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第8話「英雄の背中」

一日一話、朝七時公開です。

若駒ステークスから、俺は変わった。

年の瀬に「一勝馬は一勝馬だ」と悟ったはずの俺は、もうどこにもいない。英雄に「また一緒に走ろうね」と言われたのだ。あの言葉を聞いて、のんびり飼い葉を食って暮らせるおじさんがいるだろうか。いや、いない。

(「また一緒に走ろうね」)

俺はこの一か月、この言葉を一日三百回は反芻(はんすう)した。

「また」。また、だ。つまり、次がある。英雄は、俺との未来を想定している。

「一緒に」。二人で、という意味だ。

(そうだろう?)

「走ろうね」。人生を、だろう。文脈的に。

(……これは、ほぼプロポーズでは?)

前世の俺は、キャバ嬢の思わせぶりな「馬場さんだけ♪」にもそう簡単には騙されなかった。言葉の裏を読む力には、自信がある。

だが、俺は知っている。英雄は二〇〇六年の暮れに引退する。

引退した英雄は、種牡馬になる。そして毎年、全国から集まる何百頭もの名牝と――

(……許せない)

まだ何も始まっていないのに、俺は見知らぬ名牝たちに激しく嫉妬していた。

(いや、待て。逆に考えろ。英雄の初年度産駒、その一頭目の母が俺だったら?)

英雄の伝説の、最初の一行に、俺の名前が刻まれる。血統表の母の欄に、モモジリビジン。

(……最高じゃないか)

気づけば俺は、まだ影も形もない子の名前を考え始めていた。英雄と俺からちょっとずつ名前をとって――

モモジリインサートとか、いいな……トゥンク……

(整理しよう。決めた俺の目標は、四つだ)

言葉にすると、自分でもどうかしていると思う。だが、このトゥンクは本物だ。そして競馬オタクの頭は、こういうとき勝手に計画書を作り始める。

【英雄攻略・事業計画】

一、英雄と、もう一度走る。このあと、英雄が走るのはG2とG1だけだ。同じゲートに入るには、俺も最低でG2に出られる馬にならなければならない。期限は、英雄が引退する二〇〇六年の暮れまで。残り、約二年。

二、英雄の告白に応える。もう一度並んで走った、その時に。

三、英雄の子を、産む。英雄は引退後、種牡馬になる。種付けには全国の名牝が殺到し、選ばれるのは良血の牝馬か、実績のある牝馬だけだ。すでに両想いなので悔しいが、俺の血統は地味だ。ならば実績を積むしかない。誰も文句を言えない実績――重賞複数か、できればG1。

四、資金。前世の記憶では、英雄の初年度の種付け料は千二百万円。借金まみれの牛岡牧場には、逆立ちしても払えない。賞金で稼ぐしかない。

(結論。二年以内に、重賞2つ、それかG1を勝つ)

……書き出してみて、気が遠くなった。五百万下すら勝てなかった馬が重賞に勝とうとしている。前世の会社でこんな計画書を出したら、課長に三秒で突き返されるだろう。

だが、やるしかない。

◇

計画書を書き上げた翌朝から、俺は変わった。

年の瀬に一度捨てたやる気を、ゴミ箱から拾い直した。今度は分相応も、統計も関係ない。英雄の告白に応えるためだ。

坂路を駆け上がる。脚が止まる。それでも、もう一本。

併せ馬では古株の背中に食らいつき、振り落とされても、また食らいつく。

夜は馬房で前世の記憶をひっくり返し、中山の千六百メートルを、頭の中で何百回も走った。

息が上がるたびに、あの声を思い出す。

(また一緒に走ろうね)

(はい、走ります。死ぬ気で走ります。だから、待っててください)

田中さんが、心配そうに俺の顔をのぞき込んだ。

「モモ、最近すごい頑張ってるね……なんか、目が怖いよ」

(当然だ。俺の英雄は渡さない――英雄の子の血統表に、俺の名前を刻み込むと誓った者の目だ)

◇

二月。中山競馬場。

きんせんか賞。三歳五百万下、芝千六百メートル。

『さあ直線! 二番手追走のモモジリビジン、逃げ馬に並びかける! 粘る、粘る! ……しかし外から一頭、二頭、三頭! 差されたか! それでも食い下がる!』

(ちくしょう、差された! でも、垂れなかったぞ! 前より、ちょっとだけマシだ!)

五着。

勝ち馬との差は、わずか〇・三秒。

勝てはしなかった。だが、ゴールした瞬間、俺は少しだけ胸を張っていた。

◇

三月。弥生賞の日曜日。

昼休み、田中さんが小さなポータブルテレビを抱えて厩舎にやってきた。アンテナを伸ばして、俺の馬房の前の台に置く。

「モモも見る? 今日、ディープが走るんだよ。知ってるよね? この前一緒に走った馬だよ」

(知ってる! 世界で一番知ってる!)

画面の中で、ゲートが開いた。小さな鹿毛が、いつものように最後方に控える。

胸がトゥンクと鳴った。馬房の中で、俺は前脚を踏み鳴らした。

(来るぞ……来るぞ……四コーナー……今だ!)

直線。英雄が外から並びかける。前の馬たちを、一頭ずつ、きっちりと捉えていく。

「いけーーーッ!! 差せーーーッ!! そこだーーーッ!!」

「ヒヒーーーン!! ヒヒーーーン!!」

田中さんが飛び上がった。

「わっ、ごめんモモ! 音、大きかった!?」

テレビの音量が下げられたが、俺はさらに叫んだ。英雄がゴールを駆け抜けた。俺は興奮のあまり、馬房の壁を蹴った。

「ご、ごめん! テレビ、怖かったんだね!」

田中さんは慌ててテレビを抱え、走り去っていった。

(待って田中さん! 俺の旦那もっと見せて!)

それ以来、俺の馬房の前にテレビが置かれることは、二度となかった。

◇

夜。消灯後の厩舎は静かだ。

英雄は無敗のまま、クラシックの主役に名乗りを上げた。前世の記憶どおりだ。このあと皐月賞を勝ち、ダービーを勝ち、秋には三冠を獲る。

一方の俺は、五百万下の五着だ。

(同じ年に生まれて、同じレースを走ったのに)

きんせんか賞の五着で、少しだけ胸を張った自分を思い出す。

(……何をちょっと満足してたんだ、俺は。胸を張る暇があったら、脚を伸ばせ)

恥ずかしさで、耳の先まで熱くなった。トゥンクの熱さとは、まるで違う熱さだった。

英雄の背中は、若駒ステークスの三コーナーで見たときよりも、ずっと遠くにあった。

お読みいただきありがとうございます。

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