謎の使者
魔族の村に轟いた爆炎が何を呑み込んだのか――それを知る者は、この世界のどこにもいなかった。
黒煙が晴れた後、そこには誰もいなかった。
討伐に向かった者たち全員の行方は、杳として知れない。
生存の痕跡も、遺体も、武器の欠片すら残されていなかった。
吹き飛ばされたのか。
消えたのか。
あるいは、どこか別の場所へ飛ばされたのか。
誰にも分からなかった。
*
それから数日が過ぎた。
エルテンシア城は、何事もなかったかのように輝いていた。
大広間は毎夜、金色の燭台に照らされ、長卓には豪華な料理が並ぶ。
甘い酒の香りは石の廊下の先まで漂い、高らかな音楽と乾杯の声、衣擦れと笑い声が絶え間なく満ちていた。
「素晴らしきエルテンシアに、乾杯!」
貴族たちが杯を掲げる。
それに応えるように、玉座の隣に据えられた席でルミティが優雅に微笑んだ。
「本当に、めでたい日々が続きますこと」
彼女の纏う衣は今夜も白く、その笑顔は慈愛に満ちているように見えた。
少なくとも、この場にいる者たちにとっては。
魔族の村で何があったのか。
討伐隊が戻らないのはなぜか。
消えた者たちが今どこにいるのか。
そうした話は、この宴の席には存在しない。
まるで初めから、そんな者たちなどいなかったかのように。
捜索も行われていない。
調査の指示もない。
ルミティが「案ずるな」と一言告げれば、臣下たちは皆そろって頷いた。
「英雄とは、戦場で散るものでございます」
「そうですとも。彼らの犠牲があってこそ、今この平和が」
「誠に尊い自己犠牲で……」
やがてそれが通例となり、誰も消えた者たちのことを口にしなくなった。
今夜も大広間には笑い声が響き、祝宴は続いていく。
その華やかな空気に誰もが酔いしれていた、その時だった。
ゴン――と、重い音が広間の入口に響いた。
扉が開く。
笑い声が、少しずつ静まっていく。
扉の前に立っていたのは、一人の人物だった。
ジャルサ。
その姿は、宴とはあまりにも対照的だった。
長旅の埃を纏い、剣の柄には刃こぼれの痕。
冷たい眼差しが、広間全体をゆっくりと見渡す。
「……にぎやかなことだ」
低く静かな声。
だが、その一言だけで宴の空気がわずかに変わった。
貴族たちがざわめく。
今ここにジャルサが現れるとは、誰も予期していなかったのだ。
ルミティの笑みが、ほんの一瞬だけ止まる。
「まあ……ジャルサ侯。突然のお越しで驚きました。どうぞこちらへ」
「いや、けっこうだ」
ジャルサは広間へ足を踏み入れた。
楽団が演奏を止める。
料理に手を伸ばしていた者たちも、自然と動きを止めた。
彼は長卓の中央まで進むと、一人ひとりの顔をゆっくり見渡してから口を開いた。
「ひとつだけ、聞かせてもらおう」
その目は笑っていない。
「魔族の村へ向かった者たちの行方を、この城は把握しているか?」
沈黙が落ちた。
誰かが目を逸らし、誰かがそっと杯を置く。
ルミティだけが、微笑みを崩さぬまま答えた。
「それは……残念ながら、消息が途絶えており――」
「途絶えた、ではない」
ジャルサが遮る。
「調べていない、だろう」
ルミティの指先が、わずかに杯の柄を握りしめた。
「ジャルサ侯。この場は祝賀の席で――」
「祝賀、だと?」
ジャルサの声音は低い。
だが、そこには怒気よりも冷え切った現実だけがあった。
「何を祝っている。大広間を連日の宴に使い、騎士団の話し合いは城の片隅へ追いやる。これのどこが祝賀だ?今回の催しに、国家の財をいくら費やした?」
誰も答えられない。
燭台の炎が、ジャルサの前で揺れた。
やがて、大臣の一人が彼のそばへ進み出る。
「此度の討伐は、我々の管理下ではなかった……それをお忘れとは言わせませんぞ」
短い沈黙。
ジャルサはその言葉を正面から受け止め、ただ一言、低く告げた。
「捜索を開始する。異論があるなら聞こう」
その瞬間、広間の空気が凍りついた。
