2.「記録を残す」ということ
王国から魔界に逃げ出し、早一ヶ月。
まさか魔界人と共に暮らすわけにもいかず、魔界樹林のほとりにある小屋を少し拝借して生活している。
「くぅぉらぁ!そこ!そんなところで野糞してんじゃねえ!」
視界の端に、秩序を乱すものを見て叱り飛ばす。
「え~。少しくらいいいじゃん……」
児ゴブリンが決丸出し状態で後ろを振り返りながら、ぶつくさと文句を垂れている。
「はぁ“?」
思わずうなり声をあげてしまったが、中指を立てなかったことを自分で褒めてあげたい。
叱られた当の本人は、へらへらとどこ吹く風と言わんばかりに笑っている。
仕方ないので、自作したスコップを近くに放り投げてやり声を掛けた。
「もう少し樹林の方に寄って、穴掘ってしなさい。……終わったらちゃんと穴を埋めなさいよ!」
児ゴブリンは、「はぁい」と気の抜けた返事をしながらいそいそと樹林のほとりの草むらへと入って行った。
その後ろ姿を見ながらふと思った。
あの児ゴブリンは事後に尻を拭いて出てくるのだろうか……と。
「すっきりしたっス!」
児ゴブリンはそう言ってスコップ片手に戻ってきた。
私はジト目でそのスコップを見つめた。
「あんた、手は洗ったんでしょうね……」
答えは解っているのに、聞いてみた。
「え?洗わないっスよ」
鼻をほじりながら思っていた答えをほざきやがる児ゴブリン。
チッ――。
思わず舌打ちをしてしまった。
児ゴブリンは、急に体を硬直させた後、ふるふると震え出した。
失礼しちゃうわよね。ほんの少し舌打ちしただけなのに、私が鬼か何かのように怯えるなんて。
「児ゴブリン、そのスコップは私のものだ。汚れた手で持ってくるな。手を洗って、ついでにスコップも洗って返しに来い」
躾がなっていないなら、私が教育するまでだわ。伊達に6人の弟と妹を育てていませんって。
「わ、わかりました!エーレさん!」
児ゴブリンは慌てて川に走って行った。
うん、可愛いもんだね。ちゃんと言うこと聞く子供は。
今の私は、前世の“黒木 美穂子”の穂をドイツ語にしたエーレを名乗っている。まさか、王国の王女が魔界にいるとは思わないだろうし、マルグリットを名乗っていないから誰にも気付かれないだろうけれども、念には念を入れておく必要がある。ダルメシス王国の王位継承権が無いにしても一応は王女だ。身バレして、攫われ、子供が万が一出来てしまったら大事だ。父であるフリードリヒ・フォン・ダルムシュタットに脅しをかけたりなんかしたら戦争ものなのだ。
「はあ……。この痣さえなかったらバレないんだろうけれどもね……」
右側の袖を腕まくりをし、恨めしく痣を見つめる。ダルメシス王国の王族にしか出てこない何かの模様のようなそれは、今までどんなに怪我をしても、火傷をしても、消えることはなかった。そこだけやたらと治りが早く、くっきりと浮かんでくるのだ。
「エーレさん!洗ってきたっス!」
児ゴブリンが満面の笑みで駆けてくる。
何というか、素直で憎めないのよね。
「よし、ちゃんと洗ったな。これからもきちんと手を洗いなさい。汚い手で物を食べたら、お腹を壊すわよ」
そう言って、綿の布で手を拭いてやる。児ゴブリンは嬉しそうだ。
弟も、こんな風に笑っていたっけ――。
遠い昔の思い出に、今を重ねる。
『姉ちゃん!』
弟の声が聞こえたような気がした。
勿論、だたの空耳なのだけれど。
なんて、ちょっと感慨にふけってみたけれども、他に気になることが出てきてしまった。
「……臭っ!!」
児ゴブリンから、ぷーんと匂ってきた。
まさか、ね。
いや、わかっていたんだよ。
こいつらが、ケツを拭いていないってことは!
