度、肘を曲げた。
「……鳴らないな」
「鳴っていたのは、乾いた蝶番です」
見積書を書いた。
――添え木。手首の留め金、革の裂け。革を付け替え、鋲一本。留め金の爪を直し、錆を落とす。蝶番に油。銅貨五枚。
――左手で、重い物を引かないこと。
ダリアさんは、注意書きの行で目を止めた。
「無理だな」
「分かっています。それでも、書きます」
ダリアさんは見積書を折って、胸の隠しに入れた。
「門の分と、一緒に払う」
「分割でも、かまいません」
ダリアさんは、短く笑った。門を直した明け方に聞いたのと、同じ笑い方だ。
戸口で、ダリアさんは一度だけ振り返った。
「明日の朝、塔へ上がる。案内しろ」
返事は待たなかった。
ハンナさんが、桶を炉の前に戻して、座り直した。
「あの棒のこと、頼まなかったね」
「頼まれたのは、留め金です」
「うちの人なら、頭を下げて頼んでたよ。一生に一度は打ってみたい、って言ってた金だもの」
ハンナさんは、膝を叩いて笑った。
「あんたのほうが、頑固だ」
戸の外で、足音が門のほうへ遠ざかっていく。
添え木は、一度も鳴らなかった。




