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第9話「噛みつく女王」

一日一話、朝七時公開です。

やる気は、ある。ありすぎるくらいある。

だが、死ぬ気で調教しても、きんせんか賞は五着だった。前世の知識は、コースの攻め方や展開の読み方は教えてくれても、一勝馬の体を速くする方法までは教えてくれない。

(どうすればいい。気合いで脚が速くなるなら、苦労はしない)

手立てが、見つからない。テレビまで失った俺は、悩みを抱えたまま、黙々と調教をこなす日々を送っていた。

調教の帰り道、坂路のふもとで順番を待ちながら、ぼんやりとほかの馬たちを眺めていた。

そのときだった。

一頭の牝馬が、坂路を上がってきた。

青みがかった黒い毛並み。すらりと長い首。歩くたびに、尾がゆるやかに揺れる。

待機所にいた牡馬たちが、一斉に首を上げた。

彼女が、ちらりと流し目をくれる。それだけで、一頭の牡馬が隣の馬にぶつかり、もう一頭がその場でくるくると回り出した。騎乗していた調教助手が、悲鳴を上げながら手綱を引いている。

(……なんだ、あれは)

「ダンスインザベッドだよ」

隣で、オトメノイチジクさんが言った。

「去年の桜の女王さ。この美浦で、あの子に目を合わせて平気な牡馬はいないよ」

(ダンスインザベッド……!)

もちろん知っている。前世で何度も見た名牝だ。桜花賞を勝った、超良血の女王。

そして、俺はもう一つ知っていた。

暮れの香港で大敗して以来、彼女は調子を崩している。この一年、どこを走っても勝てない。だが来年の春、府中のマイルで、彼女は鮮やかに復活する。

◇

気づいたときには、俺は彼女の方へ歩いていた。

「あ、あの!」

振り向いた女王の目が、すっと細くなった。

次の瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。

「いっ……てえええ!」

噛まれた。思いきり、噛まれた。

「気安く寄らないでくださる? わたくし、知らない顔は嫌いなの」

(こ、これだから女ってやつは……! 美人はいつもこうだ。前世でも、受付の美人に話しかけただけで、内線で警備を呼ばれた)

(……いや、待て。今は俺も女だった)

俺は痛む首をさすることもできず――そのまま頭を下げた。

「あなたは、来年の春に復活します」

女王の耳が、ぴくりと動いた。

「……なんですって?」

「今、調子が悪いのでしょう? 今年は勝てなくて、苦しむと思います。でも、来年の春、府中のマイルで、あなたは絶対に勝つ。そこまでの道筋を、俺は知っています」

「あなたが、なぜわたくしの未来を知っているの」

(前世で見たからです、とは言えない)

「……夢で、見ました」

女王は、しばらく黙って俺を見ていた。

「で? わたくしにそれを教えて、あなたに何の得があるの」

俺は、深く息を吸った。前世で、取引先に値引きをお願いしたときのように。

「スランプ脱出の道筋を、お教えします。代わりに――さっきの、牡馬たちを手玉に取ったやり方を、教えてください」

◇

女王は、目を丸くした。

それから、ふっと笑った。

「……おかしな子。いいわ。乗ってあげる。ただし、その夢が外れたら、もう一度噛むわよ」

「あざーすっ!」

俺は、噛み跡の残る首を、深々と下げた。

(取引のためなら、首の一本くらい、喜んで差し出す。それが、日本のサラリーマンだ)

その夜、オトメノイチジクさんにあきれられた。

「あんた、あの気が強い女王に弟子入りしたのかい。命知らずだねえ」

首筋の噛み跡は、三日消えなかった。

お読みいただきありがとうございます。

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