「……お前、クソした後、拭いてないだろう……」
一歩、後ずさった。
「え?なんで拭くの?」
キョトンとした奴は、一歩近づく。
「お前たちには、クソした後はケツを拭く習慣はないのか?」
もう一歩、後ずさる。
「ん~、ないよ」
笑顔で二歩も近づいてきた。
「臭いんだよ!“ブツ”が付いているんだろう!こっち来るな!」
顔を引きつらせながら叫んだ。
でも、児ゴブリンには何のことかわかっていないのだろう。
「なんで?」と、いつものように抱き着いてじゃれようとする。
「お願いだから、ケツも洗ってきてくれ!」
私は、大声で叫んでこいつを川に引きずって行った。
夜になり、ランタンに火を灯して机に向かう。
前世の記憶を思い出してから、毎日欠かさず日記を書き続けている。
何をしたとか、前世にはあったけれども今世ではなくて不便だと思ったこと、とにかく思いつく限り書く。
魔界に来て、一人。寂しいと感じる日もある。
でも、人間界にいれば、あの城にいれば、必ず殺される。
「そんなのは、ごめんだわ」
文字を書く手が止まり、一人語ちる。
何でなのか、私は生まれ変わった。
前世を思い出したのが、まさかの異母兄姉に殺されそうになった時だなんて驚いたが、これはチャンスだと思った。
もう一度、人生をやり直せれるのだ。
今はまだ十歳と若いし、気ままに暮らそう。
ここには魔界という、前世で言うところのファンタジーの世界がある。
だったら、リアルにファンタジーを満喫できるではないか。
逃げた後はドレスを売払い、冒険者の服装に身を包んで魔界にもぐりこんだ。腰まであったブロンドの髪は肩につかないくらいまで短くしている。瞳の色は蒼にところどころ銀の斑点があってちょっと珍しいらしいけれども、今のところ誰にも何も言われていないので問題ないと思っている。まあ、そのうち眼鏡でもかけようかと思案中だし。
「あ、そうだ。やりたいことの一つ、するんだった」
そう言って、新しい紙を一枚引き寄せる。
そして羽ペンを持ちインクをつけ、ゴブリンのことを書き綴る。
「トイレの後は拭かない。トイレもそこかしこで勝手にしている――」
書きながら今日あったことを思い出し、小さく笑いがこぼれた。
ゲームの中では知りえなかった現実は、こんなにも面白楽しい。
実際のゴブリンは下腹が出ているわけでもなく、思ったより筋肉がしっかりと付いていた。
服と呼べるものは腰に巻いた獣の毛皮だけだったので、そこは「やっぱりそうなんだ」と思った。
そして、知能もあり会話がちゃんとできるのは嬉しい誤算だった。
「小屋もちょっと強引だったけれども貸してもらえたし、食事もお裾分けをくれてお腹を空かせることもない。ゴブリンって優しいのよね……」
この世界は広い。
知らなかったことを、知ったことを、書き連ねていこう。
そしていつか、これが役に立つことがあればいい。
ゴブリンの今知りえる生態を書き、もう一枚紙を手に取り独り言をつぶやく。
「タイトルも必要だよね」
なんて書こうかと少し考えて、思いついた言葉を書き記してみた。
“ヴィヴァント・アポローグ”
――動植物の寓意譚。
筆を置き、文字を見つめてにんまりと笑った。
ファンタジーの世界を思いっきり楽しみ、
思いつくまま記録に残す。
何という楽しい毎日だろう。
前世の家族には、もう会えない。
妹や弟たちは、私が死んで悲しんだだろうか。
優しい子達だから、たくさん泣いてくれただろうと思い、ほんの少し涙が出た。
でも、悲しみにくれずに強く生きていってくれるだろう。
そうであって欲しいし、きっとそうだろうと信じている。
「安心してね」と窓から見える星に向かって伝言を託した。
この世界は文明が発達していないし、理不尽なこともたくさんある。
それでも私は、今日も生きている。
次話は土曜日の夕方か夜の予定です。




