病室の女史
不気味な門の出現に、国境の砦だけではなく、純白城もまた目に見えてざわめき始めていた。
ノディムという男は、あまりにも容易く大広間へ現れた。
これまで魔族が城へ侵入した例はない。城を覆う結界は、王国が誇る最上位の防護術式であり、魔族どころか高位の闇術師でさえ、正面から破ることは不可能とされていた。
そのため、城付きの術者たちはすぐさま結界の点検を行った。
大広間、祭壇、外壁、通路、城門――術式の流れをひとつずつ確かめていったが、結果は誰にとっても意外なものだった。
「結界に乱れはありません」
年嵩の術者が告げる。
「損傷も、侵食の痕跡も見当たりません。術式は正常です」
別の術者も続けた。
その報告に、高官たちはざわめいた。
ジャルサもまた、険しい顔のまま黙り込む。
「……ならば、なぜ魔族がこの城に立った」
誰かが低く漏らした。
だが、術者たちは首を横に振るばかりだった。
「結界は完璧です。魔族どころか、闇の魔術師でさえ、簡単には打ち破れません」
答えになっていない。
だが、それ以上の答えを持つ者はこの場にいなかった。
結界は破られていない。
それでも、敵は現れた。
その事実だけが、白い城の奥に冷たい棘のように残り続けた。
*
それから数日後。
騎士団長へ昇格したロムテスは、遠征に出る前に王立病院へ立ち寄っていた。
供をしているのは、レトラと数名の騎士たち。
彼らを廊下に待たせたまま、ロムテスはひとつの病室の扉を開く。
窓辺の寝台には、ラーネがいた。
ルミティの襲撃があった翌朝、過去の記憶を取り戻した直後に倒れ、そのまま病院で静養していた女である。
ラーネはロムテスの姿を見ると、少しだけ目を細めた。
「久しぶりね、ロムティ」
その呼び方に、ロムテスの視線がわずかに揺れる。
だが、彼はすぐに平静を取り戻した。
「体調はどうだい」
「ええ、何とかね」
短い応答のあと、ロムテスは寝台のそばまで歩み寄る。
今度は微笑みを消していた。
「魔族の村が崩壊した」
真っ直ぐに告げる。
ラーネの表情が固まる。
「……そう」
「だが、騒動は終わっていない。アスレイウ様、リーミアちゃん含む騎士団等が全員行方不明だ」
「そんな……!」
思わず漏れた声は、作ったものには聞こえなかった。
だがロムテスは、その反応すら静かに受け止める。
「それ以上に、僕には引っかかることがある」
「引っかかること……?」
「あの日、光花の宿舎に立ち寄った時だ。ひとりの少女が、僕を“ロムティ”と呼んだ」
彼はラーネを見つめる。
「その呼び方をする相手を、僕は多く知らない」
ラーネは黙った。
視線が、わずかに伏せられる。
「君だったんだろう」
ロムテスは続けた。
「君はルミティという少女の姿で光花に入り込んでいた。そして、城にいたラーネは本当の君じゃない。ルミティが成り代わっていた――そう考えれば辻褄が合う」
病室の空気が重く沈んだ。
「魔の森消滅のあと、皆が凱旋してきた時もそうだ。あのアスファードが広場で聖魔剣の所有者に反応したのも、場に“何か別のもの”が混じっていたと考えれば納得できる」
長い沈黙ののち、ラーネは小さく息を吐いた。
「……鋭いのね」
「否定はしないんだな」
ラーネは苦く笑う。
そして、観念したように目を閉じた。
「ええ。あなたの推測は、外れていないわ」
ロムテスは何も言わない。
ただ、その続きを待った。
「私は一時期、ルミティの姿で光花の近くにいた。逆に、城にいた“ラーネ”はルミティだった」
ラーネは静かに認める。
「全部を今ここで話すつもりはないけれど……少なくとも、あなたの考えは間違っていない」
廊下の向こうで、騎士の靴音が小さく響いた。
だが病室の中は、妙に静かだった。
「なぜそんなことをした」
「それは、今のあなたに話しても混乱させるだけよ」
ラーネは目を伏せる。
「それに……あなたはもう、ここで立ち止まっている場合じゃないのでしょう?」
その言葉に、ロムテスは眉を寄せた。
「何が言いたい」
「門よ。私も噂を聞いたわ」
ラーネは窓の外へ目を向ける。
その声は弱いが、はっきりしていた。
「山岳部に現れたという、あの不気味な門。あなたはそのために来たのでしょう?」
「……ああ」
「なら、急いだ方がいい」
ラーネは言う。
「城の中にも気になることはある。でも、今すぐ国を呑み込むのは、そちらじゃない」
ロムテスの目が細まる。
ラーネはその視線を受け止めながら、さらに続けた。
「結界のことも、ルミティのことも、いずれ暴かれる時が来るわ。けれど今は違う。優先すべきは、外から迫ってきているものよ」
ロムテスはしばらく無言だった。
やがて、小さく息を吐く。
「……君は、何か知っているな」
「知らないわけじゃない」
ラーネはかすかに笑った。
「でも、それを追うのは今じゃない。あなたも、本当は分かっているはずよ」
図星だった。
ロムテス自身、胸の奥ではすでに答えを出していた。
城には確かに歪みがある。
ルミティとラーネの入れ替わりも、結界を巡る違和感も、放っておいていい話ではない。
だが今この瞬間、国境の向こうには、目に見える脅威が姿を現している。
迷っている時間はなかった。
ロムテスは踵を返す。
「レトラ」
扉の外へ声をかける。
「はっ!」
すぐに返事が返る。
「出るぞ。病院を離れ次第、辺境の門へ向かう。先行隊との合流を急げ」
「了解しました!」
廊下が一気に慌ただしくなる。
ロムテスは扉の前で一度だけ足を止め、振り返った。
「ラーネ」
「なに?」
「君のことは、戻ったら改めて聞く」
ラーネは寝台の上で静かに頷いた。
「ええ。それでいいわ」
ロムテスはそれ以上何も言わず、病室を後にした。
階下へ向かう足音は速い。
白い廊下を抜け、兵たちを従え、彼はそのまま城門へ向かう。
中庭ではすでに馬が引き出されていた。
空気は張りつめ、兵士たちの顔にも疲労と緊張が濃く浮かんでいる。
「騎士団長! 砦から伝令です!」
駆け寄ってきた伝令兵が、息を切らしながら叫ぶ。
「申せ」
「山岳地帯に出現した門の周辺で、赤黒い靄がさらに拡大しています! 砦の見張りからは、門の奥で“何かが動いた”と!」
ロムテスの表情が引き締まった。
「馬を出せ。全隊、出立する」
低く命じる。
騎士たちが一斉に動き出す。
鎧の擦れる音、馬のいななき、革紐を締める音が、早朝の城内に鋭く響いた。
ロムテスは鞍に手を掛け、最後に一度だけ純白城を振り返る。
結界の謎。
ラーネの告白。
ルミティという存在の違和感。
胸に引っかかるものは多い。
だが今は、それらすべてを脇へ押しやるしかなかった。
「……まずは門だ」
誰に聞かせるでもなく呟き、ロムテスは馬上へ飛び乗る。
次の瞬間、騎士団長となった男を先頭に、王国の一団は門へ向けて駆け出した。




