二行目
バルドさんは、背中から大盾を下ろした。
門の内側、男たちが縄を巻いた扉の横に、立てかける。何も言わなかった。
ダリアさんは、くぐり戸から外の雪を見ている。
「畑から、まだ一台、戻らん」
門の男たちが、横木に手をかけたまま待っていた。
しばらくして、雪の向こうで車輪がきしんだ。
「開けろ」
横木が抜かれ、扉が人ひとりぶん開く。入ってきたのは、手押し車だった。蕪と干し草を、縁より高く積んでいる。
押しているのは、門を直した次の日の列にいた人だ。あのときは、車輪の外れたこの車を引いてきた。
扉が閉まり、横木が通る。その音と一緒に、手押し車が右へかしいだ。蕪が二つ、雪に転がる。
「クルト、遅いぞ」
クルトさんは答えずに、車の下にしゃがみこんだ。
俺も、隣にしゃがむ。バルドさんが、松明を持って後ろに立った。
車輪の軸が、曲がっていた。前に叩いて直したのと、同じところだ。
「いつ、どうやって曲がりましたか」
「今だ。敷居をまたいだとき」
「曲がりの内側が、もう光っています。今日だけの曲がりじゃありません」
クルトさんは、荷の上の雪を手で払った。
「見積書は、読んだ。積みすぎ、だろう」
「はい」
「冬は、日が短い。畑で仕事をして、運べるのは、一度きりだ。暗くなる前に戻らにゃ、狼だ」
払った雪が、松明の火の中で溶けた。
「なら、一度に積むしかない」
俺は、曲がった軸を見た。
積みすぎ、と書いたのは、間違いではない。けれど、曲げているのは、この人の腕ではなかった。日が暮れることだ。
「光っとったころは、畑の家に泊まれた。いまは、戸を打ちつけてある」
クルトさんは、岩山を見上げた。雪の向こうに、塔の白い点が一つ。
「あれが灯ってから、毎晩見とる。……いつ、畑まで届く」
二行目に書けなかったのは、この人の家のことだ。
書くことが、なかったのではない。この人に、まだ言っていなかった。
「届きません」
クルトさんの手が、荷の上で止まった。
「留め具は、八本要ります。打てたのは、五本です。五本では、たぶん町の真ん中までです。畑にも、門にも、届きません」
「残りの三本は」
「星銀が、ありません。どこにあるかも、まだ分かりません」
門の男たちが、こちらを見ていた。縄を持った手が、止まっている。
俺は、立ち上がった。
「今夜、五本で灯します」
ダリアさんの松明が、こちらを向いた。
「八本そろうのを待っても、そろう日が分かりません。そのあいだ、毎日、暗いから壊れます」
曲がった軸を、指さす。
「届かないところは、届かないと書いて、渡します」
クルトさんは、しばらく塔の点を見ていた。
それから、転がった蕪を拾って、荷の上に戻した。
「なら、畑の家の釘は、まだ抜かんでおく」
◇
見積書の束から、あの一枚を抜いた。
書く台を探していると、バルドさんが扉の横から大盾を取ってきて、俺の前に寝かせた。銀の継ぎ目の上に、紙を置く。
炭筆を、二行目の頭に当てた。
――畑の家の戸の釘は、八本そろうまで、抜かないこと。足りない三本は、俺が探します。
持ち主がすることのあとに、俺がすることを書いたのは、初めてだった。
ダリアさんが、松明を近づけて読んだ。
「六十枚」
「はい」
「リタの七枚は」
「前金で、もらっています」
「残りは、町が持つ。……分割で、いいか」
「かまいません」
ダリアさんは、紙をクルトさんに回した。
クルトさんは、二行目のところで、紙を目に近づけた。何も言わずに、俺に返す。
「この紙は、リタに渡します。頼んできたのは、リタですから」
ダリアさんはうなずいて、門の男たちのほうを向いた。
「灯ったら、どこまで届くか、ここから見る。暗いほうの家の者は、今夜のうちに、光のほうへ上げる」
それから、俺に言った。
「行け」
振り返ると、バルドさんが大盾を左腕に通して、扉の前に立っていた。真ん中より、半歩だけ左に。
◇
ハンナさんの家の戸を叩くと、肩掛けを羽織ったハンナさんが、すぐに出てきた。
「差すのかい」
「差します」
作業台の布を開く。四本が、並んでいる。布ごと包んで、懐に入れた。
ハンナさんは、壁から角灯を外して、台所の火を移してくれた。
「見えるとこまで、出て見てるよ」
町を抜けて、岩山の石段にかかる。
雪の積もった段を上っていくと、上から手燭の火が下りてきた。
「ギドさん」
毛布を巻いたリタだった。後ろに、オスカーさんもいる。
「書けた?」
「書けました」
塔の上の部屋で、リタに見積書を渡した。
リタは手燭を紙に寄せて、口を動かしながら読んだ。二行目で、止まる。
「三本、探すの?」
「探します」
「どこで」
「まだ、分かりません」
リタは紙を二つに折って、毛布の内側にしまった。
一つ目の穴では、四本目が、もう唸っている。水晶の奥に、白い点が一つ。
懐から布の包みを出して、一本目を、二つ目の穴に差した。
平らな面を合わせる。根元の溝まで入って、止まる。
唸りが、太くなった。
二本目を、三つ目へ。三本目を、四つ目へ。折れた先を、蝋で取り出した穴だ。
一本ごとに、足の裏に伝わる音が低くなる。水晶の白い点が、ふくらんでいく。
最後の一本を、五つ目の穴に差した。
唸りは、変わらなかった。
リタが、息を止める。
俺は留め具を抜いて、六つ目に差し直した。少し待つと、台座の奥の音が、もう一段、低くなった。
「五つ目は、あとで調べます」
水晶の奥の白は、拳ほどになって、それ以上は大きくならなかった。
オスカーさんが、階段の口で耳を澄ましていた。
「あの冬の前の晩より、細い」
髭が、少し動いた。
「それでも、唸っとる」
◇
扉を開けると、雪が白かった。
塔のまわりだけではない。光は石段を下り、岩を下り、町の屋根に積もった雪を白くしながら、広がっていく。
ずっと下で、止まった。
町の真ん中を、少し過ぎたあたりだ。その先の屋根は、雪をかぶったまま暗い。
暗いほうの端で、東門の松明が、小さく揺れている。門番小屋も、その裏の空き家も、暗いほうだ。
「町に、下りとる」
オスカーさんが言った。
「門まで、届いてない」
リタが言った。
「はい。通り二本ぶん、足りません」
森のほうで、遠吠えが上がった。
一つではない。重なって、途切れずに増えていく。数えるのを、途中でやめた。
リタが、毛布の端を握りしめた。
「門へ戻ります」
石段を駆け下りた。白い段を、一つずつ。
光の中の通りを、門のほうへ走る。
光の縁を越えると、足もとの雪が暗くなった。
門のほうで、どん、と低い音がした。




