三十九、目覚め
それは大型連休も終わった五月の中旬のことだった。
新横浜のビジネス街を抜けた先にある総合病院。
その一室で、加藤昌美は眠り続けていた。
事故で頭を強く打って意識を失ってから、既に一年が経過しようとしていた。
当初負った怪我も治り、今現在、身体はどこにも異常がないのだが、意識だけが戻らないのだ。
すると、点滴を打たれた腕の指先がピクッと動いた。
続いて目を閉じた眉が揺れる。
そして、ゆっくりと目が開いた。
「ああぁ~、よく寝た~」
気分爽快な昌美は、おっとりと呟いた。
「あれ~?」
そして、ワンテンポ遅れて自分の異常に気付く。
口には酸素呼吸器がつけられ、腕には点滴の針が刺さっている。
「ここは~?」
周りを見渡すと見慣れない風景で、すぐ横にはベッドサイドモニターが置いてあった。
「病院~?」
「……加藤さん!?」
ちょうどそこへ病室に入ってきた看護師が、驚きの声を上げる。
「はい~」
昌美はおっとりと応えた。
「目が覚めたんですね!」
その言葉に看護師は慌てた。
「今、すぐ先生を呼んできます!」
そして、泡を食って病室を後にする。
「はい~」
おっとりと微笑んだ昌美は、もう一度、病室内を見渡した。
それから疑問を口にする。
「わたし~、どうしてこんなところに寝てるんだろう~?」
その頃、加藤小春は仕事の真っ最中だった。
♢♦♢♦♢♦
「はぁ……はぁ……はぁ……」
小春は荒い息でグッタリと敬吾に身を預けた。
「はぁ……はぁ……今日も……はぁ……しっかりイッたね……はぁ……」
息を整えながら、敬吾はニッコリ微笑んだ。
「はい……」
小春ははにかんだ。
そこで、小春の仕事用のスマホが振動した。
それを小春は訝しんだ。
仕事中、連絡が入ることはまずなかったからだ。
小春は出ようかどうしようか迷った。
「出てあげなさい」
その様子を敏感に感じ取った敬吾が、柔らかく即した。
「失礼します」
頭を下げてから、小春はスマホを取った。
発信者は剣銀治郎だった。
「小夜子です」
スマホに出た小春は、源氏名を名乗った。
『小春か?』
いつも冷徹な銀治郎の声に焦りが混じっているのを感じて、小春はますます訝しんだ。
『姐さんが、目を覚ました』
「えっ!?」
銀治郎の言葉に、小春は驚きの声を上げた。
『今日の仕事は中止にする』
頭の中がグルグルして、顔面蒼白になった。
『富山様に代わってもらえるか?』
「お母さんが目を覚ましたそうです……」
意識が飛びそうになるのを辛うじて堪えながら、小春は敬吾に状況を説明した。
「うちのボディガードがお話があるそうです」
そして、震える声とともに、スマホを敬吾に渡した。
「富山です」
銀治郎と敬吾が大人の会話をしている間に、小春は急いで服を着た。
「お話はわかりました」
二人の通話はすぐに終わった。
敬吾からスマホを渡された小春は、再び耳に当てた。
『撤収が終わったら、ロビーに降りてくれ』
小春の答えも待たず、銀治郎は通話を終了させた。
銀治郎も焦っているのだ、と小春は感じた。
「申し訳ありません」
それで少し落ち着きを取り戻した小春は、敬吾に頭を下げた。
「気にしなくていいよ」
服を着ながら、敬吾は微笑んだ。
「今は日和さんのことが大事だ」
そこで敬吾は、母の源氏名を口にした。
「どっちにしろ、私は一回しか出せないしね」
ネクタイを締めながら、敬吾は笑った。
「料金も全額払い戻ししてくれるそうなので、逆に悪いぐらいだよ」
「ありがとうございます」
敬吾の懐の深さに感謝しながら、小春はもう一度、深々と頭を下げた。
ホテルを出たルセデスAMG・GT63SEパフォーマンス4ドアクーペは、事務所には戻らず、直接、病院へと向かった。
病院へ着くと、夜間入り口から中に入る。
「お母さん!」
そして小春は、病室に飛び込んだ。
「コハちゃん~」
小春を見るなり、昌美はおっとりと微笑んだ。
「お母さん!」
本当に目覚めていた母に、小春は涙ながらに抱きついた。
昌美に取り付けられていた酸素呼吸器とベッドサイドモニターは既に取り外され、点滴だけが残っていた。
「よしよし~、一人にしちゃってごめんね~」
自分の胸に顔を埋める小春の頭を愛おしそうに撫でながら、昌美はおっとりと謝った。
「わたしが眠ってる間は~、伸郎君のお世話になってたんだって~?」
それから、おっとりと聞く。
「うん……」