ルミティの笑みが、今度こそはっきりと陰る。
乾杯の声も、音楽も、笑い声も、もうどこにもなかった。
ジャルサはただ、まっすぐ前を見据えていた。
「ああ、もう! うるさい奴ね。皆の衆、今夜の宴はここまでよ!」
ルミティの声が、冷たく大広間に響く。
その一言で、広間は一変した。
侍従たちが青ざめた顔で動き出し、貴族たちに退避を促す。
「皆様、こちらへ!」
「お下がりください!」
「広間を空けろ、急げ!」
先ほどまで騒いでいた貴族たちは、顔色を失って出口へ殺到した。
椅子が倒れ、杯が砕け、豪奢な宴は一転して醜い混乱へ変わっていく。
それと入れ替わるように、広間左右の脇扉が一斉に開かれた。
鎧の擦れる音とともに騎士団が現れる。
剣を佩き、槍を構え、後列には弓兵が展開する。
宴の場は瞬く間に、制圧のための陣形へと変わった。
「呆れた御方だな……」
「ルミティ様の御前だぞ!」
官僚の一人が怒鳴る。
だが、ジャルサは動かない。
「先日まで連絡を取り合っていたアスレイウからの伝聞が途絶えたのだ! お前たちも少しは危機感を持て!」
その言葉に、騎士たちの表情にも戸惑いが走る。
ただ一人、ルミティだけは冷え切った目を向けたまま、表情を変えなかった。
「王女なら、誰が消えようと構わぬというのか?」
「黙れ!」
ルミティが鋭く言い放つ。
「誰か、そいつを連れ出せ!」
騎士たちが一歩踏み込んだ、その時だった。
パン、パン、パン――
不意に、乾いた拍手の音が大広間へ響いた。
誰もが動きを止める。
その音は、広間の奥――祭壇の方角から聞こえていた。
騎士たちも、逃げ遅れた貴族たちも、ルミティも、そしてジャルサまでもが、同時にそちらを振り向く。
そこに、一人の男が立っていた。
先ほどまで誰もいなかったはずの祭壇の近く。
燭台の炎に照らされるようにして、見知らぬ人物が悠然と佇んでいる。
黒を基調とした衣。
痩せた身体。
そして、舞台芝居でも眺めているかのような愉快げな笑み。
「いやはや……実に面白い。喜劇としては上出来だ」
男は肩をすくめ、くつくつと笑った。
「転生少女は、こんな体たらくの城に住んでいたとは。実に哀れだ」
ざわり、と大広間がどよめく。
「き、貴様……!」
「いつの間に……?」
「誰だ、あいつは!」
騎士団の視線が、一斉に祭壇の男へ向けられる。
先ほどまでの内輪の対立とは違う。
もっと底知れない異物が、この場に紛れ込んでいた。
「貴様は何者だ!」
一人の兵が槍を突き出して突進する。
それを見たロムテスが、咄嗟に叫んだ。
「待て!」
だが、遅い。
男は軽く片手を上げただけだった。
人差し指と親指で槍の穂先を摘まみ、そのまま玩具のように兵ごと宙へ放り上げる。
次の瞬間、男は奪った槍を無造作に投げ返した。
槍は一直線に兵の腹部を貫き、そのまま石床へ縫い止める。
落下と同時に、兵は絶命していた。
悲鳴が上がる。
後列の弓兵たちが反射的に弓を引き絞り、一斉に矢を放つ。
だが、飛来した矢は男の眼前でふっと掻き消えた。
「なっ――」
驚愕の声が漏れた次の瞬間。
消えたはずの矢が、今度は広間の上空から降り注いだ。
降り落ちた矢は、放った騎士たち自身の胸を正確に貫く。
鎧の隙間を縫うように突き刺さり、数人がその場に崩れ落ちた。
「止めろ、攻撃するな!」
ジャルサの怒声が響く。
騎士たちは息を呑み、辛うじて次の攻撃を止めた。
その声に、男はわずかに口元を吊り上げる。
まるで、その問いを待っていたかのように。
「初めまして」
男は優雅ですらある仕草で一礼した。
「私はノディムという者」
その名を知る者は、この場にはいない。
だが誰もが本能的に悟った。
危険だ、と。
ノディムはゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、人を見る温度が欠片もない。
「私の仲間が、あなた方の仲間を魔族の村で消しました」
