光の縁
暗いほうの通りに、人が出ていた。
布団を背負った男。鍋と籠を抱えた女の人。眠った子どもを、毛布ごと抱いた人。みんな、光のほうへ上っていく。
戸が開いたままの家がある。まだ中で、手燭の火が動いている家もある。
半分も、終わっていなかった。
門の前では、男たちが槍を構えていた。
どん。
扉が鳴る。横木は、受け金の中で動かない。真ん中の銀の線が、松明を映している。
どん。もう一度。
扉は鳴るだけで、たわまなかった。
バルドさんは、扉の前にいた。大盾を構えたまま、立つ場所を一歩も変えていない。
「光は」
ダリアさんが、門のほうを向いたまま言った。
「ハンナさんの家の前で、切れています」
「ここからも、見えた」
ダリアさんの松明の先で、年寄りの手を引いた女の人が、雪に足を取られていた。
「……上げるのが、間に合わん」
門番小屋の裏で、板が鳴った。
門を打つ音とは違う。もっと低いところで、何かが掻いている。
松明を一本借りて、小屋の裏へ回った。
外壁は、ここだけ板だ。いちばん下の板の際で、雪が沈んでいた。崩れた縁から、黒い土がこぼれている。
雪の下の土は、まだ凍っていない。今朝、降りはじめたばかりの雪だ。
「下を、掘っています」
言い終わる前に、板の下から、灰色の鼻先が出た。
◇
男たちが三人、槍を持って駆けてきた。
鼻先は引っこんで、すぐに、別の場所の雪が沈んだ。板の下で、土を掻く音が二つになる。
ダリアさんが、通りを振り返った。暗いほうの家々。まだ開いている戸。
「門に、半分残れ。あとは、家の者を上げる」
門にいちばん近い家の戸口に、男の子が立っていた。木の馬を抱えている。脚に、銀の線が一本。
家の奥から、母親が、年寄りの腕を肩に回して出てきた。年寄りの足は、雪の上で前に出ない。
「背負います」
道具袋を男の子に持たせて、俺は背中を向けた。
肩に、骨ばった手がかかる。軽かった。
門の若い衆が、布団を抱えて後ろについた。
通りは暗い。ずっと先だけが白い。ハンナさんの家のあたりで、雪の色が変わっている。
通り二本。上りだ。
後ろで、板が割れる音がした。
それから、唸り声。
振り返ると、大盾があった。
バルドさんが、俺たちと、暗い通りのあいだに立っていた。真ん中より、半歩だけ左に。
盾に、灰色の体がぶつかった。どん、と、門と同じ音がした。
「行け」
若い衆が、布団を放り出した。
叫び声。雪に、膝をつく。脛に、もう一頭が食いついていた。
ダリアさんの松明が、横から狼の顔に突き出された。毛の焦げる匂い。狼は口を離して、跳びのいた。
男たちが、若い衆を両脇から抱え上げる。
俺は、前だけを見て上った。
背中の年寄りが、俺の肩を握りしめている。男の子が、道具袋を引きずって、母親の手につかまっている。
足もとの雪が、白くなった。
光の中だった。
ハンナさんが、戸を開けて待っていた。
「入りな。作業場は、空けてあるよ」
◇
年寄りを下ろして、振り返った。
若い衆を抱えた男たちが、光に入ってくる。その後ろを、バルドさんとダリアさんが、後ろ向きに下がってくる。
狼は、四頭。暗い通りの真ん中を、離れずについてくる。
バルドさんの踵が、白い雪を踏んだ。ダリアさんも。
先頭の狼が、縁の手前で止まった。
前足を一本、白い雪の上に出す。
すぐに、引っこめた。耳が、頭に張りついている。喉の奥で、細い声がした。
後ろの一頭が、押しのけるように前へ出た。肩まで、光に入る。
そこで、体が低く沈んだ。そのまま、後ずさりで暗いほうへ戻っていく。
それきり、どの狼も入ってこなかった。
縁に沿って、行ったり来たりしている。白い雪と、暗い雪の境目を、鼻で確かめるように。