昌美から離れた小春は、涙を手で拭いながら答えた。
「お母さんが寝ている間は、あたしが仕事をしてたんだよ」
それから小春は、なんでもないような口調で、サラリと言った。
「えっ~?」
だが、それを聞いた昌美の顔色が変わる。
「コハちゃんが~、仕事を~?」
珍しくうろたえながら、昌美は聞き返した。
「うん……あたし、お母さんの仕事を継いだんだよ」
そんな母の心情には気付かず、小春は胸を張った。
それを聞いた昌美は黙って俯いてしまう。
「お母さん?」
そこで初めて、小春は昌美の異変に気付いた。
「どうして~……」
昌美は細い声で呟いた。
「?」
それが何を意味するかわからず、小春は首を傾げた。
「どうして~、そんなことしたの~!?」
顔を上げた昌美はありったけの声で怒鳴った。
「えっ……だって……」
まさか怒られると思わなかったので、小春は戸惑った。
「借金も返さないといけないし……お母さんの治療費も払わなきゃだし……生活もあるし……」
母の剣幕に小春はしどろもどろになった。
昌美が怒ることは滅多にない。
記憶する限り、一度もないと言ってもいい。
それで小春はことの重大さを理解した。
「伸郎君は~、支援してくれなかったの~?」
「してくれるって言ったけど……」
昌美の詰問に、小春は歯切れ悪く答えた。
「でも、お母さんだって断ったじゃん!」
そして、逆ギレする。
「借金返済だって、代表が肩代わりしてくれるって言ったのを断ったから、あたしも断ったんだよ!」
小春は声を張り上げて怒った。
「それは~、わたしがもう汚れてたからだよ~」
そんな娘に、昌美は反論した。
「でも~、コハちゃんは違ったでしょ~?」
それから、強く聞いた。
「それは……」
その問いに、小春は言葉を詰まらせた。
「今すぐ~、やめなさい~」
おっとりと、それでもハッキリとした口調で、昌美は言った。
「嫌っ!」
しかし、小春は首を横に振った。
「お母さん、目覚めてもすぐに仕事に戻れる訳じゃないでしょ!?」
その一言が、小春の怒りの火に油を注いだ。
「ちゃんと歩けるようになるのに、半年は必要って聞いたよ!」
それは病院に行く途中で銀治郎から聞いた情報だった。
「それまで誰が入院費や生活費を稼ぐの!?」
怒りの収まらない小春は、手を広げて抗議した。
「わたしが復帰できるまで~、伸郎君に支援を頼んであげる~」
「それじゃあ、今までの苦労はなんだったの!?」
母の矛盾した考えに、小春はさらに怒った。
「~……」
それを聞いた昌美は黙り込んだ。
「純ちゃんは~、このこと知ってるの~?」
それから矛先を変える。
小春が塚田純希を好きなことは昌美も知っていた。
深い関係にあることも。
小春が仕事を始める前に使っていた避妊具は、昌美が提供したものだった。
「知ってるよ」
小春はふてくされ気味に答えた。
「純ちゃんは~、嫌がってないの~?」
「それは……」
母の問いに小春は言葉に詰まった。
表面的には嫌がってない。
けれど、内心はわからない。
「今でもしてるんでしょ~?」
昌美はおっとりと聞いた。
「してるよ」
それに小春は正直に答えた。
「きっと純ちゃんは~、やめて欲しいって思ってるよ~」
「あたしはね」
純希の話題を持ち出され、怒りが冷めた小春は、静かに言った。
「こんな仕事をしてるから、純希に好きになってもらうことはもう諦めてるんだ」
まるで歌うように。
「だから、純希の存在は仕事を辞める理由にはならないよ」
寂しく。
そんな娘の覚悟に昌美は、なにも言えなくなってしまった。
「と、に、か、く」
そこで自分が言いすぎたことに気付いた小春は、気を取り直して宣言した。
「あたし、仕事を辞めるつもりないから」
「お母さん~、許さないわよ~」
昌美も昌美で、引くつもりはなかった。
「二人とも、今日はそれぐらいにしておいたほうがいい」
そこで、それまで話を傍観していた銀治郎が口を開いた。
「もう夜も遅い」
銀治郎は諭した。
「これ以上の言い争いは、他の病室の迷惑になる」
「でも、銀兄ぃ……」
それに小春は不満の声を上げた。
「姐さんも、目覚めたばかりだから、まだいろいろい混乱しているだろう」
だが、銀治郎は取り合わなかった。
「コハも少し頭を冷やした方がいい」
「そうね~」
銀治郎の言葉に、昌美は頷いた。
「わかった」
口では言ったが、小春は全然納得していなかった。