一瞬、誰も意味を理解できなかった。
だが次の瞬間、その言葉の重みがじわじわと場を凍らせていく。
「な……」
誰かが息を呑む。
ジャルサの目が鋭く見開かれた。
ルミティでさえ、作り笑いを保ったまま指先をわずかに強張らせる。
ノディムはそんな反応を楽しむように続けた。
「もうこの世に、我々にとって目障りな邪魔者はいない!今の我々なら、この国を破壊することなど造作もない。ですが……それでは少々、面白味に欠ける」
彼は薄く笑う。
「ですので、あなた方に選択を与えましょう」
「どういうことだ!」
ジャルサが一歩前へ出る。
だがノディムは動じない。
まるで小石でも投げられた程度の気安さで、その怒声を受け流す。
「簡単ですよ。そこの玉座に座っている方では、我々魔族の群れには到底敵わない。ならば、この城を我々に明け渡すか――あるいは、かつての惨劇のような絶望を再現するか?どちらかを選んでもらいましょう」
祭壇の段差に軽く腰を預けながら、ノディムは告げた。
その言葉に、広間の空気がさらに冷える。
「かつての……惨劇。貴様、まさか……!」
ジャルサの声が低く沈む。
ノディムは、薄気味悪い笑みを浮かべた。
「一ヶ月の猶予を与えます。次の満月が昇る頃までに、賢明な判断を決めておいてください」
「待て!」
ジャルサが叫ぶ。
「貴様、何を知っている! 魔族の村で何をした!」
騎士たちも再び構える。
今度こそ取り逃がしてはならない――誰もがそう思った。
だが、ノディムは小さく笑っただけだった。
「あなた方で言うところの“宴”を披露したのです。まあ……挨拶程度ですがね」
その言葉と同時に、彼の足元に黒い影が広がる。
燭台の光を呑み込むような、不自然な闇だった。
「では、また一ヶ月後」
ノディムは、ゆっくりと片手を上げる。
「逃がすな!」
ジャルサの号令と同時に騎士たちが駆け出す。
だが遅かった。
ノディムの身体は、黒い靄へと溶けるように崩れ――次の瞬間には、完全にその場から消えていた。
あとに残ったのは、祭壇の石床に染みつくような冷たい気配だけだった。
誰も動けなかった。
祝宴の音楽は止み、笑い声は消え、豪奢な大広間には先ほどまでの浮かれた空気など一片も残っていない。
ジャルサは祭壇の前まで歩み寄り、ノディムが消えた場所を鋭く睨みつけた。
「……このような事態は想定外だ。まさか……魔族の方から来るとは……!」
その呟きは重かった。
一方で、ルミティは黙っていた。
だが、その横顔には、恐怖とも焦りともつかない陰が差している。
大臣や官僚たちも、ようやく理解し始めていた。
消えた討伐隊。
捜索されなかった英雄たち。
そして今、城へ現れた得体の知れない侵略者。
国は今、かつてない渦の中に呑まれかけていた。
*
その頃――国境近くの辺境の砦。
夜風に晒された見張り台の上で、一人の警備兵が遠眼鏡を覗いていた。
いつもと変わらぬ山岳地帯を見張る、ただそれだけの任務だった。
だが次の瞬間、彼の呼吸が止まる。
「……なんだ、あれは」
山々の連なりの向こう。
黒々とした稜線の只中に、あり得ないものが立ち現れていた。
それは門だった。
だが、人の造る城門でも、神殿の門でもない。
左右非対称に歪み、ねじれた角のような突起を幾重にも伸ばし、その中心には闇そのものを凝り固めたような虚ろな穴を抱えている。
まるで山を裂き、異界そのものが口を開けたような、巨大で不気味な門だった。
その周囲の空気は揺らぎ、赤黒い靄がゆらゆらと立ち上っていた。
遠目にも禍々しさが伝わってくる。
見ているだけで胸の奥が冷えていくような、圧倒的な異様さだった。
警備兵は遠眼鏡を落としかけ、蒼白な顔で叫んだ。
「ま、魔界の門だ……!」
「不気味な魔界の門が、山岳部に出現したぞォォッ!!」
その叫びは、深夜の砦にけたたましく響き渡った。
警鐘が打ち鳴らされるまで、そう時間はかからなかった。