槍を構えた男たちは、しばらく、誰も動かなかった。
「……入らん」
ダリアさんが、低く言った。
門に残っていた男たちも、槍を構えたまま、後ろ向きに上ってきた。門は、横木だけで鳴っていた。
その夜、暗いほうから、いろいろな音がした。
戸を掻く音。桶の転がる音。鶏の声が、いっせいに上がって、途切れた。
門のほうでは、まだ、どん、どん、と鳴っていた。
バルドさんは、縁の内側に盾を立てて、朝までそこにいた。
俺も、隣に座っていた。
暗い通りのいちばん奥に、門の松明が見える。門番小屋の裏が、俺の空き家だ。
四日のあいだ、俺はあの卓で、白い一行を見ていた。
◇
空が白くなるころ、遠吠えが、森のほうへ引いていった。
縁の雪に、足跡が残っていた。
暗かったほうの雪は、踏み荒らされている。白かったほうには、縁のすぐ内に、狼の浅い跡がいくつかあるだけだ。その先には、ない。その境目を、足跡が、一本の線のようになぞっていた。
朝の明るさの中では、塔の光は、もう見分けられない。
それでも、ゆうべの縁がどこにあったかは、雪の上に引いてあった。
バルドさんの盾の縁に、新しい歯の跡が並んでいた。割れては、いない。
暗かったほうを、門まで歩いた。
爪の跡のある戸が、いくつもあった。一枚は、下の板が割れて、内側へ折れていた。
鍋のおばさんの家の裏で、鶏小屋の金網が、めくれ上がっていた。雪の上に、羽根が散っている。
俺の空き家の戸にも、爪の跡が三本あった。卓の上の蝋の型は、並んだままだった。
門番小屋の裏の外壁には、穴が二つ。
外へ回ると、黒い土が、扇の形に雪の上へ飛んでいた。外から、掘った跡だ。いちばん下の板は、端をかじられて、半分なくなっていた。
門の扉は、外側が白く削れていた。爪と、体のぶつかった跡だ。
内側の横木は、受け金の中に、ゆうべのまま通っていた。銀の線にも、ひびはない。麦の穂の刻印が、朝の光を受けていた。
◇
ハンナさんの家の前に、人が集まっていた。
ゆうべ、光の中へ上がった人たちだ。足跡の線を、黙って見下ろしている。
若い衆は、作業場の桶に座って、脛に布を巻かれていた。布に、血がにじんでいる。
ダリアさんが、皆の前に立った。
「噛まれたのが、一人。鶏が、二軒で十一羽。戸が三枚。外壁の下に、穴が二つ」
少し、間があった。
「死んだ者は、いない」
誰かが、息を吐いた。
俺は、足跡の線をまたいで、暗かったほうに立った。
「五本は、五日前に、打ち終わっていました」
皆の顔が、こちらを向いた。
「打ち終わった日に灯していれば、光がどこで止まるか、その日に分かりました。皆を上げるのは、昼のうちにできました。ゆうべ、暗い中で布団を運ぶことは、ありませんでした」
若い衆の脛の布を、見た。
「灯すのを遅らせたのは、俺です。打ち終わったことも、言いませんでした。見積書の一行が、書けなかったからです」
誰も、何も言わなかった。
ダリアさんが、俺を見ていた。
「……そうだ」
それだけ言って、ダリアさんは目をそらさなかった。
桶の上で、若い衆が顔を上げた。
「修繕屋さん。足は、直せないよな」
「直せません」
「だよなあ」
若い衆は笑って、それから、痛そうに顔をしかめた。
◇
見積書の束から、新しい一枚を出した。
ハンナさんの作業台を借りる。
――外壁の下の穴、二つ。埋め戻して、杭を深く打つ。板は、端を切りそろえて打ち直す。
――戸、三枚。割れた板は、元の板どうしならつなげます。
――鶏、十一羽。直せません。
そこで、炭筆が止まった。
いつもなら、この下に代金を書く。
――代金 鶏の分、銅貨二十二枚。外壁と戸は、材料の分だけ。払うのは、俺です。
