八、下野薫
それが夢だとわかったのは、もう何度も同じ夢を見ていたからだった。
薄暗い部屋。
そこにはポツンとベッドが一つ置かれている。
その上では、加藤小春が塚田純希の知らない中年に抱かれていた。
♢♦♢♦♢♦
そこで純希はハッと目を覚ました。
すると、目の前にスヤスヤと寝ている小春の顔が目に入った。
(夢か……)
純希はホッと胸を撫で下ろした。
(しばらく見てなかったのに……)
小春が仕事を始めた当初は、小春が知らない誰かに抱かれる夢を頻繁に見ていた。
だが、慣れてきたのか、最近はそんな悪夢にうなされることもなくなっていた。
(昨日、あんな動画を見たせいだ……)
多分、それで正解だろう。
(しっかりしろ!)
純希は自分の精神に叱咤激励した。
(とにかく、下野とは一度話さないといけないな)
そんなことを考えていると、
「うんんんっ……純希?」
小春が目を覚ました。
「おはよう、小春」
さっきまでの懸念は全て頭の外に蹴り出して、純希は笑顔で挨拶した。
「うん……おはよう、純希」
小春はまだ寝ぼけていて、唇をねだった。
「ちゅっ……」
それに純希は軽いキスで応えてから、起き上がった。
「今何時?」
眠い目を擦りながら、小春は聞いた。
「まだ六時半」
枕元に置いていたスマホを見て、純希は応えた。
「帰る?」
小春は、制服を着始めた純希をぼんやりと見ていた。
「着替えたいからね」
「んんっ……わかった」
それに頷いてから、小春も起き上がると、グッと伸びをした。
「じゃあ、またあとで」
そう言い残して、純希は小春の部屋をあとにした。
すぐ隣の自宅のドアを開けて、玄関に入る。
すると、物音で気付いた母、塚田希美がエプロンで手を拭きながらダイニングから現れた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
挨拶を交わしてから純希は玄関を上がった。
「コハちゃん、大変なの?」
そのまま部屋に入ろうとした純希に、希美は聞いた。
母には、小春が心配だから今日は泊まる、とだけしか伝えていない。
「もう落ち着いたから、大丈夫」
純希は断言した。
ここでそうしておかないと、あとでいろいろ詮索されかねないと思ったからだ。
「それならいいけど……」
それを察して、希美もそれ以上は聞くべきではないと判断した。
ちなみに、両親は純希と小春が深い仲にあることを知らない。
だが、希美は薄々感づいてはいた。
それもあって、純希が小春の部屋に泊まることを了承したのだ。
希美も女なので、人肌恋しい夜があることを知っていた。
「洗濯物、あとで出しておくね」
それだけ言って、純希は今度こそ自分の部屋に入った。
とりあえず、一端服を全部脱ぐ。
それからクロゼットから新しい下着とワイシャツ、それに靴下を出した。
まだまだ暑いので、肌着類は毎日交換しないと匂いが心配なのだ。
新しい下着を履いてTシャツを着る。
それからワイシャツを着て、制服のズボンを穿く。
リュックの中身を今日の授業用に入れ替える。
そして、純希は洗濯物をまとめて持って、部屋を出た。
洗濯物をランドリーケースに入れたタイミングで、ピンポーンとインターフォンが鳴った。
小春がやって来たのだ。
こうして、塚田家の朝が始まった。
朝食を終えた純希と小春はいつもの時間に部屋を出た。
だが、登校中はいつもと違っていた。
二人を見て、コソコソと話す生徒の集団をいくつも見かけたからだ。
(昨日のこと、噂になってるなぁ)
純希はなにやら後ろめたいものを感じた。
しかし、当の小春はそんな光景も気にせず、胸を張って歩いている。
「度胸あるなぁ」
言ってから、純希はしまった、と思った。
考えていることがつい口に出てしまったのだ。
「堂々としてればいいんだよ」
その意味を察して、小春は力説した。
「あたしはなにもしてない……あたしはなにもしてない……」
そして、口の中で繰り返す。
その目がイッてるのを見て純希は、
(やっぱ精神的にきてるなぁ)
と、心の中で冷や汗笑いをした。
様々な視線に晒されながら、純希と小春はようやく校門へと到着した。
下駄箱で上履きに履き替えようとする。
「あれ?」
そこで純希は、上履きの上に手紙が乗っているのに気付いた。
「どうした?」
先に上履きに履き替えた小春が、寄ってきた。
「手紙が入ってる」
純希は下駄箱の中から手紙を取りだした。
それは白い封筒で、紋章を象った封緘シールで封がされていた。
「ラブレター?」
小春が冗談交じりに茶化す。
(誰よ、あたしの純希にラブレターなんか書く奴は?)
しかし、内心は穏やかでなかった。
(ラブレターにしては、色気がなさ過ぎる……)
嫌な予感がして、純希はその場で封を切った。
「やっぱり……」
案の定、中には昨日の動画スクリーンショットと、白い便せんに、放課後、屋上で待っています、と記されていた。
差出人の名前は、ない。
「下野かな?」
横から覗いていた小春が呟いた。
「その可能性は高いね」
純希は率直な感想を述べる。
「でも、なんで、純希?」
「うーん」
首を傾げる小春に、純希は唸った。
自分が小春と幼なじみだから、がもっとも正しい答えなのだろうが、それでもこんな手紙を送りつける意味はわからなかった。
「とりあえず、行ってみようと思う」
純希は即決した。
(どっちにしろ、下野とは話さなきゃいけないと思ってたし)
すると小春が、
「あたしもついていっていい?」
と聞いてきた。
小春はまだ、告白の可能性もゼロではないと思っていたのだ。
「いや……こういう場合は一人で行った方がいいだろう」
「そぉ?」
純希の拒否に小春は納得できなかった。
「なら、こっそり隠れてるから」
なので、小春は食い下がった。
「うーん」
純希は考え込んだ。
(駄目って言っても、勝手に来そうだしなぁ……)
「見つからないようにね」
結局、諦めた純希は小春のお願いを了承した。
そして、放課後。
純希は言われたとおり屋上の重い扉を開けた。
そこには、黒髪を両サイドに三つ編みにして、切れ長な目に眼鏡を掛け、ほっそりとした輪郭をした少女が立っていた。
下野薫だ。
(やっぱり下野か……)
純希は、心の中で呟いた。
「こんにちは、塚田」
薫は無表情で挨拶した。
「クラスが変わったからは初めてだね」
純希と薫は、一年生の時、同じクラスだった。
そのときも学級委員を務めて、その指導力でクラスをまとめていた。
「この手紙は下野?」
純希は手に持っていた封筒を薫に見せた。
「うん」
と、薫は頷いた。
「どうして、こんなものを僕に?」
続けて純希は聞いた。
「塚田には、本当の事、知っていてほしかったから」
薫は真剣な目で純希を見詰めた。
「塚田は、それをフェイク動画って言ったけど、間違えなく本物だから」
「どうして、わかるの?」
「それは……」
純希の問いに、薫は言い淀んだ。
しかし、意を決すると口を開いた。
「それ撮ったの、わたしのパパなの」
(やっぱり……)
想定通りの展開に、純希は改めて小春の事務所の情報収集能力に舌を巻いた。
「加藤はズルイ奴なんだよ」
薫は眉をつり上げた。
「塚田とつき合ってるのに、他の男と寝てお金をもらってるんだよ」
全身がワナワナと震えている。
「それって、酷くない?」
それでも怒りを押し殺しながら、純希に訴えかけた。
「…………下野は二つ勘違いしている」
短い沈黙の後、純希は諭すように言った。
「僕は小春とはつき合ってない」
する関係にはあるけれど、とは言わなかった。
「そんなの嘘でしょ?」
薫は問いかけた。
少なくともクラスの大半は、二人はつき合っていると思っているのを薫は知っていた。
「いや、本当だよ」
しかし、純希はキッパリと否定した。
「じゃあ、ただの幼なじみなの?」
「うん」
信じられないようなものを見る目の薫に、純希は頷いて見せた。
「あと一つ」
純希は真面目顔で言った。
「僕は、小春の仕事のことを知っている」
「えっ?」
純希の言葉に薫は絶句した。
「僕は小春が他の誰かと寝ていることを承知で一緒にいるんだ」
薫に真意が伝わるように、純希ははっきりとした口調で言った。
「嘘……」
薫の顔が見る見るうちに蒼ざめていく。
「嘘じゃない」
断言した純希を見て、薫は顔を俯かせた。
コンクリートの床にポツポツと涙のシミがつく。
(泣かせちゃったか?)