書いて、ダリアさんに渡した。
ダリアさんは、一行ずつ読んだ。三行目で、目が止まる。それから、最後の行で。
「外壁は、町が持つ」
「でも」
「外壁の下は、お前に見せていなかった」
ダリアさんは、紙を俺に返した。
「まず見せる、と言ったのは、わたしだ」
炭筆で、最後の行を直した。払うのは、俺と、町。
鍋のおばさんが、後ろからのぞきこんだ。三行目を、指でなぞる。
「あんたが直せないって書くと、本当に戻ってこない気がするねえ」
おばさんは、鼻をすすって、それから笑った。
「鍋は、まだもってるよ。左でも振ってる」
昼前に、クルトさんが畑から戻ってきた。
朝いちばんに、一人で見に行っていたらしい。
「柵が、あちこち倒れとる。干し草の山も、崩されとる」
皆が黙った。
「畑の家の戸は、もった。爪の跡は、あったがね」
クルトさんは、俺の前で足を止めた。
「釘、抜かんでおいて、よかった」
◇
日が傾くころ、俺は門番小屋の裏で、杭を打っていた。
穴を埋め戻して、踏み固める。土は、昼のうちに少し固くなっていた。今夜は、もっと冷える。
バルドさんが、杭を押さえてくれていた。リタは、塔から下りてきて、俺の打つのを見ている。
「ゆうべ、上から見えたよ」
リタは、毛布の端をいじっていた。
「光のふちに沿って、黒いのが、ずっと動いてた」
それから、俺の顔を見た。
「三本は?」
「聞ける人には、全部聞きます」
門の外で、車輪の音がした。
乗合馬車だった。雪の道を、門の前まで来て止まる。
若い衆の代わりの門番が、くぐり戸を開けた。
降りてきたのは、一人だけだった。
細長い革の鞄を、両手で抱えている。髪は、旅のあとでも、きちんとなでつけてあった。
「これは、これは」
ヘルマンさんは、まっすぐ俺のほうへ歩いてきた。
「ギドさん、でしたね。ギルドで、こちらだと伺いまして」
酒場では、一度も俺のほうを見なかった人だ。
俺が答える前に、杭を押さえていたバルドさんが立ち上がった。
半歩だけ、左へ出る。俺とヘルマンさんの、あいだだった。
「バルドさまも、お変わりなく」
ヘルマンさんは、にこやかに頭を下げた。それから、顔を上げて、岩山を見た。
日が沈みかけている。塔のまわりの岩が、白く光りはじめていた。
「あちらの塔は、いつから」
「五本は、ゆうべからです」
ヘルマンさんは、うなずいた。笑ったままだった。
「結界塔は、当組合の保守契約の物件です。無断の修理は、契約違反になりますので」
リタが、毛布の内側に手を入れた。二つに折った紙を出して、広げる。
「無断じゃないよ。頼んだもん。ほら、見積書」
ヘルマンさんは、紙をのぞきこんで、目を細めた。
「お嬢さんとのお約束と、当組合の契約とは、別のお話でございまして」
「その契約書を、見せてください」
俺が言うと、ヘルマンさんの目が、こちらに戻ってきた。
「写しは、王都の本部にございます」
「では、見てから、答えます」
ヘルマンさんは、少しのあいだ、俺の顔を見ていた。
「それと、一つ、伺いたいことがあります」
「なんでしょう」
「組合は、星銀を買い取っていますか」
笑顔は、変わらなかった。
「どちらで、そのようなお話を」
「聞いた話です」
ヘルマンさんは、鞄を抱え直した。
「しばらく、こちらに滞在いたします。どうぞ、よろしくお願いいたします」
それから、町のほうへ歩きだした。
ゆうべ暗かった通りを上っていく。ハンナさんの家の前で、雪の色が変わる。
足跡の線は、まだ雪の上にあった。
ゆうべ、狼たちが一晩じゅう手前を行き来した線を、ヘルマンさんの靴は、まっすぐに越えていった。