純希が内心、焦ったとき、
「そんなの不潔よ!」
薫は感情を爆発させた。
「パパもあたしと同い年の加藤を買うし、塚田もそれを承知で幼なじみやってるの!?」
涙をまき散らしながら絶叫する薫に、純希はコクッと頷いた。
「パパのことは嫌いだからどうでもいいけど、塚田は加藤に騙されていると思ってた!」
「騙されてないよ」
泣き叫ぶ薫に、純希は冷静に応えた。
「嫌い……」
薫は今にも消えそうな声で呟いた。
「塚田なんて大嫌い!!」
純希に言い放った薫は、そのまま駆け出した。
そして、開けっぱなしだった屋上の出入り口から、校内に入る。
その陰には小春が隠れていたのだが、薫は気付かずに階段を駆け下りた。
涙を残して。
「ふーっ……」
純希は長い息を吐いた。
女子を泣かしてしまった罪悪感は半端なかったが、今はそれより問題が解決しそうなことへの安堵が大きかった。
「振られちゃったね」
すると、近づいてきた小春がニコニコと笑みを浮かべながら言った。
「もともと、下野のことはそういう風には見てないよ」
それを聞いた純希は真顔で返す。
「でも、あたしと幼なじみじゃなきゃ、もしかしたら彼女ができてたかもしれないよ?」
「好きでも無い相手を彼女にするほど、酔狂じゃないよ」
「ふーん」
うんざりそうな純希を小春はニマニマと見ていたが、内心はいろいろな意味でホッとしていた。
その日の夕方。
「つまり、下野茂の娘は、塚田君とコハとの仲を引き裂きたくて、一連の騒ぎを起こした、と?」
「はい」
剣銀治郎の言葉に純希は頷いた。
場所は新横浜の事務所の奥の控え室だ。
小春は今日起きたことを報告するために来ていた。
純希も当事者なので同行したのだ。
「話を聞く限りではこれ以上、状況が悪化することも無いだろう」
銀治郎は、いつもの固い喋りを崩さずに言った。
「代表には問題は解決したので、コハの復帰を進言しよう」
「よかった」
銀治郎の言葉に、小春は胸をなで下ろした。
「ちなみに、下野の父親はどうなりましたか?」
純希は、気になっていたことを聞いた。
「規約違反で、アカウントを凍結した」
これは控えめな言い方だった。
本当はバックドアを使って、専用アプリを強制削除したのだ。
もちろん、バックドアは残したままで。
「もう我々とは関われない」
「動画は?」
純希はさらに聞いた。
「下野茂とその娘の動画は、こちらで完全に削除させてもらった」
動画は、下野家のPCにも転送されていたが、それもバックドアを拡散させて侵入し、削除した。
「娘が逆恨みで動画を流出させることも無いだろう」
そこまで言って銀治郎は口調を緩めた。
「まぁ……噂は残るかもしれないが……」
「それぐらいへっちゃらだよ」
小春はガッツポーズをした。
「頼もしいな」
その姿に銀治郎は滅多に見せない笑顔を零した。
(これで、一件落着……かな?)
そして、純希は肩の荷が下りた気分になった。




